調査・研究(東伯耆の中世城館)

桝形城現地踏査

 鳥取市河原町八日市集落の南にそびえる桝形城(ますがたじょう)の現地踏査を行いました。
 この桝形城(標高236m)は、『鳥取県中世城館分布調査報告書』に掲載されていない城ですが、遺跡として登録されています。
 このたび、「道の駅かわはら」の方、地元の歴史に詳しい方と一緒に現地踏査を行いました。
 地元に伝わるところによれば山頂に「桝形」の小字が残っているため、枡形城と呼ばれるとのこと。
「桝形」とは「桝のような四角の形」を意味し、この言葉が山城で使われているとすれば、城や曲輪の出入り口を指す「虎口(こぐち)」に四角く区画された空間が設けられているのではないか、と期待を膨らませて山頂を目指しました。
 山道は降雨により滑りやすくなっていましたが、足元を確認しながら、慎重に尾根道を上に登っていきました。昔から使われてきた山道なので、尾根筋に沿って窪んでおり、比較的歩きやすくなっています。
 30分かけてたどり着いた頂上の主郭は約20m四方で、一部に削り残した土塁がみられます。雑木によって見通しはききませんが、北側は木立の間から千代川の両岸に広がる平野部が望めます。
 山城の本体は主郭から北側に延びる尾根で、7段ほど人工的につくられた曲輪が並び、先端近くに堀切が設けられています。それぞれの曲輪は自然の尾根地形を生かしてつくられ、曲輪間の切岸は約4~5mと、それほど高いという印象はありませんが、大きな自然石や岩盤を上手に取り込んで防御施設としています。
 残念ながら今回のルートで「桝形」と呼べるような「虎口」を確認することはできなかったのですが、自然地形を上手に取り込んで作られた山城、本来の姿を確認することができました。

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桝形城遠景

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主郭の状況

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主郭(写真上の平坦面)と切岸

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先端近くの堀切


雁金山周辺の現地踏査を行いました。

 久松山に築かれた鳥取城と、その北方にこんもりとした丸山の周辺は天正9年頃の織田・毛利戦争における鳥取城側の最前線でした。久松山と丸山の間は標高100m前後の尾根が続いており、雁金山城(かりがねやまじょう)をはじめ尾根筋に沿って点々と陣城がつくられていました。
 この陣城の跡やルートの確認をすることが今回の踏査の目的です。また、今回の踏査には地域振興事業の参考にされたいということで、道の駅清流茶屋かわはらの職員の方も一緒に現地を訪ねました。
 丸山交差点脇にひっそりとたたずむ道標地蔵が登り口の目印で、細くて急な山道を登ると、しっかりとした尾根上の道へとつながります。道中には尾根筋の一部が高まって広い平坦な面となる場所がいくつか見られます。中には低い土塁によって囲まれた曲輪や、階段状の曲輪、尾根を切断する堀切もみられ、この尾根筋が鳥取城をめぐる攻防の中にあったことがうかがえます。山頂に主郭、山麓に階段状の曲輪をかまえ、堀切によって遮断する山城とは趣が異なり、長く伸びる尾根上の曲輪の間を尾根道がつないでいる、そんな印象を受けました。
 道中には眺望の開けた場所があり、久松山とはちがう角度から、鳥取市街地を一望できるビュースポットとして、新たな発見がありました。道の駅の方々も「地域の魅力を発信できる素材を体感できてよかった。」と喜ばれていました。

 このように当センターでは地域振興を進める機関にも協力し、"地域興し"を目指しています。

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現地確認の様子

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尾根上からの眺望

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道標地蔵と登り道(写真の赤色の▲印)


