第150回県史だより

目次

土製支脚 ~山陰古代の炊飯事情2~

「土製支脚」とは?

 第145回県史だよりで、「湖山池南岸型移動式かまど」を取りあげました。この「移動式かまど」は、甕を載せる掛口とは別に付属部がつく非常に変わったもので、分布が限られる特殊な品であることを述べました。この中で、山陰には造り付けかまどが基本的には導入されないことにも触れました。

 では、移動式かまどだけで煮炊きしたかというと、もちろんそうではなく、かまどとともに煮炊きの際に使われたと考えられるのが「土製支脚(どせいしきゃく)」です。これは2個あるいは3個を一組として、煮炊きする甕を支えた道具で(注1)、土器と同じように粘土で形作り素焼きしたものです。土製支脚を用いる地域や時期は比較的限られており、山陰では古墳時代後期~奈良時代にかけて盛行するのですが、その他の地域の多くは弥生時代~古墳時代前期に使用されることが多かったようです(注2)。形も、円筒形、円錐形、前傾した角柱形、など様々です。山陰の土製支脚は、高さ15~20cm程度、基本的に頭部が二股に分かれ、反対側に突起が作られたり、穴が穿たれたりすることがあります(図1)。

図1
図1 土製支脚(左:米子市吉谷屋奈ヶ﨏遺跡、右:鳥取市良田平田遺跡)
(財)鳥取県教育文化財団2003『吉谷遺跡群』鳥取県教育文化財団調査報告書84
鳥取県教育委員会2014『良田平田遺跡』

土製支脚あれこれ

(1)分布

 これまで山陰の土製支脚は、島根県東部から鳥取県西部にかけて特に濃密に分布し、鳥取県東部にはほとんど存在しないとされてきました(岩橋2003)。ところが、鳥取西道路の建設に伴う発掘調査で、良田平田遺跡、高住宮ノ谷遺跡など湖山池南岸地域を中心に多数の支脚が出土し、東部でもある程度使用されていたことが判明しました(鳥取県教育委員会2014、2017)。考古学における遺物の分布が発見・発掘に大きく影響されることを実感します。


(2)地域性

 県内の土製支脚を見てみると、米子を中心とする西部の土製支脚は、比較的長めの円柱状胴体の上に二股に分かれた頭部が作られています。形や大きさが出雲のものとよく似ており、関係性が深そうです。一方、倉吉を中心とする中部の土製支脚は、西部と似たものもあるのですが、胴体が太く寸詰まりに感じられるものもあります。一見、形には大差ないようですが、内部が中空に造られるという大きな違いがあります(図2)。

図2
図2 中部の土製支脚(倉吉市福田寺遺跡)
倉吉市教育委員会1998『福田寺遺跡発掘調査報告書(2次調査)』
倉吉市文化財調査報告書第92集

 これは、土器と同じように粘土紐を巻き上げて製作しており、頂部は閉じられず孔があいています。この作り方は非常に特徴的なのですが、実は東部でも旧気高町域の土製支脚は同様に中空に造られているのです。中部に隣接する地域なので、同形態の道具を使うのは当たり前と思われるかもしれませんが、因幡と伯耆の国境を超える分布は興味深いと言えます。ちなみに、先述の湖山池南岸のものは中実(内部が空洞ではない状態)に作られるので、支脚がどこから伝わったのかを考える上で重要です。


(3)使用方法

 土製支脚の使用方法として、先ほど「甕を支える」と書きましたが、実はよく分かっていません。これまでの復元では、2個(もしくは3個)向かい合わせにした土製支脚の上に甕を載せる形が一般的でした(図3左)。

図3
図3 土製支脚の使い方

 しかし、これで中に液体を入れた甕を支えられるか、さらに古墳時代後期以降は蒸し器として土製甑(こしき)も用いられるのですが、甕の上にさらに甑を載せることが可能か、という疑問が生じます。支脚の基部を床に埋め込むなどすれば可能かもしれませんが、そのような痕跡は未発見です。また、遺跡から見つかる甕は煮炊きにより厚く煤がこびりついているのですが、土製支脚には煤はさほど付着していません。さらに、甕を上に載せていたのであれば当然下の空間で火を焚くわけですが、甕の底に煤が厚く付着するものや、その煤が燃焼して消えたものなども確認でき、かなりの火を焚いた事が想定されます。それほどの火であれば、火に近い支脚の基部や胴部も熱を受けていても良さそうですが、熱を受けた痕跡も顕著とは言えません。

