調査・研究(因幡の中世城館)

史料で事実が証明されたワケ(その2)

 元旦の記事で、津村別院の近所に亀井茲矩屋敷があり、大坂御坊移徒御法事記に載ったことから、茲矩の大坂屋敷が津村にあったことが確かめられたことをお伝えしました。

 

 これを「その1」として、今回から亀井茲矩シリーズは2回にわたって(合計3回シリーズ)、ひょんなことから事実が証明されたワケシリーズをお届けします。

 

 「その2」は、天正10年6月8日の茲矩による秀吉見参と琉球守の拝命です。

 

 天正10年6月2日、本能寺の変で信長の死を知った秀吉は、毛利と和談して中国大返しで東上する途中、6月7日に姫路城に入リましたが、翌8日に茲矩は秀吉に見参。

「汝に出雲国を與(あた)へんと約せしに、今事変に処して、遽(すみや)かに和を毛利氏に講ずるに至れり。復た如何ともすべからず。願くは出雲以外に於て、汝の欲する所を選べと。茲矩曰く、光秀誅に就かば、海内六十余州、挙げて麾下(きか)に属せんこと、火を睹(み)るよりも明らかなり。然れども、茲矩の海内の地に於ける、出雲を除く外、望む所なし。若し琉球国を賜はらば、伐(う)ちて之を取らんと。秀吉大いにこれを壮なりとし、腰間に挿む所の金団扇を採り、其の中央に、六月八日秀吉と署名し、右辺に羽柴筑前守と書し、左辺に亀井琉球守殿と書し、手づから之を授けて、他日の証左と為す。」と『道月餘影』にあります。

 

 その後、茲矩が唐浦の海戦(文禄の役)で文禄元年6月2日に李舜臣に敗北を喫し船を捨てて逃げたときに、茲矩が秀吉から拝領した団扇が朝鮮軍に接収されました。

 

 朝鮮側の記録によると、「於敵船中、捜得金団扇一柄、中央書曰六月八日秀吉署名、右辺書羽秀筑前字五字、左辺書亀井琉球守殿六字蔵于漆器」と、6月8日秀吉という署名があり、右辺には羽柴筑前守という五字が、左辺に亀井流求守殿の六文字が書かれており、漆甲に入っていたようです。

 

 茲矩が李舜臣に敗北を喫し、船を捨てて逃げたときに、茲矩が秀吉から拝領した団扇が朝鮮軍に接収されたことで、事実が裏付けされました。

 

 更に、羽柴秀吉書状(折紙) 亀井家文書(『新鳥取県史』1540)の「先度者被罷上見参ニ入」と符合し、この文書が天正10年に比定できる根拠の一つとなりました。

 

 「先度者被罷上見参ニ入、満足候、其城之儀、境目之事に候間、弥丈夫覚悟専一候、兵粮等之儀、五百石も善浄より可被差籠旨申遣候、請取候て能々可被置候、自然(羽柴)秀吉此方隙入事も可在之候、此時候間、堅固之儀、兼而申遣候、普請等用心かた、何も不可有由断候、恐々謹言、

    十月十九日         秀吉(花押)

「(切封)(墨引)」                 羽筑

 亀井琉求守殿 御宿所     秀吉

(この記事は、『津和野町史』などを参考にしました。)

 

 詳しくは、3月に刊行予定の因伯の中世城館シリーズ3冊目『鹿野亀井とクシナ城』でご確認下さい。

 

 調査研究に関連したコラムは、不定期ですが、引き続き3月の年度末まで継続いたします。

                              (北村 順一)


菅政権と徳川政権のペーパレス化

 菅内閣になって、行政手続での印鑑廃止やペーパーレス化、デジタル化を推進する動きが加速しています。

 あと三か月すると鳥取県庁も人事異動の季節になりますが、鳥取県庁における人事異動の発令は、ペーパレス化や事務の簡素化などの観点から、所属長からの辞令書交付による発令が、所属長からの口頭による発令、更にはデータベースでの公開で発令に代えるなど究極のペーパレス化となって久しくなります。

 

 このシリーズ、今回は菅政権と徳川政権のペーパレス化について考えてみます。

 

 当センターでは令和2年度に鳥取市鹿野町にある狗尸那(クシナ)城の発掘調査を行いましたが、その関連で、戦国武将である亀井茲矩の文献調査を行いました。

 