狗尸那城跡現地ウォーク

 4月、開催を中止した狗尸那城跡クリーンウォークに替えて、狗尸那城跡現地ウォークを令和3年6月26日に開催しました。
 当日はクリーンウォークにお申込みいただいていた13名の方を、麓の小鷲河地区公民館から狗尸那城へとご案内しました。道中は休憩とりながら、ゆっくりと歩いて登ったのですが、思いのほか傾斜のきつい道が続いたので、参加者の方は大変お疲れの様子でした。
 しかし、城跡に着き、敵の侵入を阻む急な切岸、立派な横堀や竪堀をはじめ、狗尸那城の構造からみえる防御の工夫などをご案内するうち、参加されたみなさんが生き生きと達成感のある表情になり、見ごたえのある城跡にそれぞれ思いをはせていらっしゃるようでした。
 曇天の中、途中小雨に降られることもありましたが、午後4時半過ぎには、みなさんが小鷲河地区公民館に到着し、無事、現地ウォークを終えることができました。
 今回のようなウォークや見学を行う中で、大切な文化遺産、狗尸那城の価値や魅力をお伝えするとともに、遺跡を保護する意識を高めていきたいと考えています。

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狗尸那(くしな)城跡の発掘調査を始めました。

 昨年度、発掘調査によって主郭に大型の礎石建物跡がみつかった狗尸那城跡。6月14日から補足のトレンチ(試掘溝)調査を始めました。
 山頂の城本体では、切岸の状況や、主郭部にある土塁に区画された窪んだ地形の様子を探っています。また、狗尸那城に関連する可能性がある山麓の平坦面にもトレンチを掘って、建物跡などがあるかどうかを確認する予定です。
 調査は6月末までを予定しており、調査後には現地説明会を行い、調査成果を皆さんにお伝えしたいと思います。

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写真1 窪んだ地形を調査中

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写真2  切岸を調査中


なぜ3月1日なのか

 あと一月でいよいよ令和2年度の年度末となり、鳥取県庁も人事異動の季節になりますが、今回の亀井茲矩シリーズは、豊臣秀吉における3月1日の意味について考えてみます。

 

 当センターでは令和2年の狗尸那(クシナ)城の発掘調査に関連して、戦国武将である亀井茲矩の文献調査により、豊臣政権下における茲矩の居所と行動の調査を行いました。

 

 豊臣秀吉は、天正10年6月に織田信長が本能寺の変で倒れたのち、自らが天下統一に向けての動きを加速します。亀井茲矩は豊臣大名の一人として、秀吉の天下統一に向けての諸合戦に動員されています。

 

 天正10年の明智光秀との山崎の合戦、天正11年の柴田勝家との賤ヶ岳合戦では、茲矩は鹿野城守備のため出陣を求められていません。京芸(秀吉と毛利輝元)和睦が成立していないなど、東側での合戦に当たって、西側への備えをする必要があったためだと考えられます。

 

 天正12年の小牧・長久手の合戦、翌13年の紀州攻めなどにも出陣を求められていません。

 どうも別用務があったようです。

 

 そして、総無事全国制覇に向けて天正14年の島津攻め(九州陣)、天正18年の小田原攻め(小田原陣)、文禄元年から朝鮮役(朝鮮陣=文禄の役)がはじまります。ここからは茲矩は出陣してきます。

 

 茲矩の活躍はさて置き、秀吉の居所と行動を、藤井譲治「豊臣秀吉の居所と行動」)でみてみると、朝鮮陣については、「去一日御延引候」とあるように延期になっていますが、秀吉の出陣は九州陣、小田原陣、朝鮮陣いずれも3月1日を出陣日としていました。

 

 秀吉は天正13年、関白政権の樹立と同時に、戦国大名間の領土紛争の豊臣裁判権による平和的解決を掲げて、すべての戦国の戦争を私戦として禁止する政策を「惣無事の儀」とよんで、九州をはじめとして関東・東北から朝鮮にまで及ぼしましたが(『日本大百科全書』)、これとの関連があるのかないのか、なぜ3月1日なのか、その理由はよく分かりません。

 

 なお、慶長2年からの慶長の役に茲矩が出陣したように書かれたものを見かけますが、茲矩は出陣していません。

 

 (この記事は、山室恭子『黄金太閤』を参考にしました。)

 

 詳しくは、3月に刊行予定の因伯の中世城館シリーズ3冊目『鹿野亀井とクシナ城』でご確認下さい。

 

