調査・研究(東伯耆の中世城館)

市場城跡の発掘調査 その2「巨大な空堀と土塁」

 倉吉市の市場城(いちばじょう)跡は、丘陵裾部に平面がコの字形をした大きな空堀と土塁をもつ城跡です。(参考:市場城跡の発掘調査その1

 市場城の大きな特徴の一つである空堀は、堀底から堀上まで7m以上、堀底から上を見ると高いかべ(土塁や切岸)となっています。堀幅は広いところで15mほど、底は、広いところで3mほどあり、堀底を歩くと壁に囲まれた感じがし、巨大な防御施設の中を歩いている実感がわいてきます。この空堀の内側に設けられるのは高さ5mの土塁で、内部の曲輪面をがっちりと囲んでいます。
 市場城内部の曲輪を強固に囲む土塁は、鳥取城を攻める際に織田方によって構築された「太閤ヶ平」(たいこうがなる:鳥取市)や、羽衣石城(うえしじょう:湯梨浜町)の背後に築かれた十万寺(じゅうまんじ)の城跡(湯梨浜町)にみられる土塁に匹敵する、県内有数の規模を誇ります。
 現在は竹林となっていますが、整備がすすみ、歩きやすくなったところもあり、お城好きの方も、歴史好きの方にも是非おすすめしたい城跡です。
 立派な堀を歩き、見事な防御施設をぜひ体感ください。

竹林に囲まれた空堀の写真です。堀底の両側には急な斜面が見えます。

空堀の様子

[令和4年3月15日掲載]


市場城跡の発掘調査 その1

 令和3(2021)年10月から12月にかけて、倉吉市市場に築かれた市場城(いちばじょう)跡の発掘調査を実施しました。この城跡は倉吉市内の南西にあたる小鴨(おがも)地区にあり、古代から戦国時代にかけてこの地域を本拠とした有力な在地領主、小鴨氏の本拠地であったといわれています。この地区の東隣が岩倉地区で、小鴨氏が居城とした岩倉城があった岩倉山がそびえています。
 江戸時代に記された『伯耆志』によると市場城跡は、小鴨氏の家臣、岡田某の城と記されています。丘陵裾部に長さ100mを超える大きな空堀と「コ」の字形の土塁があり、方形に区画した城跡の姿は、周囲に例をみない大規模なものです。その内側に南北160m、東100mの範囲の大きな曲輪を二段(曲輪1、2)設けており、城郭として格は高く、家臣が築いた城というよりは小鴨氏自身が整備したものと考えるほうが、妥当と思われます。

 今回の調査は、改めて市場城の平面形(縄張り)を確認することと、曲輪内で発掘調査を行うことで、市場城跡の性格を明らかにしていくことが目的です。
4回にわたり調査の様子をお伝えします。

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竹藪のあたりが市場城(南から)

[令和4年2月掲載]


大谷城跡ウォーク開催しました!

 令和3年12月5日(日)に大谷城跡ウォーク(倉吉市大谷)を開催いたしました。
このウォークは埋蔵文化財センターと倉吉市教育委員会、大谷地区公民館が連携して実施し、地元からの参加者も併せて30名の方がウォークに参加されました。天気予報では"くもり"とありましたが、時折日が差すものの、断続的に降る小雨模様の中でのウォークとなってしまいました。舗装された山道をゆっくり歩いて約1時間半で大谷城跡に到着。舗装路から一転して城跡内では、雑木の中を縫うように歩き、切岸を上っては下りと、険しい山城を体感した城跡探訪となりました。
 城跡をあとにして、20分ほど道を進むと次は「四王寺山展望台」です。展望台からは北栄町、琴浦町、日本海を広く眺望できるのですが、曇天のため少し残念な眺望となってしまいました。しかし、眺望した参加者からは「いい場所だから寺や城がつくられたんですね」、と立地条件の良さに納得された感想をいただきました。
 また、地元で歴史に詳しい谷口さんに「四王寺山」は地元で「しほっつあん」と親しみのある名で呼ばれていたこと、白村江の戦い(667)の後、海防と国家の安全を願って「四王寺」がこの山に建てられたこと、戦時中に塹壕が設けられたことなど、四王寺山にまつわる深い歴史について楽しく解説いただき、内容の充実したウォークとなりました。

photoR40119-1大谷城に挑む前の様子です。

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晴れた日の願望

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四王寺、四王寺山について解説いただきました!