 このことから、地床炉で煮炊きを行う際に、甕が転倒しないよう側面から支える役割が主だったのではないかと考えています(図3右)。甕は丸底ですが、地床炉でも比較的安定した状態で煮炊きができるので、上に甑を載せるなどの時に限って土製支脚が使われたことも考えられます。ちなみに、土製支脚と移動式かまどは別々に使用するものですが、その使い分けについては今後の検討課題です。

土製支脚の語るもの-山陰の独自性-

 古代の山陰では造り付けかまどが用いられず、煮炊きは移動式かまどもしくは炉(+土製支脚)という形態だったと考えられます(注3)。なぜ造り付けのかまどがないのか、といえば、おそらく人々が造り付けかまどは必要ない、と考えたからでしょう。その理由の一つとして、『「移動式かまど」や「土製支脚」を用いた炊事方法が確立していたから』とは考えられないでしょうか。また、造り付けかまどは熱効率の面からは有利ですが、かまどを築く手間がいることはデメリットと言えるかもしれません。また、火を使う場所が一箇所に固定されるので、それを嫌ったということもあり得ます。

 他地域との交流の中で、造り付けかまどを見聞きする機会はあったはずなので、それにもかかわらず造り付けかまどを使わなかったということは、当時の山陰の社会を考える上で非常に面白いのではないかと考えています。そういえば、弥生時代後期には四隅突出型墳丘墓を築造し、古墳時代前期に山陰型甑形土器をはじめとする独特の形の土器を使っていました。どうやら、山陰という地域は、古代にかけては独自の文化的まとまりを維持し続けていたようです。

(注1)土製支脚の使い方が明らかにされたのは戦前のことです(小林1941)。使い方がわからなかった段階では、二股になっている部分を脚、輪状を呈する突起を尻尾と考え、「犬埴輪」と呼ばれたこともありました。

(注2)九州の有明海沿岸北部では古墳時代中期~後期に土製支脚が使用されており、そこからの伝播を考える説もあります(岩橋2016)。

(注3)石見地方では山間部を中心に造り付けかまどが見つかっています。


【参考文献】

岩橋孝典2003「山陰地域の古墳時代~奈良時代の炊飯具について」『古代文化研究』第11号

岩橋孝典2016「山陰地域の土製支脚はどこから来たのか」『古代文化研究』第24号

小林行雄1941「土製支脚」『考古学雑誌』第31巻第5号(同1976『古墳文化論考』平凡社 に加筆収録)

鳥取県教育委員会2014『良田平田遺跡』

鳥取県教育委員会2017『高住宮ノ谷遺跡』

(東方仁史)

活動日誌:平成30年9月

8日
占領期の鳥取を学ぶ会(鳥取市歴史博物館、西村)。
11日
地域歴史資料所在調査(大雲院(鳥取市)、岡村)。
民具調査(日南町郷土資料館、樫村)。
12日
資料調査(樂樂福神社(日南町)、東方)。
13日
資料調査(木下家(日南町)、岡村)。
14日
青銅器調査にかかる打合せ(公文書館会議室、岡村・東方)。
17日
資料調査(公文書館会議室、現代部会委員・西村)。
18日
資料返却(八頭町、東方)。
19日
資料調査(鳥取県立博物館、岡村)。
21日
資料調査(~22日、湯梨浜町泊、樫村)。
26日
資料返却(津ノ井小学校、東方)。

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編集後記

 朝晩、冷え込むようになってきました。県史編さん室からはケヤキ並木が見えるのですが、日に日に赤や黄に紅葉していき、秋が深まっていくことを感じます。

 さて今回は考古に関する記事です。本号の記事で土製支脚というものを初めて知りました。用途としてはかつての囲炉裏(いろり)や、今日のガスコンロにもついている鍋などを支える五徳(ごとく)にあたると思います。金属製の五徳は丈夫で安定感がありますが、無機質なイメージです。一方、土製支脚の特に中空のものは、脆そうで不安定感がありますが、人が両手を広げて甕を支えているような姿がなんとも愛らしく感じます。現代人は機能美を重視するように思いますが、古代人がどのような感性で道具に形状をあたえていたのか興味をそそられます。

(樫村)

  

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