 茲矩は、秀吉が鳥取城攻めをした天正8・9年の鹿野城堅守を評価され、秀吉から気多郡を申付られます。

 秀吉の小田原城攻めを前にした天正17年には気多郡13,800石の秀吉朱印状が発給されています。

 

 豊臣秀吉朱印状(折紙) 亀井家文書(『新鳥取県史』1714)

   因幡国之内気多郡壱万参千八百石事、令扶助訖、右之内弐千八百石無役、残而壱万千石之分、五百五

  十人軍役可相懃候也、

    天正十七

      十二月八日   (秀吉朱印)

               亀井武蔵守(茲矩)とのへ

 

 センターでは、年度末前の3月中を目途に因伯の中世城館シリーズ3冊目として、『鹿野亀井とクシナ城』の発刊に向けた編集作業の追い込みに入っていますが、折角ですので、茲矩が最初に拝領した朱印状原本を所蔵されている国立歴史民俗博物館にお願いして原本の写真を掲載し、皆さまにご紹介する予定です。

 

 次に、関ケ原合戦後、家康から高草郡24,200石を加賜されたと『道月餘影』(茲矩公三百年祭の明治45年に亀井家により発行)をはじめ編纂物にはすべてそう書かれています。

 

 慶長14年には、茲矩の後嗣政矩の上意による婚姻に伴って領知された河村郡5,000石を合せて4,300石となります。

 

 茲矩は、湖山池の干拓工事、大井手用水路の開設など、高草郡内での執政が認められますので、高草郡の加増は間違いないはずでしたが、念のために一次史料を探しましたが見当たりません。

 

 関ケ原合戦後の全国規模での領知再配分に関して、後に肥後熊本藩に領知替えとなった細川忠利から、前領豊前小倉藩の領知宛行に関する書付の有無を聞かれた父忠興は、「権現様より豊前一国、豊後之内拝領申候時、御書出少も無之候、我等に不限、いずれも其分にて候つる」と答えています。

 

 土佐山内家の場合も、「土佐国拝領仕候、但、御判物は頂戴不仕候」で、榊原康政が家康の使者として山内一豊の下に赴き、「御感ニ被思召之旨被仰出、土佐国拝領」の旨を伝達しています。

 福島正則の場合も、井伊・本田両名が使者として芸備二ヶ国拝領の旨を口頭伝達しています。

 

 関ヶ原合戦後の領地宛行に際しては、いずれの大名に対しても、宛行の朱印状も領地目録も発給されていなかったようで、家康の使者による伝達、口頭発令だったようです。

 

 400年前に、大名たちにとって何より重要な領知宛行状がペーパレス化・押印廃止されていたことになります。

 

 ただ、その理由は「関ヶ原合戦後の領地配分に際しては、その実質的な決定と執行が家康によってなされていることは疑いないけれども、同時にその法的、制度的観点からするならば、それらの領地配分、給付の主体は依然として(豊臣)秀頼なのであって、家康の名をもってすることはできなかった。」ということで菅政権における目的とはまったく異なっていたようです。

 

 (この記事は、笠谷和比古・黒田慶一『豊臣大坂城』を参考にしました。)

 

 調査研究に関連したコラムは、不定期ですが、引き続き3月の年度末まで継続いたします。

                             (北村 順一)


令和3年、御霊神社にお礼します

 明けましておめでとうございます。
 コロナ禍の中での新年を皆さまはどのようにお過ごしでしょうか。
 初詣もままならない、巣ごもりでスマホやネットをご覧になっている読者の皆さまへ、新年最初となるこのコラムは、神社に関するトリビアをお届けします。

 タイトルの御霊神社ですが、「ごりょう」神社と読みます。
 今回は大阪淀屋橋にある御霊神社についてご紹介します。
 神社のホームページはこうなっています。

■令和3年1月1日 歳旦祭 0:30~
皇統の繁栄、五穀豊穣と国民の加護、コロナ禍終息を祈念します。 
新しき年の皆様方のお幸せをお祈りします。
午前0時より新年参拝を行います。

 当センターでは令和2年に鳥取市鹿野町にある狗尸那(クシナ)城の発掘調査を行いました。また、狗尸那城に関係する主要人物として、戦国武将である亀井茲矩の豊臣政権下における居所と行動の文献調査を行いました。