1月7日からは企画展「因幡の中世城館」を展示します!

 新春、令和4年1月7日(金)から、企画展「因幡の中世城館」が始まります。

このたびの展示は、令和3年に発掘調査を行った狗尸那(くしな)城跡(鳥取市鹿野町)の発掘調査成果と、因幡守護山名氏が守護所を置いた天神山城跡(鳥取市)の資料を展示します。
 狗尸那城跡では、曲輪(くるわ:兵士たちが駐屯した平坦面)と曲輪の間に築かれた切岸(きりぎし:敵の侵入を防ぐため人工的に削った急な崖)を中心に発掘調査を行いました。その結果、主郭(しゅかく:頂上部に設けられた中心的な曲輪)と曲輪2の間に設けられた切岸で山石を積み上げた石積み跡を確認しました。昨年度に行った発掘調査では、主郭で大型の礎石建物跡を確認しており、今回見つかった石積みは礎石建物と関連するものと考えられます。
 天神山城跡では、昭和47(1972)年、昭和63(1988)年に、県立鳥取農業高等学校(現緑風高等学校)の建設、改築に伴って発掘調査が行われました。これらの調査で、手づくね(ろくろを使わない)で成形した京都系土師器皿や中国などからもたらされた貿易陶磁などが豊富に出土しており、今回は当時の調査成果の一部を展示します。
 会期は1月7日(金)から2月18日(金)です。ぜひご覧ください。

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狗尸那城跡:切岸石積み調査状況(2021)

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天神山遺跡調査状況(1972)


「狗尸那城跡」現地説明会を開催しました!

 令和3年11月27日(土)、「狗尸那(くしな)城跡」現地説明会を実施し、事前に申込みいただいた34名の方に発掘調査成果を見学いただきました。
 当日は時折雨やアラレが降る寒い中での開催でしたが、曲輪1と曲輪2の間に作られた高さ5mの切岸(きりぎし:人工的に削った急な崖)で確認した石積みを見所として、じっくり見学いただきました。
 石積みは写真の切岸中腹で確認したものですが、もともとはこの切岸の西面と南面の斜面全体に設けられていたと考えています。昨年度、山頂部の主郭(曲輪1)でみつかった礎石建物跡と関連する可能性が考えられます。
 参加者の方から「石積みの石材はどこからもってきたのか」「亀井矩(これのり)との関係はどうなんですか」と素朴な疑問や、鋭い意見をいただきました。石積みの石材は狗尸那城周辺からとれるものです。今回みつかった石積みは、狗尸那城の最終段階の整備と推定されるため、亀井氏との関連性も考えていく必要があります。

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見学の様子


「飛田砦(ふだとりで)」の現地踏査

 地域協力の一環として、鳥取市鹿野往来交流館「童里夢」さんと一緒に、鳥取市鹿野町河内(こうち)にある「飛田砦」の現地踏査を行いました。「飛田」は地元で「ふだ」と呼ばれています。河内上条集落の裏山に築かれたこの城は、尾根の先端にあり、三方を土塁と空堀によって囲んだ独特な構造が特徴です。
 土塁は高さ2から3m、幅4mほどあり、同規模の土塁をもつ城館は周辺にありません。この独特な構造から天正8から9年にかけて鳥取城を取り囲んだ織田方の陣城の一つではないかと考えられています。
 この「飛田砦」の正面には織田方と毛利方との戦争のなかで、一時期織田から毛利へと転じた地元の鹿野氏が立て籠もった荒神山城があり、この城を強く意識した場所に築かれたことがわかります。
 10月23日(土)には、「童里夢」さんによるウォークイベントが企画されいてます(詳細はこちらhttps://shikano-dream.jp/)。
鹿野町河内を歩き、織田・毛利戦争の陣城に想いをはせてみてはいかがでしょうか。