 調査研究に関連したコラムは、不定期ですが、引き続き3月の年度末まで継続いたします。

 

                              (北村順一)


発掘調査で出て来なかったモノ、出て来たモノ(その2)

 令和2年に発掘調査を行った狗尸那城で出土した遺物の謎解きシリーズの2回目は、出て来たモノを取り上げます。

 

 1回目でご説明したように、狗尸那城から出土した遺物の年代観は、15世紀半ば頃から16世紀前半までという見立てでした。

 

 狗尸那城は現地踏査により、遺構の一部に16世紀前半までの年代観を示しているエリアがありました。

 

 そうなりますと、山名や尼子、毛利や秀吉といった外部勢力が角逐をはじめ、その勢力による改修が行われる前の段階で既に築城されていて、居住空間として使用されていたとする想定も成り立ちます。

 (陶磁器が使用され・後に廃棄されるまでの期間だけでは説明が難しいので。)

 

 狗尸那城のある鹿野町では、関係者のご尽力で町史の研究が進められてきましたが、平成の大合併前に刊行された『鹿野町誌』では狗尸那城が詳しく取り上げられていませんでした。ところが、その後になって、鹿野町史専門委員会による『研究紀要 平成8・9年度』において続報として紹介されています。

 

 強大になった山名氏の勢力を削ぐため、将軍足利義満が仕掛けた1391年の「明徳の乱」で反乱軍側に与した山名満幸が西に逃れる途中で、子どもの一人を家臣に託し(狗尸那城のある)鷲峯山に隠匿し、居城を構え、永禄8年(1565)に4代後の後裔が県東部の岩井郡陸上村(現岩美町)に移り、因幡守護山名氏に付属し、3村を与えられた、というのがそれまでの顛末です。

 紀要の筆者(元鹿野町教育長の長岡健二さん(故人))は、「この城として考えられるのは鷲峯山ということから、狗尸那城ではないだろうか。」と推定されています。

 

 天正8年(1580)11月26日の日付で、山名豊弘が宇治・大野・陸上3ヶ所を与えた山名豊弘宛行状(写カ)が『新鳥取県史』(鳥取県公文書館・平成27年刊)に掲載されています。

 

 永禄7年に、布施天神山城から「鹿野」(狗尸那城との想定)に退去していた、但馬系因幡守護を毛利軍が攻撃しています。そして、永禄8年には彼らが但馬方面に退去したと考えらています。   (『戦国の因幡武田と鹿野城』(鳥取県埋蔵文化財センター・令和2年刊))

 但馬系因幡守護が狗尸那城に退去して来る前から同城に居住していた者たちも、但馬系因幡守護と共に永禄8年に東方面に退去していった、と推測できるかも知れません。

 

 「16世紀前半までの戦国時代の鹿野には、但馬守護家山名氏に属する山名一族が領主として君臨し、同時に気多郡を統治しており、気多郡に但馬守護家の勢力が扶植されていた。」(小坂博之「因幡鹿野城の発掘」『中世の考古学』)とあり、16世紀前半までは但馬勢の居城であったとの推測も成り立ちます。

 

 山名満幸後裔説には疑問点もありますが、歴史ロマンでもあり、可能性として考えておきたいと思います。

 

 出て来るとは思っていなかった、出土品が出て来たことで、狗尸那城の築城起源を改めて考えるきっかけになりました。

 

 詳しくは、3月に刊行予定の因伯の中世城館シリーズ3冊目『鹿野亀井とクシナ城』でご確認下さい。

 

 調査研究に関連したコラムは、不定期ですが、引き続き3月の年度末まで継続いたします。

 

                              (北村順一)


秀吉発給文書から統一政権における合戦について考える

 秀吉発給文書から考えるシリーズ、前回は文書の様式などについて考えましたが、2回目の今回は、秀吉の統一政権への過程において、戦闘の形態、評価方式がどう変化したかを考えてみたいと思います。

 

