第14回県史だより

目次

明治初年の軽犯罪取り締まり

 明治10(1877)年3月1日、前年に島根県へ併合された因幡・伯耆・隠岐の3国で、島根県「違式かい違条例(いしきかいいじょうれい)」が施行されました(注1)。主に軽犯罪の取り締まりを定めたこの条例は、全89条からなり、第7条以下の各条では具体的な禁止行為を列挙しています。例えば次のとおりです。

第10条 禽獣ノ死肉ヲ食用ノ為メニ販売スルモノ
第84条 市中往来筋ニ於テ便所ニ非サル場所ヘ小便スルモノ
第85条 裸体ニテ道路徘徊スルモノ

 このうち第10条の違反者には75銭~1円50銭、第84・85条の場合は5~70銭の「贖金(しょくきん)」が課せられました。このほか、取り締まり対象とされた行為は、混浴の風呂屋営業、密集地での花火、往来の灯火を消すことなど、多岐にわたっています。

 同様の条例は、全国各府県で制定されました(注2)。最初に制定したのは東京府で、明治5(1872)年のことでしたが、翌年には、他府県のための雛形といえる「各地方違式かい違条例」が布告されました。島根県を含む多くの府県では、これらを「斟酌増減」して条例を制定していったわけです。

 条例のねらいは治安・風紀・衛生環境等の維持にありましたが、旧習を戒める意図も見てとれます。そのため、この条例は、法制度の歴史だけではなく、近代化へと歩み始めた当時の風俗・世情をも窺うことのできる史料として、大変興味深いものとなっています。

 条例の対象が庶民一般の日常生活に及んでいたため、内容を周知する目的で、挿絵やフリガナを付した版も発行されました。島根県の場合、『島根県違かい条例図解』(1877)という小冊子を刊行しています。現在は、その画像が 国立国会図書館のウェブサイト「近代デジタルライブラリー」で公開され、味わい深い挿絵入りの全ページが手軽に閲覧可能となっています。

 もちろん、違式かい違条例の施行以前においても、こうした取り締まりが各府県で行われていたことは言うまでもありません。鳥取について見ると、この時期、折に触れて様々な達しが出されていたことを行政資料から確認できます。

 例えば、明治初年の記録資料「鳥取県史料(鳥取県歴史)」には、明治5(1872)年9月に鳥取県が発した数箇条からなる布告が収録されています(注3)。これは鳥取・米子・境の市中へ向けられたものでしたが、「村々ニ於テモ本文ニ照準、精々注意可致(いたすべき)モノ也」との注記があり、管内一般が視野に入れられていたことは間違いありません。この布告のなかには、すでに、先に抜粋した島根県違式かい違条例の各条とほぼ同じ内容の条文を見ることができます。

一、病死ノ鳥獣肉ヲ鬻ク(ひさぐ=売る)ヘカラス(後略)
一、道路ニ於テ糞尿致スヘカラス(後略)
一、赤裸(せきら=全裸)・袒裼(たんせき=上半身裸)ニテ戸外又ハ店先ヘ出ヘカラス(後略)

 布告の前文は、こうした「野卑ノ風俗」は恥ずべきであり、「文明ノ今日」にあるまじきことだと述べていますが、衛生面への配慮も大きかったようです。肌の露出を禁ずる最後の条文も、引用部分の後では病気予防の意図を指摘していますし、別の条文は「掃除規則」を掲げ、市街を清潔に保つよう定めているのです。

 明治黎明期の日本、そして鳥取県では、今回とりあげた軽犯罪取り締まりに限らず、様々な社会制度が試行錯誤のなかで整備されていきました。「鳥取県史料(鳥取県歴史)」は、その実に複雑な過程の一端を今日に伝える貴重な史料です。では、そうした変革を庶民はどう受け止めたのか―。その解明は、近代史におけるもう一つの大きな課題といえるでしょう。

(注1)明治10(1877)年1月17日付島根県丙第10号達。合併前の島根県では明治7(1874)年に施行されています。ただし、これらの条文には随時改正が加えられました。なお、本記事で言及する条例の題名で、「かい」の漢字は「言」ヘンに「圭」ですが、ブラウザによっては正しく表示されないようですので、平仮名で表記しています。

(注2)違式かい違条例全般についての記述は、神谷力「地方違式かい違条例の施行と運用の実態」(手塚豊教授退職記念論文集編集委員会編『明治法制史政治史の諸問題』慶應通信,1977)、森田貴子「史料・文献紹介 違式かい違条例」(『歴史と地理』山川出版社,2005)に依拠しています。

(注3)「鳥取県史料 三」(国立公文書館所蔵)制度部禁令。鳥取県立図書館所蔵の稿本「鳥取県歴史」では第17巻に該当します。第6回「県史だより」もご参照ください。

(大川篤志)