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西から見た飛田砦

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曲輪内の様子

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飛田砦付近から見た荒神山城(正面右側の山)

[令和3年10月掲載]


雁金山尾根をガイドしました

 令和3年10月3日、「道の駅 清流茶屋かわはら」さんの主催による「山城!トレッキング 其の壱」で現地ガイドを行いました。今回の舞台は以前ご紹介した(以前のURL)丸山から鳥取城のある久松山へ伸びる尾根を縦走する陣城攻めルートです。
 参加された方にとっての一番の難所は、最初の登り口だったかもしれません。道標地蔵わきにわずかに見える登り口から尾根上の散策路にたどり着くまでには、人ひとり通れるくらいの細い尾根道や、ロープを使って急な斜面を登る箇所があり、参加者から「最初から三徳山みたいだ」などと驚きの声が聞こえてきました。
 そこを注意して越えると、陣城が姿を現します。今回の尾根は久松山に向かって徐々に高くなっていくのですが、尾根上の比較的広い高まりが陣城として使われたようです。鳥取市教育委員会さんが作成された縄張り図(中世城館の平面図)を元に、陣城ごとに城跡の特長について説明を行いつつ休憩をとっていただきました。
 緩やかな尾根に築かれた陣城は、臨時に作られた性格を反映しているようで、曲輪という兵士が駐屯する平坦面の造成や、切岸と呼ばれる人工的な急崖といった防御施設には、他の山城にみられるほどしっかりと整えられた印象はありません。
 しかし、そんな陣城ばかりではなく、尾根の真ん中に位置する雁金山城は、しっかりと削り込まれた曲輪や切岸が残る本格的な山城です。
 このコースは尾根上に並ぶ陣城群を一度に楽しめる上に、平和記念塔をはじめ、鳥取市街地への眺望が開ける場所があります。陣城の歴史と共に一味違った風景散策が楽しめた今回のトレッキングに、参加者の方々は大変満足されていました。

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散策の様子(1

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散策の様子(2)(鳥取市街地の風景に見入る皆様)

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鳥取市街地を見渡すパノラマ

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平和記念塔に到着したところ


桝形城現地踏査

 鳥取市河原町八日市集落の南にそびえる桝形城(ますがたじょう)の現地踏査を行いました。
 この桝形城(標高236m)は、『鳥取県中世城館分布調査報告書』に掲載されていない城ですが、遺跡として登録されています。
 このたび、「道の駅かわはら」の方、地元の歴史に詳しい方と一緒に現地踏査を行いました。
 地元に伝わるところによれば山頂に「桝形」の小字が残っているため、枡形城と呼ばれるとのこと。
「桝形」とは「桝のような四角の形」を意味し、この言葉が山城で使われているとすれば、城や曲輪の出入り口を指す「虎口(こぐち)」に四角く区画された空間が設けられているのではないか、と期待を膨らませて山頂を目指しました。
 山道は降雨により滑りやすくなっていましたが、足元を確認しながら、慎重に尾根道を上に登っていきました。昔から使われてきた山道なので、尾根筋に沿って窪んでおり、比較的歩きやすくなっています。
 30分かけてたどり着いた頂上の主郭は約20m四方で、一部に削り残した土塁がみられます。雑木によって見通しはききませんが、北側は木立の間から千代川の両岸に広がる平野部が望めます。
 山城の本体は主郭から北側に延びる尾根で、7段ほど人工的につくられた曲輪が並び、先端近くに堀切が設けられています。それぞれの曲輪は自然の尾根地形を生かしてつくられ、曲輪間の切岸は約4~5mと、それほど高いという印象はありませんが、大きな自然石や岩盤を上手に取り込んで防御施設としています。
 残念ながら今回のルートで「桝形」と呼べるような「虎口」を確認することはできなかったのですが、自然地形を上手に取り込んで作られた山城、本来の姿を確認することができました。

