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法号

清源寺殿

生年と没年

正保四年(1647)~正徳元年(1711)

概要

 鳥取藩二代藩主は池田綱清である。父は池田光仲、母は正室茶々姫で、正保四年(1647)江戸藩邸で生まれた。幼名を新五郎という。明暦三十三年(1657)将軍家綱に拝謁した。寛文元年(1661)将軍の前で元服を行ない、家綱の一字をもらって綱清と名のり、従四位下侍従に叙任され伯耆守といった。寛文十年(1670)、盛岡藩主南部重信の娘式姫と結婚。貞享二年(1685)父光仲の隠居によって家督を継ぎ、因幡・伯耆の領主となった。この時綱清はすでに三十九歳の壮年であった。綱清には男子がいなかったので、分知家(東館)の池田壱岐守仲澄(綱清の弟)の長男長吉を養子とした。 関係者の書き残した綱清についての人物評は必ずしも芳しくはない。父光仲の政治は藩主自ら決裁し綱紀が厳正であったが、綱清の代になると病気がちであったこともあって、政治は重臣に委ねられた。その後数代にわたっての藩政の混乱は綱清の代に始まっている。

 隠居後の正徳元年(1711)に逝去、法号を清源寺殿良宗常温という。歴代藩主の中で綱清の墓石のみが「亀趺円頭」の形式をとっていない。これは、有名な「生類憐みの令」に配慮したためともいわれる。

  

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