第118回県史だより

目次

近世後期の御小人

はじめに

 鳥取藩には、藩内の雑用に従事する御小人(おこびと)と呼ばれる人々がいました。

 『鳥取藩史』第2巻「職制志」(注1)によると、御小人は、藩内の必要物品の調達一切を担った裏判所という役所に所属し、平時は上下の御小人小屋に詰めていたようです。そこで御小人奉行による差配を受けて諸役所や諸役人の下に遣わされ、雑用などにあたっていました。その人数は、寛政2(1790)年には、鳥取で130人ほどだったといいます。

 このような御小人ですが、実態はあまり明らかになっておらず、『新鳥取県史 資料編 東伯耆』(2012年)、『同 西伯耆』(2015年)でも、散発的にしか記録がありません。

 そこで今回は、近世後期の御小人の様子について紹介したいと思います。

御小人の仕事

 御小人の仕事は主に雑用と言っても、平時に詰める小屋(上小屋と下小屋)によって若干異なっていたようです。

 上小屋御小人の仕事としては、御用状の受け渡し(注2)などが記録に見えます。おそらく、このような単純事務が多かったのでしょう。そのほか、参勤交代の御供も、上小屋の御小人から出されることが多かったようです(注3)。一方、下小屋御小人は、どちらかと言えば、肉体労働が多かったのではないかと思われます。文久4年(1864)からは、下小屋御小人の一部は、土木工事などを担当する御作事所の管轄になりましたが(注4)、これは、それまでの下小屋御小人の職務を反映しての処置だったと考えられます。

 もっとも、史料上では、その職務をどちらの小屋の御小人がつとめたのか分からないケースの方が多いのですが、大雑把にいえば、以上の見通しが立つのではないかと思います。

 この他、鳥取藩分知家(東館、西館)や江戸御用などのためにも御小人は集められていますが、総じて、専門性の低い単純労働に従事したものと考えられます。また、奉公の期間は、基本的には1年間だったものの、長期間つとめるものもいたようです。

御小人の徴発方法

 では、御小人は、一体どのように集められていたのでしょうか。

 「職制志」には、年貢未進者や百姓の志望者が御小人となったと記されていますが(注5)、個々の具体的な事実はあまり明らかではありません。

 御小人に関する史料が目に付くようになるのは19世紀以降からで、この時期は御小人が不足していたようです。「在方諸事控」天保14(1843)年5月18日の記事は、御小人について「元来近年より御暇願出候者而已ニて、新抱之者容易ニ罷出不申」(注6)と記しています。辞める者ばかりで、新たに御小人となる者がいなかった様子が分かります。この対策として藩は、郡を単位に御小人を徴発しましたが、これもあまりうまくいかなかったようです(注7)

 このような状況を改善するため、藩は安政4(1857)年12月、御小人の徴発方法について改革を行いました。

【史料1】

一懸り御小人出振之儀、安政四年巳十二月朔日之記ニ有之通り、百軒組ニて鬮引致し罷出候様、御改革相成居申処、近来は大数御小人相懸り、右組内之者とも難渋致し候趣相聞へ候ニ付、一座談合之上、因伯御郡々え左之通申遣す(以下略)(注8)

 
 【史料1】は「在方諸事控」文久3(1864)年12月4日の記事です。傍線部から、安政4(1857)年12月に、御小人の徴発について、「百軒組」という組の中で鬮(くじ)に当たった者一人を差し出すという方法に改められたことが分かります。

 この時期は、御小人が思うように集まらないにも関わらず、海防などのため、御小人の需要はむしろ高まっていたと思われます。そのため、御小人を差し出す責任主体と方法を規定し、御小人の確実な確保を目指したのでしょう。

(1)安政4年、岩井郡銀山村の事例

 安政4年(1857)の改革直後の村の様子を、岩井郡銀山村(現岩美郡岩美町銀山)に残された史料からみてみましょう。

 銀山村には、改革が行われたまさにその月に記された「銀山村御小人鬮取人別差別辻帳」(注9)という史料があります。これによると、百軒組の内訳は、銀山村34軒、洗井村9軒、蒲生村11軒、塩谷村(蒲生村の新田)46軒です(注10)。銀山村は一村全体が一組の中に入っていたようですが、他の三ヶ村は、村がいくつかの組に分割されていたようです(表1)。どのような基準で百軒組が分けられたのか不明ですが、周辺の村々をある程度まとめて、その中で100軒ずつ区切っていたと思われます(図1)(注11)


表1


図1

 この年の銀山村の軒数は34軒でしたが、全ての者がくじ引きの対象となったわけではなく、庄屋、年寄、組頭といった村役人はくじを免除されています。そのため、銀山村でくじを引くことになったのは、34軒中24軒でした。そしてこの組からは、山神(蒲生村の新田)の平一郎が御小人となることに決まりました。なお、平一郎には、組内から「御小人給」として20俵(1貫目)が与えられ、これは平一郎の家を除いた組内99軒が平等に負担しました。当時藩から与えられる給米は1石9斗2升(4.8俵)だったので(注12)、これは藩の給米の4倍にもなります。

(2)安政5年、蒲生村広右衛門の事例

 次に、同じ組の安政5(1858)年の事例を見てみたいと思います。この年12月、この百軒組からは、蒲生村の広右衛門が御小人に選ばれました。その際に、広右衛門が組内の四ヶ村の組頭に提出した請書が【史料2】です。


