第44回県史だより

目次

田下駄は縦長?それとも横長?

田下駄とは

 田下駄(たげた)は田植えなどを行う際、田んぼに足が沈み込まないために履いたものです。日本に本格的な稲作が伝わった弥生時代から使われ続けてきたものですが、農作業の機械化などにより、今ではほとんど使われなくなりました。鳥取県内の古代遺跡からも田下駄はたくさん出土しています。田下駄の基本形は、図に示したように長方形の四角い板に四つの穴を開けたものです。

池ノ内遺跡出土の田下駄の写真
(図1)池ノ内遺跡(米子市)出土の田下駄
米子市教育委員会『池ノ内遺跡』(1986)より

どの向きに履いた?

 遺跡から出土した田下駄の多くは、発掘調査報告書を見ると縦長の向きで図面や写真が掲載されています。

 考古学の世界では、出土品の図や写真を掲載する場合、それらがどのように使用されたかを念頭に置いて上下左右、表裏を決めますので、田下駄の向きが縦長ということは、縦長の向きに履いて使用されたと想定していることになります。極端に言えばスキー板を履いているような状態です。私も長らくそうだと思っていました。しかし、ある時ふと疑問を持ったのです。

田下駄は横長が主流

 その疑問は田下駄に開けられた四つの穴についてでした。よく見ると、この穴の間隔がそれぞれ同じではないことに気づいたのです。詳しく言えば穴の間隔が広いところ(図2のA)と狭いところ(図2のB)があり、それぞれが向き合う位置関係にあること、AとBを除いた残りふたつの間隔(図2のCとD)はほぼ等しいという傾向があるのです。この四つの穴には、足を固定するために紐を通したと考えられますから、穴の間隔は足の長さや幅と相関関係にあるはずで、間隔が広い方が足先、狭い方がかかとと見るのが自然です。

田下駄の穴の間隔の図
(図2)田下駄の穴の間隔
図のA側が足先となるように履いたと考えられます。

 このようにして田下駄の前後を決めたうえで、田下駄の素材となった長方形の板がどの向きで使われたかを調べてみました。対象は県内から出土した弥生時代から古墳時代の田下駄のうち約50点ほどですが、その8割が横長という結果でした。どうやら古代の鳥取県では、田下駄は横長の向きに履くのが主流だったと、私は考えています。

 田下駄には50センチを超えるものもあり、横長に履いた場合、歩きにくいのではないかという疑問もありますが、国内の民俗例では1メートルほどの長い田下駄を横長に履いていた例が知られており、横長での使用を裏付けています。

 田下駄が縦長か横長かということは、些細なことのようですが、古代人にとっては確たる理由に基づいたことなのです。横長の方が足が沈みにくい、歩きやすいといった事情があったのでしょう。このように考古学は出土品の観察を通じて「モノにものを語らせる」ことができるのです。

(湯村功)

室長コラム(その37):声に出して読みたい古文書

 江戸時代中期の元文4(1739)年2月、約5万人が参加したといわれる、鳥取藩史上最大の百姓一揆が起こった。この鳥取藩元文一揆の顛末(てんまつ)を記した『因伯民乱太平記』という書物がある。

 この書には、一揆勢が八東郡西御門(現八頭町)に集結し、その後、若桜・船岡・智頭と因幡各地を廻り、ついには鳥取城下に押し寄せたものの、藩によって鎮圧されるまでが記されている。読み物として書かれているため、必ずしも全て事実とは言えないが、登場人物の名前等は実際の事件に一致しており、元文一揆の具体的な様子を推測しうる非常に貴重な史料である。

 百姓一揆の実録という性格上、この書物を読んだり書写したりすることは公然とはできなかったと思われるが、それでも秘かにかなりの写本が作られたようだ。その写本の内の一つを、私の地元である鳥取市河原町の「古文書を読む会」の皆さんと現在一緒に読んでいる。