 秀吉は、天正9年の鳥取城攻め、同10年の備中高松城攻めを転換点として、信長没後の同10年の山崎合戦、同11年の賤ヶ岳合戦と天下統一に向けて快進撃をつづけます。

そして、天正12年には徳川家康・織田信雄と小牧・長久手合戦で戦います。

 

 秀吉発給文書に出て来る「陣立書」とは、特定の合戦を想定し、そのために自己の軍勢を最も効果的に配置したもので、制定者の花押または印章が据えられているもので、小牧・長久手合戦が契機となって生まれたとされています。

 

 戦国後期に鉄砲が普及したことで、戦闘の主力が鉄砲足軽による集団戦に移行するなど戦闘の形態も大きく変容し、城郭建築や武具、文書様式にも変化がみられました。

 

 鎌倉時代からの「着到状」や「軍忠状」によって武士が自らの戦功を主人に上申する方式から、主人が制定した「陣中条目」に基いて奉行人の指図で行った武士の働きぶりを軍監(目付・横目)が判断する方式に変わりました。このような過程で「陣立書」が生まれました。

 

 小牧・長久手合戦の陣立書には、因幡関係では「宮部善浄坊 合弐千五百」とあります。天正17年の宮部継潤の軍役が「弐千」で更に「合」とあるので、宮部継潤の組下として亀井茲矩の参加を想定しましたが、実は茲矩はこの合戦には参陣していなかったものと考えられます。

 

 次はずーっと下って、「慶長の役」です。

 『新鳥取県史』(1777号)に文禄四年(1595)正月十五日の高麗国動御人数帳が掲載されていて、「高麗城々留守居之事」として、亀井武蔵守(茲矩)があがっています。朝鮮のどこかの城の留守居役に任じられていました。ですから、文禄の役と同様に慶長の役にも参陣したとばかり思っていました。

 

 ところが、亀井茲矩の居所と行動の調査を進めていく中で、慶長の役が行われた、慶長2年から同3年に亀井茲矩は別の所で仕事をしているらしいことが分かって来ました。

 

 改めて、慶長の役の前後の文書に当たってみました。

県立図書館から借りた『毛利家文書之三』932号に、秀吉の御朱印が据わった慶長二年二月廿一日の 「豊臣秀吉高麗陣陣立書写」が載っていました。

 

 総合計 拾四万千五百人の動員規模で、茲矩の名前が書かれていた文禄4年正月十五日時点の総計十六万人の動員規模より縮小されています。そして、前あった茲矩の名前は、「城々在番衆」から外れていました。

 

 文書をみることに変わりはありませんが、それまでは武士自らが「着到状」や「軍忠状」によって戦功を主人に上申する方式(実績報告)でしたが、それが主人が制定した「陣中条目」(事業計画)に基いて奉行人の指図で行った武士の働きぶりを軍監が判断する方式に変わっていました。

 それまでの実績報告とは異なり、事業計画方式に変わっているので、計画変更があり得るということを頭に入れて、事業実績を確認しないといけないと知らされ、それからは県立図書館にある参謀本部編の『日本戦史』で確かめるようにしました。(『日本戦史』は、大日本帝国陸軍参謀本部が、英知を結集して膨大な資料を解析・編纂したものです。)

 

 (この記事は、三鬼清一郎「陣立書の成立をめぐって」を参考にさせていただきました。)

 

 詳しくは、3月に刊行予定の因伯の中世城館シリーズ3冊目『鹿野亀井とクシナ城』でご確認下さい。

 

 調査研究に関連したコラムは、不定期ですが、引き続き3月の年度末まで継続いたします。

 

                             (北村順一)

 


発掘調査で出て来なかったモノ、出て来たモノ(その1)

 令和2年に発掘調査を行った狗尸那城は、遺構の残存状態はとても良好ですが、遺物・文献は少なく、まして文献ではストレートに狗尸那城と書かれた一次史料はありません。

 また、遺構についてもそれだけで年次比定の決め手にするのは困難が伴います。

 そこで、遺物・遺構・文献(狗尸那城と書かれたモノ以外の一次史料も含めて)を相互に対比しながら凡その年代を推定せざるを得ません。

 