【史料2】

一私儀、此度百軒懸り之御小人ニ御雇遣され、則御給米村方江御取被成候而、私手前は、取切弐拾俵被遣候御約束ニ而、則御渡し被遣候而、慥ニ受取申候(以下略)(注13)

 史料には「百軒懸り之御小人ニ御雇遣され」という記述があります。また、広右衛門に関する別の史料(注14)には、「百軒懸り之御小人被仰付、其砌右百軒之者寄合相談之上、蒲生村広右衛門と申者、渡切り廿俵ニ而相雇(以下略)」ともあります。これらの史料を文字通りに読むと、くじではなく、百軒組の者たちが寄り合って相談し、平一郎と同じ20俵で広右衛門を御小人に雇ったということになります(注15)

 この事例から、くじに当たった者を強制的に徴発しようとした藩に対し、百軒組は、藩よりも高額の給米で人を雇うという形で御小人を差し出す場合もあったことが分かります。この事例では、広右衛門は、同じ百軒組の者か、別の組に属した蒲生村の者なのか確定できませんが、場合によっては、他の組などから融通のきく者を雇うこともあったのではないでしょうか。

 このような村の実状を藩も認識したのか、文久3(1864)年12月、当時は度々御小人を徴発し村が難渋しているという理由で、くじに当たった者に支障があれば、他村・他郡からでも代人を雇い差し出すことを認める旨が申し渡されました(注16)

おわりに

 今回は、御小人の職務について簡単に紹介するとともに、幕末の御小人が「百軒組」という組を単位に徴発されていたことを、岩井郡銀山村の事例から見てきました。しかし、御小人についてはまだまだ不明な部分が多々あります。「家老日記(控帳)」をはじめとする藩政資料や、県史編さんにおける村方文書の調査を通じて、今後その実態を明らかにしていきたいと思います。

(注1)『鳥取藩史』第2巻「職制志」(鳥取県編集、1970年、236~240頁)。

(注2)「在方諸事控」文久4年10月16日条(鳥取県編『鳥取県史 第13巻 近世資料』1978年、787頁)。

(注3)「在方諸事控」天保14年5月18日条(『鳥取県史 第12巻 近世資料』1979年、23頁)。

(注4)「在方諸事控」文久4年5月3日条(『鳥取県史 第13巻 近世資料』721、722頁)。

(注5)(注1)「職制志」。

(注6) 「在方諸事控」天保14年5月18日条(『鳥取県史 第12巻 近世資料』1979年、23頁)。

(注7)『新編 岩美町誌 上巻』(岩美町、2006年)607、608頁など。

(注8) 「在方諸事控」文久3年12月4日条(『鳥取県史 第13巻 近世資料』、662~663頁)。なお、安政4年分の「在方諸事控」は一部しか残っておらず、同年の改革の文言を「在方諸事控からうかがうことはできない。

(注9)鳥取県立博物館蔵「岩井郡銀山村山口家文書」整理番号1250。「銀山村御小人鬮取人別差別辻帳」には切紙数枚が同封されており、以下の記述は、この帳面と切紙の分析による。

(注10)後述するように、百軒組は、御小人となった平一郎に軒割で給米を与えており、その内訳は、銀山村34軒、洗井村9軒、蒲生村10軒、塩谷村46軒の計99軒である。そこに、平一郎家1軒(山神は蒲生村の新田)を加えた100軒を百軒組と考えた。

(注11) 図1の村の位置は、「天保国絵図 因幡国」(国立公文書館デジタルアーカイブ)を参照した。

(注12)御小人給1石9斗2升は安政5年の記録。

(注13)(注9)「銀山村御小人鬮取人別差別辻帳」同封の切紙。

(注14)「御小人壱詰分給米ニ付御差図願」(「岩井郡銀山村山口家文書」整理番号1249)。

(注15)なお、広右衛門は百軒組から20俵を受け取る代わりに、藩からの給米は組に渡すことになっていた(注14「御小人壱詰分給米ニ付御差図願」)。

(注16)「在方諸事控」文久3年12月4日条(【史料1】の省略部分)。

(八幡一寛)

活動日誌:2016(平成28)年1月

6日
青銅器調査の立ち会い(奈良文化財研究所、湯村)。
12日
青銅器調査の立ち会い(奈良文化財研究所、湯村)。
15日
民俗編補足調査(若桜町、樫村)。
21日
青銅器運送(~22日、湯村)。
資料調査(鳥取市議会事務局、西村・足田)。
24日
現代部会資料検討会(公文書館会議室、西村)。
25日
資料調査(鳥取県立博物館、岡村)。
26日
第2回新鳥取県史編さん委員会(公文書館会議室)。
27日
資料調査(日南町、前田)。
28日
資料調査(米子市尚徳公民館、米子市立図書館、境港市史編さん室、西村)。
29日
資料返却(江府町教育委員会、湯村)。
31日
民俗・民具調査(鳥取市三津、樫村)。

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編集後記

  梅の花が咲く季節になりました。しかし暖かいと思えば突然寒くなるなど体調管理が大変な時期でもあります。皆様、体調管理にお気を付けください。

 さて今回は、10月から県史編さん室の近世担当となった八幡専門員の第1回目のコラムです。鳥取藩の「御小人」と呼ばれる人々について執筆いただきました。「参勤交代の御供」ですから、大名行列の腰に刀を差さない荷物持ち人足のような人たちでしょう。初めてのコラムで藩政には必要不可欠ですが、あまり日の当たらない末端身分の人々にスポットをあててくれました。貴重な藩政史料である「家老日記」などの活用によって、藩政の隅々まで明らかにしてくれることを期待します。

(樫村)

  

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