神社のホームページによると神社の由来などとして、

「御霊神社は古来(中略)旧摂津国津村郷の産土神として、多くの氏子・崇敬者の崇敬を集めています。御霊神社の前身である圓江神社(中略)豊臣秀吉公の大坂居城とともに政治経済の中心地として発展し、諸大名の崇敬厚く寄進も相次ぎ、中でも後の津和野藩の祖である亀井茲矩侯が邸地を割いて寄進され、圓江神社は文禄3年船場の現在のこの地に移りました。

 編纂(さん)物には、

「御霊の社は天正年中の亀井邸の鎮守であると伝えられる」(桜井成広『豊臣秀吉の居城 大坂城編』(1970年))
「御霊神社 平野町御霊筋に鎮座し天正年間の創建と云う(太田源太郎『増補 浪花の志保里』(1895年))
「御霊神社 平野町の西亀井町にあり 伝云 中古石州津和城主亀井侯の第この地に有しゆへ今亀井町の名のこれり 一説ニ当社は其始亀井侯のやしきの鎮守なりしという」(暁 鐘成(幕末浪華の人)『摂津名所図会大成』)

 いずれも編纂物ですので、更に文献調査しました。すると、
『慶長日記』慶長三年十一月十四日 慶長三年大坂御坊移徒御法事記
「七ツ時ニ亀井武蔵守津村ニ居住ノ間、依近所始而礼ニ被来候、仍中折紙五十束也、取あへす振舞をする也、客ハ魚、予者精進也、」

 これは、本願寺関係史料にある『慶長日記』になります。
 亀井茲矩屋敷が津村にありました。
 これは慶長3年の記事で、同2年津村に隣接し本願寺津村別院が建立され、同3年に移徒がありました。

 亀井茲矩侯が御霊神社に邸地を割いて寄進されたこと、津村別院の近所に亀井茲矩屋敷があったことから、一次史料に残ることになりました。

御霊神社

亀井公とゆかりのある御霊神社(神社HPより転載)

 当埋蔵文化財センターを本年もよろしくお願いいたします。

 (北村 順一)


狗尸那城調査余話-天正18年の亀井茲矩-

 今年最も大きな話題となった発掘調査の一つに狗尸那(くしな)城がありました。

現在、企画研究担当の総力をあげて『発掘調査概報』の年度内発刊に向けて取り組んでいます。

とりわけ、主曲輪で発見された御殿的建物(礎石建物)跡については、亀井茲矩の関与が天正9年以降に整備を行った可能性を考えています。

そこで、解明の手掛かりになるかも知れないと、亀井茲矩の居所と行動を洗い出す作業をしています。

 当センターは、考古学的に遺構・遺物を取り扱うのが本務ですが、旧石器の時代から、原則として中世までが調査対象とされる中で、中世になると文献との突き合わせも必要となり難しくなってきます。

 調査目的を達成するためには必要な手段で避けて通れませんので、文献の専門ではないかも知れませんが、一つ一つ確認しています。

 ということで、今回は天正18年の亀井茲矩の居所と行動を見て行きます。

 

