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法号

栄岳院殿

生年と没年

天保四年(1833)~嘉永三年(1850)

概要

 嘉永元年(1848)僅か十七歳で逝去した十代慶行にはまだ男子がいなかったので、藩では、分知家のうち(東館)壱岐守仲律の子で慶行の弟裕之進を仮養子として幕府へ申し出た。ところが幕府はこれを退け、加賀中納言前田斉泰の二男喬心丸を藩主とし、これに仲律の娘延子をめあすよう指図した。鳥取池田家は、初めて他家から藩主を迎えることになり、このことは国表の藩士にとっては寝耳に水の驚きであった。

 喬心丸は、嘉永二年(1849)将軍家慶の前で元服の式を行い、従四位上侍従に任じられ因幡守といい、将軍の一字を賜わって慶栄と名のった。

 嘉永三年(1850)藩主になって、初めてのお国入りが許可され帰国の途についたが、京都の伏見藩邸で病気にかかり、とうとう逝去した。年僅か十七歳であった。法号を栄岳院殿穆雲光澤という。慶栄の死について江戸から面白くないうわさが伝わっている。それは、鳥取藩士が慶栄の養子をよろこばず帰国の途中で毒殺した、というものであった。このうわさの出どころは、加賀前田家の奥向きより出たものであり、慶栄の母である前田家の溶姫(将軍家斉の娘)は、そのように信じていたようである。