 ということで、まずは出土した遺物(陶磁器)について見ていくことにします。

 

 1回目は、出て来なかったモノを取り上げます。

 

 お城ファンの皆さんの中には、「杉山城問題」ということをお聞きになられた方もあるかと思います。

 出土した遺物と縄張り遺構の年代観が一致しないことから、築城主体に対して異なった見解が提起されるなどの論争があり、見解の一致をみていないという問題です。

 

 狗尸那城の場合もこの問題に突き当りました。

 少量ではありましたが、出土した遺物の年代観は、15世紀半ば頃から16世紀前半までという見立てです。

 一方で、横堀や竪堀の連結、礎石建物など、遺構からみると研究者の多くが16世紀後半と評価されます。

 この年代観は、製作されてから、持ち込まれる年代観を示していて、使用され・後に廃棄されるまでの期間は考慮されていません。

 

 ですから、陶磁器を使用するような山城の使い方を想定した場合、ある程度の時期差を考慮することも必要だと考えられます。

 

 他地域の例ですが、甲斐の武田勝頼(信玄の後継者)が構築し、躑躅ヶ崎(つつじがさき)館から移転した新府城ですが、ここから出土した遺物は古い年代観を示しましたが、新府城の築城年代が特定できることから、新府城跡の出土遺物は躑躅ヶ崎館から移転と共に搬入されたとの解釈がされているようです。

 

 一方で、陶磁器を使用しないような山城の使い方も想定しておく必要があります。

 

 多くの発掘調査に携わられた研究者からは、「発掘調査では16世紀後半の遺物は出ない。」と云われます。

 戦国時代になると合戦が日常化したことで、近江にある浅井長政の小谷(おだに)城のように、山城が居住空間になったような戦国大名も出てきますが、そうではなくて純粋な軍事拠点の枠割を付与された山城もあったと考えられます。

 

 これも他地域の例ですが、「軍事拠点の城は、遺物の消費が殆どない可能性が高い。」という見解もあります。

 

 東国の方では、陣中に「器」を持参するようにとか、器の種類を規制するような文書や、城の在番は30日分の支度と、「薄漆」を持参し、番中支度というような文書も残っています。

 (この部分は、HP「お城の研究史」を参考にさせていただきました。)

 

 狗尸那城は、遺構からみると、改修が繰り返された形跡があると考えられます。

 戦国時代の鹿野郷は、山名や尼子、毛利や秀吉といった外部勢力が角逐する場でした。

 遺物、文献は少なく、遺構だけで判断することも困難で、決して容易ではありませんが、鹿野郷を取り巻く政治・軍事情勢も検討することで、その時々の狗尸那城の役割を考えながら、考察を進めています。

 

 詳しくは、3月に刊行予定の因伯の中世城館シリーズ3冊目『鹿野亀井とクシナ城』でご確認下さい。

 

 調査研究に関連したコラムは、不定期ですが、引き続き3月の年度末まで継続いたします。

 

                             (北村順一)


毛利氏発給文書から豊臣政権への統一過程をみる

 毛利氏発給文書から豊臣政権への統一過程をみる

 

 前回は、亀井茲矩あて秀吉発給文書から豊臣政権の成立過程をみて来ましたが、今回は因幡・伯耆に多大な影響を及ぼした毛利氏の発給文書から、毛利氏が豊臣政権へ移行する過程における文書の変化について、先行研究(『中世のなかに生まれた近世』山室恭子氏)をご紹介しながら、みて行きたいと思います。

 

【書式】前回と同じように、差出し署名、書止め、宛所の敬称といった観点でみて行きます。

 <差出し署名>

 「名乗り+花押」だったものが、「花押」だけに変わっていきます。

 <書止め>

 「恐々謹言」(書状系)、「状如件」(如件系)から、「也、以上」と命令口調に変わっていきます。

 <宛所の敬称>

 漢字で「殿」と書いていましたが、「とのへ」と平仮名書きに変わっていきます。

 