〇豊臣秀吉朱印状(折紙) 亀井家文書(『新鳥取県史』1728) 
【原  文】
 去月晦日之書状令披見候、其元検地等事、無由断由尤候、能々相改候者、岐阜侍従(池田照政)へ被下候条、則帳共可引渡候、所務之儀、岐阜侍従より可申付候、随而楠杉舟ニ可造木候者、相尋候て書付可申候、御用之時可被召遣候、河端海際へ道何程有之通可書付候、猶木下半介(吉隆)可申候也、
 (天正十九年)九月八日  (豊臣秀吉朱印)
亀井武蔵守(茲矩)とのへ
【読み下し】
 去る月晦日の書状、披見せしめ候。其元検地等の事、油断無き由、尤もに候。よくよく相改め候はば、岐阜侍従へ下され候条、則ちに帳共引き渡すべく候。所務の儀、岐阜侍従より申し付くべく候。随って楠・杉、舟ニ造るべき木に候はば、相尋ね候て書き付け申すべく候。御用の時、召し遣わさるべく候。河端・海際へ道何程これ有るの通り、書き付けるべく候。なお、木下半介申すべく候なり。
    九月八日      (豊臣秀吉朱印)
     亀井武蔵守とのへ
【現代語訳】
 先月晦日(付けの)の書状を見せてもらった。そちらでの検地等の事は油断無く(精励しているとの)由、尤もである。よくよく調査されたら、岐阜侍従へ下されるのだから、(検地終了後は)則ちに(御前―検地―)帳類を引き渡すように。所務については、岐阜侍従から申し付けるだろう。随って、楠・杉は舟ニ造る用木だから、(貴殿の方でも)聞き取りを進め、その結果を書き付けてほしい。必要になった際には徴発するつもりだ。(送り出しに使う)河端・海際までの道がどの程度(多分距離を含めて)有るのかを書き付けるように。なお、木下半介が伝える。
    九月八日      (豊臣秀吉朱印)
     亀井武蔵守とのへ
【解  説】
 天正18年(1590)の秀吉による小田原攻めでは、史料にある岐阜侍従(池田輝政)のほか亀井武蔵守、南条伯耆守、宮部法印、木下備中守、垣屋隠岐守らも参陣しています。(『伊達家文書』天正17年霜月廿□日「豊臣秀吉小田原陣陣立書」ほか)
 小田原城を7月11日に陥落させた秀吉は、奥羽仕置きを行った後、9月1日に京都に凱旋しています。(『織豊期主要人物居所集成』藤井謙治「豊臣秀吉の居所と行動」)
 小田原攻めの論功行賞の結果、東三河が池田輝政に与えられますが、輝政は秀吉の奥州征伐に従い、奥州の平定後は秀吉の命を受け、奥州各地の検地に従事している(『豊橋市史』)一方、輝政の東三河は検地奉行に東部3村で亀井武蔵守(茲矩)、その他諸村で宮部善祥坊(継潤)が従事しており、同年の畑や池場の検地帳には亀井武蔵守の名が見え(『北設楽郡史』近世編)、鳳来町でも七郷宝珠院の後世の文書に「太閤様御代天正十八年寅八月、天下一統御検地有之、当地御奉行亀井武蔵守殿御検地被成」とあり(『新城市史』)、東三河の北部はこの両者によって検地がなされたらしく、当地方にも秀吉から検地奉行が派遣されたものと思われます。(『豊橋市史』)
 なお、天正18年検地の後に池田氏による領国一斉検地が行われた形跡はなく(新行紀一「三河時代- 岡崎城主・田中吉政」市立長浜城歴史博物館・岡崎市美術博物館・柳川古文書館『秀吉を支えた武将田中吉政』)、ましてや吉田城への転封を命じた秀吉が「岐阜侍従」と書く下限は天正18年の此頃で、官途などの表記の原則論に立てば岐阜侍従の表記にそぐわない。よって、本史料は天正18年発給と考えられます。
 史料後段は、用材の調査、用材を運ぶための経路調べをさせていた事が記されています。
『日本書紀』に「杉及び樟(くすのき)、此の両の樹は以ちて浮寶(船舶のこと)と為すべし。」とある通り、古来から杉とクスノキは船の用材と見られており、「楠杉舟ニ可造木」はおそらく「御渡海」用の舟の用材と推測されます。池田輝政の前任地岐阜は木曽ヒノキ(裏木曽)の産地でした。
 秀吉はかねてから明の征服を構想しており、天正18年には明征服の先導役を務めさせようと朝鮮通信使に要求するなど具体化の動きを見せており、天正19年(1591)1月20日には、秀吉は全国に造船命令を発するなどしています。
 本史料が天正19年とすると、造船命令を出してから用材の調査や運搬経路を調べさせたこととなり、算勘に明るい経済官僚を多く召し抱えた秀吉政権らしからぬ、辻褄の合わない話となります。

 

亀井茲矩公の後裔亀井亜紀子氏が狗尸那(くしな)城を視察されました。

 狗尸那城は、当センターで行った発掘調査の成果を今年7月に記者公開し、地元紙などで報道されましたが、狗尸那城の記事が亀井亜紀子氏の目に止まり、何か気になっていて、いつかは訪れてみたいと思っておられたそうです。

 今回、墓参りを兼ねて狗尸那城を視察されるということで、11月21日に亀井公を敬愛する地元住民を代表して鹿野総合支所長さんと埋蔵文化財センター所長とで狗尸那城をご案内しました。