室長コラム(その13):朝鮮通信使と鳥取藩

 鳥取県の江戸時代について、旧『鳥取県史』の段階から大きく研究が進んだ分野に、当時の朝鮮との関係の歴史がある。

 現在、日本と韓国、北朝鮮との関係は、竹島問題や拉致問題などを抱えており、この問題は鳥取県にも直接関係する問題だが、日本海に面する鳥取県にとって、対岸の朝鮮半島と友好的な関係を築いていくことは今後とも重要な課題でありつづけるだろう。友好な関係の基礎には、事実に基づいて過去の両国の関係を知っておく必要がある。そのため当室では今年度、「鳥取県史ブックレット」として「江戸時代の鳥取と朝鮮(仮題)」を刊行すべく、現在その準備を進めている。

 鳥取と朝鮮との関係でよく知られているのは、赤碕沖で漂流した朝鮮人12名を救助し手厚くもてなし帰国させた文政2(1819)年の史実、そして、竹島問題の中で注目されている元禄時代(17世紀末)に起きた安龍福の2度の来鳥であろう。ブックレットでは、これらについて記すのはもちろんだが、あまり知られていない事柄についても記す予定である。

 その一つが、鳥取藩と朝鮮通信使の関係である。朝鮮通信使は、江戸時代を通じて12回来日しているが、直接鳥取藩の領域を通行したことはないので、鳥取藩との関係といってもピンとこないかもしれないが、通信使の来日は国家的な事業であり、通信使が江戸へ往復する道中の人馬の供出を幕府は諸大名に命じており、鳥取藩でもそれを務めている。

 一番詳しい記録が残っているのは、明和元(1764)年の11回目の通信使の時。県立博物館所蔵の「鳥取藩政資料」中に含まれる『朝鮮人一件控』と題する冊子が、この時の鳥取藩の対応を詳しく伝えている。それによれば、鳥取藩では、前年の8月に、通信使が江戸から帰国する際、他の数藩と共に、遠州新居(静岡県新居町)から山城国淀(京都市伏見区)迄の間、通信使が乗る馬を差し出すよう幕府から命を受け、実際、翌年3月27日に通信使一行が新居に到着以後、4月4日に淀で船に乗り換えるまで、無事に務めを果たした。実は、ちょうどこの直後大阪の宿舎で、対馬藩の通詞鈴木伝蔵が朝鮮通信使の通詞崔天宗殺害するという大事件が起こっているのだが、これは鳥取藩の役目が終わった後だった。

 この『朝鮮人一件控』の残念なことは、通信使に関する記述がほとんどないことである。この文書を記録した人物の一番の関心事は、馬の雇い入れに関する経費だった。当初の予定では、通信使は3月13日新居到着の予定だった。ところが、悪天候で予定が19日到着に延期され、鳥取藩は念のため人馬を15日から雇い入れて待機させていた。悪いことに、天候は回復せず、川止めが続いたため、ついに27日まで到着が延びた。その間、待機させていた馬の代金をどうするか、担当者はそれに苦心していた。これはこれで、当時の藩士の心情が窺えて興味深いのだが、通信使研究にとっては、もう少し、通信使の姿について書いて貰っていれば、良い史料になるのにと思わずにはいられない。ただ、鳥取藩と朝鮮通信使がけして無縁であったわけではないことは事実である。

 ともあれ、ちょうど今年は、最初の朝鮮通信使の来日から400年に当たる記念の年でもあり、近代以降に生じた抑圧と抵抗の関係ではない、友好的な時代があったことを、ぜひ多くの県民に知っていただきたいと考えている。

(県史編さん室長 坂本敬司)

活動日誌:2007(平成19)年5月

8日
中世史料調査(鳥取市歴史博物館、岡村)。
17日
民俗部会についての打合せ(米子市、坂本・樫村)。
原始古代部会についての打合せ(鳥取大学、岡村)。
21日
シベリヤ抑留に関する聞き取り調査(鳥取市気高町、西村・足田)。
22日
原始古代部会についての打合せ(鳥取大学、岡村)。
24日
第1回県史編さん専門部会(原始古代)開催。
25日
鳥取市「尚徳大学」講師(鳥取市文化センター、坂本)。
戦争体験に関する史料調査(米子市、西村)。
第1回県史編さん専門部会(民俗)開催(西部総合事務所)。
30日
史料調査(智頭町、西村・樫村)。
31日
民俗資料調査(二十世紀梨記念館・園芸試験場、樫村)。

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編集後記

 梅雨の季節となりました。外出が億劫になり家で読書という週末を過ごされる方も多いのではないでしょうか。

 タイミング良く(?)、県史編さん室では、調査研究の成果を分かりやすくご紹介する「鳥取県史ブックレット」シリーズの第1弾『織田vs毛利 ―鳥取をめぐる攻防―』を6月18日に刊行します。いわゆる「秀吉の鳥取城攻め」を中心に新史料を読み解き、新たな視点で織田・毛利戦争の全体像に迫った内容で、梅雨のお供に最適ではないかと思います。

(大川)

  

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