 その中で気付いたことは、この書は本来語られることを想定して記述されているということだ。例えば、船岡の大庄屋宅で、鎮圧のため同家に来ていた藩の役人二人に対して、一揆の首謀者(張本)が自分たちの考えを言い放つ場面は、以下のように記される。

張本進み出で、ヤア推参(すいさん)なり、虎の威を借る狐づら、御上を掠(から)め、下をも潰し、御褒美に目がくれて、立毛(たちげ)も見えぬ夏勘定、とても餓死する我々なれば、存生(ぞんじょう)の内に此の一礼を申さんため、是まで押し寄せ参りたり、我々が存念(ぞんねん)は、汝ら二人が首を取りて、蒲生峠(注1)と長和瀬坂(注2)に、獄門の木に掛けさらし、その後は城府へ参り、大悪人の米村(注3)を、一歩刻みにする存念、あれ生け捕れよと下知(げち)すれば、皆々一度にどっと寄る

 実際に声に出して読んでいただければお分かりだと思うが、この文章はいかにもテンポが良く、まさに講談のような口調で書かれている。現在の講談の源流は、江戸時代の「太平記読み」だと言われている。「太平記読み」は、南北朝の内乱を描いた『太平記』やその他の軍記物を台本として講釈した芸能者だが、中には大名の前で講釈する者もあり、彼らの語る武士の規範は、当時の社会の価値観に大きな影響を与えた。『因伯民乱太平記』の作者は、この書が「太平記読み」によって語られることを想定して、いわばその台本として作ったと推測できよう。したがって、本来この書物を読む際には、声を出して読むのが正しいのかもしれない。ただ、藩当局への批判が込められたこの書物は、江戸時代には声に出して読むことはできなかっただろうが。

(注1)蒲生(がもう)峠:因幡国の東端、但馬国との国境の峠(現岩美町)。

(注2)長和瀬(なごうせ)坂:因幡国の西端、伯耆国との国境(現鳥取市青谷町)。

(注3)米村:当時の郡代米村所平のこと。

(県史編さん室長 坂本敬司)

活動日誌:2009(平成21)年11月

1日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、坂本)。
2日
未来をひらく鳥取学専門講座講師(米子市コンベンションセンター、坂本)。
6日
民具調査(湯梨浜町泊歴史民俗資料館、樫村)。
7日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(県立博物館、坂本)。
10日
11日
未来をひらく鳥取学専門講座講師(米子市コンベンションセンター、西村)。
未来をひらく鳥取学専門講座打合せ(米子市立山陰歴史館、樫村)。
13日
民具調査(湯梨浜町泊歴史民俗資料館、樫村)。
16日
資料調査(鳥取市埋蔵文化財センター、湯村)
民俗調査(三朝町坂本他、樫村)。
18日
未来をひらく鳥取学専門講座講師(米子市立山陰歴史館、樫村)。
19日
日野町歴史研究会講師(日野町山村開発センター、大川)。
20日
資料返却(鳥取市あおや郷土館、湯村)。
民具調査(湯梨浜町泊歴史民俗資料館、樫村)。
21日
墳丘測量(~23日、鳥取市古郡家、湯村)。
25日
未来をひらく鳥取学専門講座講師(米子市コンベンションセンター、岡村)。
26日
民具調査(湯梨浜町泊歴史民俗資料館、樫村)。
27日
資料調査(鳥取市埋蔵文化財センター、湯村)。
30日
墳丘測量(鳥取市古郡家、湯村)。
資料調査(~12月2日、外務省外交史料館(東京都港区)、西村)。
刊行物編集会議(西部総合事務所、樫村)。

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編集後記

 師走となりました。11月に頒布を開始した新鳥取県史手記編『孫や子に伝えたい戦争体験』は、予想を大きく上回る反響で、早々完売となり皆様に御迷惑をおかけしました。現在、増刷を進めておりますので、今しばらくお待ちください。また来年1月には、鳥取県の中世に関するブックレットの刊行も予定しています。こちらも御期待ください。

(樫村)

  

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