 まず、亀井公の菩提寺譲伝寺の前身である抱月寺に通じる古仏谷(こぶつだに)入口にご案内し、鷲峯村絵図を見ながら亀井公が通われたであろう足跡に思いをはせられました。車中では、ちょっと変わった狗尸那(くしな)城という名前は、亀井公が仏教故事にちなんで命名されたと説明すると、亀井公の異国趣味からして納得がいかれたようでした。

 次は、いよいよ狗尸那城に背後の尾根筋から向かいました。
 尾根を深く切断した堀切、緩斜面に掘られた竪堀、高く急峻な切岸、延々と続く深い横堀と土塁+竪堀、その上に見上げるような曲輪群や想定櫓台跡とコンパクトながら物凄い防御施設に、「こんな山城見たことない。こんなの想像してなかった。すごい。」と山城の魅力にはまってしまわれました。
 最後は主曲輪の御殿的建物跡地で記念撮影となりました。

 「茲矩は土木工事が好きだったから、絶対茲矩がいじっていると思う。御殿的建物にも茲矩はいたと思う。」と感覚的に表現されていました。

 狗尸那城の歴史と亀井公の関りを中心にご説明する予定でしたが、遺構のすばらしさに圧倒されてしまわれたようで、遺構の見学と説明だけであっという間に予定時間が大幅に超過してしまいましたが、ご満足いただけたようです。


城郭ライター 萩原さちこさん を狗尸那(くしな)城にご案内しました

 全国各地に残された中世の山城をめぐり、お城の魅力や面白さを楽しく、わかりやすくご紹介されている城郭ライターの萩原さちこさんを狗尸那城現地にご案内しました。
 現地では狗尸那城の巧みな縄張りを興味深く観察いただき、大きな横堀や竪堀、土塁などがよく保存されていると、大変感動されておられました。萩原さんから次の(感想)をいただきました。

〇萩原さんの感想
コンパクトながら無駄のない設計で、改変が的確。戦国期の戦闘的な城として全国的にも見応えがある城と感じました。
 同時に、地域の歴史を紐解く大きな宝が発見されたことに感激しています。調査がさらに進むことで、地域の城の特徴やあり方、改変時の情勢などを知るヒントが出てくるのだと思います。そうした解明に立ち会える喜びを感じつつ、今後の調査成果を楽しみにしています。


 多くの方に、狗尸那城の魅力が伝わったら大変ありがたいです。

現地案内中

現地を案内中

横堀の様子

横堀の様子


狗尸那(くしな)城出土陶磁器の資料調査

 狗尸那城の試掘調査では、約百点の土器・陶磁器の破片が出土しました。これらの中には、年代がある程度推測しやすい中国産の青磁、白磁の碗(わん)や白磁の皿、国産陶器として備前焼(岡山県南部)の擂鉢、瀬戸(愛知県東部)の天目茶碗の破片があります。

 しかし、出土資料はほぼ小片で、年代の特徴を示す口の部分が無く、年代の判断が難しい資料もありました。そこで中世陶磁器を専門とされている愛媛県埋蔵文化財センターの柴田さんに年代観を確認するため調査指導をお願いました。

 調査では、実際に愛媛県内で出土した中世遺跡の資料と比較しながら、狗尸那城の出土陶磁器の特徴や年代観について指導いただきました。今回特に確認したかった狗尸那城出土品は白磁皿の小さな破片(写真1)です。これには窯内で器を重ねて焼くため器の内側に釉薬を剥いだ跡が残っており、この破片の特徴から時期を割り出すことを期待しました。

 まず、類似資料との比較ということで見近島(みちかじま)城跡の出土品と比較しました。見近島城は戦国期の有力な海賊衆、能島(のしま)村上氏と関係の深い16世紀中までの遺跡で、多くの輸入陶磁器が出土しています。この城の出土品の中には類似品として皿の内側に釉薬がかからない白磁皿があります。

 資料を比較した後、柴田さんによると、見近島城出土の白磁皿は釉薬を回しかけたもの、狗尸那城出土品は小型品で内側の釉薬を剥いでおり、製作技法に違いがあると指摘をいただきました。また、狗尸那城出土の白磁皿は小型品で、日本で多く出土例のある15世紀後半頃の中国福建省邵武(しょうぶ)四都(しと)窯産のものと教えていただきました。ただし、内側の釉薬を剥ぎ取ったものは少ないとのことです。