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桝形城遠景

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主郭の状況

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主郭(写真上の平坦面)と切岸

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先端近くの堀切

[令和3年9月掲載]


雁金山周辺の現地踏査を行いました。

 久松山に築かれた鳥取城と、その北方にこんもりとした丸山の周辺は天正9年頃の織田・毛利戦争における鳥取城側の最前線でした。久松山と丸山の間は標高100m前後の尾根が続いており、雁金山城(かりがねやまじょう)をはじめ尾根筋に沿って点々と陣城がつくられていました。
 この陣城の跡やルートの確認をすることが今回の踏査の目的です。また、今回の踏査には地域振興事業の参考にされたいということで、道の駅清流茶屋かわはらの職員の方も一緒に現地を訪ねました。
 丸山交差点脇にひっそりとたたずむ道標地蔵が登り口の目印で、細くて急な山道を登ると、しっかりとした尾根上の道へとつながります。道中には尾根筋の一部が高まって広い平坦な面となる場所がいくつか見られます。中には低い土塁によって囲まれた曲輪や、階段状の曲輪、尾根を切断する堀切もみられ、この尾根筋が鳥取城をめぐる攻防の中にあったことがうかがえます。山頂に主郭、山麓に階段状の曲輪をかまえ、堀切によって遮断する山城とは趣が異なり、長く伸びる尾根上の曲輪の間を尾根道がつないでいる、そんな印象を受けました。
 道中には眺望の開けた場所があり、久松山とはちがう角度から、鳥取市街地を一望できるビュースポットとして、新たな発見がありました。道の駅の方々も「地域の魅力を発信できる素材を体感できてよかった。」と喜ばれていました。

 このように当センターでは地域振興を進める機関にも協力し、"地域興し"を目指しています。

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現地確認の様子

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尾根上からの眺望

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道標地蔵と登り道(写真の赤色の▲印)

[令和3年9月掲載]


狗尸那城跡現地ウォーク

 令和3年4月、開催を中止した狗尸那城跡クリーンウォークに替えて、狗尸那城跡現地ウォークを令和3年6月26日に開催しました。
 当日はクリーンウォークにお申込みいただいていた13名の方を、麓の小鷲河地区公民館から狗尸那城へとご案内しました。道中は休憩とりながら、ゆっくりと歩いて登ったのですが、思いのほか傾斜のきつい道が続いたので、参加者の方は大変お疲れの様子でした。
 しかし、城跡に着き、敵の侵入を阻む急な切岸、立派な横堀や竪堀をはじめ、狗尸那城の構造からみえる防御の工夫などをご案内するうち、参加されたみなさんが生き生きと達成感のある表情になり、見ごたえのある城跡にそれぞれ思いをはせていらっしゃるようでした。
 曇天の中、途中小雨に降られることもありましたが、午後4時半過ぎには、みなさんが小鷲河地区公民館に到着し、無事、現地ウォークを終えることができました。
 今回のようなウォークや見学を行う中で、大切な文化遺産、狗尸那城の価値や魅力をお伝えするとともに、遺跡を保護する意識を高めていきたいと考えています。

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[令和3年6月掲載]

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センター紹介

 久松山地域は戦国時代以降鳥取城が築かれ、鳥取藩32万石の中心地でした。現在でもこの地域は県庁があり、行政の中心地となっています。

 しかし、戦国時代から遡ること約800年前の奈良時代、県庁から4キロほど離れたこの国府町に国史跡因幡国庁(現在の県庁にあたるもの)がありました。今ではひっそりとした田園地帯ですが、因幡三山(甑山(こしきやま)、今木山(いまきやま)、面影山(おもかげやま))に囲まれ、当時の面影を残す万葉の歴史と古代の出土品にあふれた万葉の里となっています。
 この歴史豊かな万葉の里の一角に埋蔵文化財センターはあります。


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