【内容】こういった形式の変化ばかりでなく、内容についても変化がみられます。

 「宛行」、「安堵状」から「命令」、「掟」への変化です。これは、主君-家臣間で相互の意思疎通があったものが、主君側(奉行という官僚機構)から一方的に家臣に与える方式に変化しています。

 こうした主君-家臣間のつながりの希薄化の中にあって、「官途状」だけが家臣との絆(きずな)をつなぎ止める役割を果たしました。

 

【背景】こうした変化の背景には次のような背景がありました。

 毛利氏は、安芸の国人領主から戦国大名化を遂げ中国地方の雄にまで成長し、後には反織田勢力と結んで信長に敵対し、秀吉とも長年にわたる抗戦を続けますが、天正10年の本能寺の変により和睦して一旦戦いを終結させていました。そして、秀吉の天下統一の過程の中で、天正13年春に秀吉-毛利(輝元)間で京芸和睦がなります。

 そして、天正16年には輝元自らが、関白になっていた秀吉に臣従の礼をとり、上洛します。

 

 そして、輝元が7月に上洛して秀吉に謁見し、帰国した時から書式の尊大化が起こっています。

 

 毛利氏の領国が豊臣政権の勢力下に組み込まれました。領国内の惣国検地、官僚機構などにより、戦国大名から近世大名化していく過程の中で、文書の内容や書式が変化したものだったようです。

 

 『秀吉の接待~毛利輝元上洛日記を読み解く~』二木謙一氏が参考になります。

 

                              (北村順一)


統一政権の成立過程を亀井茲矩あて秀吉発給文書からみる

 文書は、差し出す側が、自分を相手に対してどのように位置付けているかで表現が変わります。

 今の県庁が発出する文書も、差し出す相手とのバランスによって差出人名義が決められます。

 県庁では、これまでから差出人の押印を省略する公印省略文書がありましたが、菅内閣における行政手続での印鑑廃止の動向を受けて、一層推進する動きが出てきています。

 

 秀吉の時代にも伝統的な書札礼(しょさつれい:手紙の書き方)はありましたが、それに則り、又ははみ出していく形で変わっていきます。

 

 秀吉が統一政権の成立過程において、自らの権威を文書の上にどう表現し、相手に押し付けたか。

 

 今回の亀井茲矩シリーズは、国立歴史民俗博物館が所蔵する亀井家文書の中から代表的な秀吉発給文書について、その原本から秀吉文書の年代による用紙の使い方や文書の様式の変化を見ることで、皆さんと一緒に確かめていきたいと思います。

 

 別表と見比べながら読み進めてください。

 

<差出し署名>

 木下藤吉郎、羽柴秀吉への改姓、筑前守、豊臣と名乗りが変わりますが、署名、押印にも変化が見られます。天正11年にライバルの柴田勝家を倒す賤ヶ岳合戦までは名乗り+花押でしたが、同12年に徳川家康と戦った小牧・長久手合戦の頃より花押から朱印に代えています。花押の自署よりも印の方が薄礼で、相手に対して尊大な態度です。後にそれが加速し、名前を書かずに朱印だけにしてしまいます。天正13年に秀吉が関白に任官したことが反映していると考えられます。

 

<書止め>

 今の手紙でも、謹んで申し上げる意味で、最後に「敬具」「謹言」などと書きます。秀吉は天正12年までは「恐々謹言」を用いていましたが、関白任官後天正13年から書止め文言を「候也」と命令口調に変えています。対等な人に差し出す書状でなく、上位下達の「直書」とよばれる様式で、相手を見下した上から目線の文書になっています。それまでは同盟的な側面を持っていた亀井茲矩との関係が、主君と家臣の関係に変わったことを意味していると考えられます。

 

<宛所の敬称>

 県庁の文書では、従来は差し出す相手に「殿」を付けていましたが、今では「様」変わりして久しくなります。

 秀吉は、それまでは漢字で「殿」のくずし字を書いていましたが、天正13年の途中から「とのへ」と平仮名書きに変えています。「殿」の方が厚礼、「とのへ」の方が薄礼であり、こんな所にも差を付けている念の入れようです。