 このほか青磁碗片や備前焼擂鉢片の年代観を確認していただきました。センターでは現在、発掘調査概報の取りまとめに向けて鋭意取り組んでいますので、成果報告は今しばらくお待ちください。

写真1 白磁皿片

写真2 調査の様子


上期の思い出5 狗尸那城の現地説明会

 新聞、テレビ、鹿野町総合支所だより等で取り上げられ、今、話題になっている狗尸那城。

今回の思い出は、この狗尸那城の第2回現地説明会です。

 9月19日(土)に第2回目の現地説明会を参加者21名で開催しました。2回目の現地説明会には、近県や遠くは滋賀県からご参加の方もおられ、狗尸那城の注目度の高さを再認識しました。

 現地で解説を始めると、熱い思いを持っての県外から参加された皆様だけあって、熱心にお城の各施設を観察をされていました。「切岸付近に転がっている石は、石積みか石垣の名残か?」、「つぶて石は発掘調査で掘り出されたものか?」、「植林される前は畑などだったのか?」、「主郭の礎石建物の時期はいつ頃と考えているのか?」、「井戸跡は保存庫の可能性はないのか?」など、各郭で質問攻めを受けました。御案内する側としては、熱心にご覧いただき、嬉しい限りでした。

 今後も狗尸那城について新たなことが分かりましたらホームページ等で皆様に情報発信していきますので、ホームページのチェックやフェイスブック登録をお忘れなく!!

井戸跡付近を熱心に観察される参加者


狗尸那城調査余話-亀井茲矩の関ケ原-

 近年、「関ケ原の戦い」の再検証説が提起され、テレビや新聞で紹介され一般書でも刊行されていることもあって、専門家以外の一般にも知られるようになりました。

 従来、江戸時代の家譜や軍記といった二次資料や、明治時代に参謀本部が編纂した『日本戦史関原役』により通説化した歴史像を、同時代に書かれた一次史料をもとに再構築するものです。

 当センターが今年度行った狗尸那(くしな)城発掘調査について報告概要を取りまとめ中ですが、狗尸那城に関わったと考えられる戦国武将亀井茲矩について、この時期の動向について関連調査を行いました。

 この時代の因幡における動向として、『関ケ原合戦公式本』には、「石田三成が挙兵をしたとき、会津攻めに従軍していた因幡の諸将のなかでは、木下重堅(因幡若桜)と垣屋恒総(因幡浦住)が西軍について伏見城や大津城の攻撃に加わる一方、宮部長房(因幡鳥取)と亀井茲矩(因幡鹿野)が東軍につくなど、対応が分かれていた。しかも、当初は東軍に属していた宮部長房も、三成が大坂城下に残されていた大名の妻子を人質にとりはじめると、西軍に寝返ろうとしたものらしい。東軍の陣を無断で離れたため、拘束されてしまったのである。関ケ原の戦いに勝利を収めた家康は、亀井茲矩に因幡の平定を命じた。茲矩は、関ケ原の本戦に参陣はしていたものの、南宮山に布陣した毛利・吉川勢を牽制していたため、特筆すべき功を上げていない。所領拡大の好機と見た茲矩は、9月23日、400余の軍勢を率いて因幡へ向かう。(以下省略)」とあります。

 「県史だより」でも「1600年の関ヶ原の戦いの際に、因幡・伯耆の武将の多くが西軍を支持して没落したのに対して、亀井茲矩だけは東軍に味方しています。これも彼自身の人生で培われてきた『時代の先を読む力』の延長線上にあるのではないかと思われます。」というのが、大方の受け止め方かと思われます。

 では、一次史料ではどうなっているのでしょうか?

 鳥取県では近年『新鳥取県史』が編纂されましたが、関ケ原の戦いに関する史料はありませんでした。

 鹿児島県では、鹿児島藩が、関ケ原の戦いに参戦した島津家家臣に命じて記録させた史料が『鹿児島県史料』「旧記雑録後編三」にあり、このなかの『山田晏斎覚書』に因幡の亀井茲矩に関する記事があります。

 原文は、「敵合前ニ亀井武蔵殿 被仰候ハ、敵つき来候間、鉄砲衆御加勢可有之よし候条、濱之市衆可遣之由御意ニて、城井三郎兵衛との・前原孫左衛門殿、其外餘多福山衆中、鎌田次郎九郎・前原源六被遣候、其衆彼方備ニ被参着候半与存候時分、早味方勢崩れ候、以降承候へハ、亀井殿野心之由申候事、」とあります。

 白峰旬氏の現代語訳では、「9月15日、開戦前(「敵合前」)に亀井茲矩から、敵が来たので、鉄炮衆を加勢してほしいとのことだったので、濱の市衆を遣わすべき旨、(島津豊久の)御意にて城(ママ)(堀ヵ)井三郎兵衛殿(以下、人名は省略)を遣わした。その衆が亀井茲矩の備(そなえ)に到着する途中と思われる時分に、早くも味方勢は崩れた。以後、聞いたところでは、亀井茲矩は野心(謀反をおこそうとする心)があったということである。」となっていて、要するに「亀井茲矩から島津豊久に対して、鉄炮衆を加勢してほしいとの要請があり、島津豊久は鉄炮衆を遣わした。しかし、亀井茲矩は途中から寝返った。」というのが新たな解釈です。

 更に調べてみると、通説を構成する元になった『日本戦史関原役』にも通説を疑わせる記述がありました。

 「(前略)初メ家康ハ重堅光成ノ脱シ去リシヨリ已ニ長煕ヲ疑ヒシカ今又告ケスシテ西下スルニ及ヒ果シテ異心アリト為シ或ハ云フ吉政之ヲ訴ヘタルナリト亀井茲矩ニ其居城ヲ収ムヘキヲ命ス〇或ハ云フ茲矩は九月十五日関ケ原ノ西軍ニ在り西軍崩潰ノ時東軍ニ属シタリト又云フ初メヨリ家康ニ属シ東下シタリト竝ニ事蹟ノ徴スヘキナシ因テ附図第二号之ヲ中立ノ部ニ収ム(以下省略)」とありました。(下線は筆者)

 江戸時代の徳川の世においては、徳川家への忠節の誇示、徳川幕藩体制の護持が求められる中で、従来の通説が出来上がってきたのでしょうが、明治時代になって呪縛が解けて、モノが言えるようになったということでしょうか。昨今の出来事を見るにつけ、考えさせられるものがあります。

 

(主な参考文献)

『日本戦史関原役』(明治26年参謀本部)

『関ケ原合戦公式本』(2014年小和田泰経)

『史学論叢第46号』「関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈」(2016年白峰旬)

『天下分け目の関ケ原合戦はなかった』(2018年乃至政彦、高橋陽介)

『新視点関ケ原合戦』(2019年白峰旬)


「亀井玆矩」、「武田高信」歴史大河ドラマ候補に?

 10月31日(土)「鳥取県を舞台に歴史大河ドラマを推進する会」による歴史大河ドラマの選考会に行ってきました。

 今回、新たな候補作として「亀井茲矩物語」と「鳥取城主・武田高信」がエントリーされており、これは当センターが調査研究しているテーマ「戦国の因幡武田と鹿野城」とピッタリだったので、プレゼンを聴講に行きました。

 大河ドラマを目指した取組みということでしたが、地域の方々が地域に関係する歴史上の人物について知識を深める学習をするだけでなく、地域史の掘り起こしを実践し、紙芝居やミュージカルなどの具体的な行動をされていました。このことで、地元の気運が盛り上がり、地域おこしにつながるのではないかと思い、すばらしい取組みをされていることがわかりました。

 当センターも調査研究を通じて、遺跡等の価値や地域の歴史を明らかにし、遺跡等を保護しながら活用し、地域振興を図る取組みをしています。

 地域の皆さまの歴史の掘り起こしや再評価に一役買っていきたいと思います。

会場の様子

当日資料

イベント,講座,施設見学,資料調査等のお申込み


センター紹介

 久松山地域は戦国時代以降鳥取城が築かれ、鳥取藩32万石の中心地でした。現在でもこの地域は県庁があり、行政の中心地となっています。

 しかし、戦国時代から遡ること約800年前の奈良時代、県庁から4キロほど離れたこの国府町に国史跡因幡国庁(現在の県庁にあたるもの)がありました。今ではひっそりとした田園地帯ですが、因幡三山(甑山(こしきやま)、今木山(いまきやま)、面影山(おもかげやま))に囲まれ、当時の面影を残す万葉の歴史と古代の出土品にあふれた万葉の里となっています。
 この歴史豊かな万葉の里の一角に埋蔵文化財センターはあります。


埋蔵文化財センターについて


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