 県庁での電子メールのやり取りで、「〇〇様」でなく「〇〇さま」と打って電子メールを送られてくる方(もちろん筆者より上位職)がありますが、意識されているのでしょうか。

 宛所の位置も、「殿」から「とのへ」の変化に合せて、月日の「月」の字あたりから書き始めていたものを、「月」と「日」の中間あたりに下げているようで、相手を見下げた態度になります。

 

<料紙>

 天正17年(1589)年の文書から、料紙の大きさが一挙に巨大化し、料紙の種類も通常の奉書紙から厚手で皴のあ大高檀紙に変わっています。原本を同縮尺でコピーしていますのでお分かりいただけると思います。秀吉が天正13年に関白に任官し、同14年に太政大臣に就任し、全国制覇を視野に納めた時期に当たります。

 

<差出し押印>

 これまで日付の「日」の下に捺されていた朱印が、文禄元年12月の文書から「日」の字に掛る位置に捺されるようになります。自分の名前を「日」の下に書くのがへりくだった書き方だという決まりがありましたが、尊大化の流れの中で秀吉はこれを嫌ったものと思われます。天正18年に小田原北条氏を滅ぼし、奥羽仕置きで全国制覇を実現し、天正20年(12月8日に文禄に改元)は朝鮮侵略(文禄の役)を始めています。

 

<編年>

 文書番号30の知行宛行状のように年次が書かれている秀吉文書は少ないですが、以上のような文書の形と様式の変化から発給された時期がある程度判断されます。書かれた内容から判断する場合とも一致すればいいですが、中にはそうでない場合もあり悩ましいことがあります。

 

<追記>

 この記事を読まれている皆さんは先刻ご承知ですが、この時代、文書の本文などは「祐筆」(ゆうひつ)と呼ばれる書記官が書き、秀吉などの差出人は花押のみでした。

 

(この記事は、『国立歴史民俗博物館研究報告 第45集』『国立歴史民俗博物館企画展示「近世の武家社会」図録』などを参考にして、一般向けに再構成したものです。)

 

<補足>

 秀吉が、亀井茲矩を含む因幡の大名たちに大坂城普請を命じた、宮部兵部少輔(長煕)あての文書が『新鳥取県史』1776号で掲載されています。

 『新鳥取県史』では、大名たちの表記が「殿」となっていて、年次を文禄3年カとしています。

 『豊臣秀吉文書集六』では、大名たちを「とのへ」と表記していて、年次を文禄3年としています。

 この文書を所蔵している大阪城天守閣が刊行した『生誕400年記念特別展 豊臣秀頼展』図録に原本が掲載されていますが、それを見ると、大名たちを「とのへ」と書いているようで、年次を慶長3年と比定しています。大阪城天守閣から掲載許可をいただきましたので、末尾に原本を掲載しますので皆さんもご自分の目でお確かめください。

 書かれた内容はひとまず置いておくとして、秀吉文書の様式からすると、「殿」を用いた文書を文禄3年に比定するには無理があると思われます。

 

 詳しくは、3月に刊行予定の因伯の中世城館シリーズ3冊目『鹿野亀井とクシナ城』でご確認下さい。

 

 調査研究に関連したコラムは、不定期ですが、引き続き3月の年度末まで継続いたします。

                              (北村順一)

 

豊臣秀吉朱印状

 

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センター紹介

 久松山地域は戦国時代以降鳥取城が築かれ、鳥取藩32万石の中心地でした。現在でもこの地域は県庁があり、行政の中心地となっています。

 しかし、戦国時代から遡ること約800年前の奈良時代、県庁から4キロほど離れたこの国府町に国史跡因幡国庁(現在の県庁にあたるもの)がありました。今ではひっそりとした田園地帯ですが、因幡三山(甑山(こしきやま)、今木山(いまきやま)、面影山(おもかげやま))に囲まれ、当時の面影を残す万葉の歴史と古代の出土品にあふれた万葉の里となっています。
 この歴史豊かな万葉の里の一角に埋蔵文化財センターはあります。


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