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法号

大機院殿

生年と没年

明和五年(1768)~寛政十年(1798)

概要

 池田治道は、五代池田重寛の第三子で生母は側室村上氏である。幼名は岩五郎、後に秀三郎と改めた。明和五年(1768)江戸の藩邸で生まれ、安永七年(1778)重寛の夫人仲姫に養われて嫡子となった。仲姫は田安中納言宗武の四女で「寛政の改革」で名高い老中松平定信の姉である。

 重寛には第一子に鶴五郎がいた。のちの池田治恕である。治恕は将来を非常に期待された人物であったが、天明元年(1781)病により江戸藩邸で逝去した。続いて天明三年(1783)父重寛の逝去により、治道が十六歳で鳥取池田家の家督を相続し、六代藩主となった。

 天明四年(1784)江戸城で、将軍徳川家治の前で元服の式を行い、従四位下侍従、相模守に任じられた。

 治道は最初、癇癖の強い人であったが、藩校尚徳館で経義を聞き修行に努めた結果、藩主としての重きをなすに至った。またこの間、祖母桂香院太夫人の指導が、藩政にも通達するようになり営々として鳥取藩政に努めた。

 藩主を補佐する家老にも乾長孝など名家老が現われた時代で、前藩主池田重寛以来、藩政の立て直しをはかってきた結果、治道の時代になって、徐々にその効果があらわれた。また、治道の時代ほど学問が盛んとなった時代はない。箕浦文蔵父子、河田孝成、安藤庄助、田中万蔵、伊藤千里、辻権之丞などそうそうたる学者があらわれている。さらに稲村三伯(鳥取城下の町医者の三男に生まれた)は蘭学者として江戸において大槻玄沢に師事し、『ハルマ和解』をあらわして我が国の洋学研究に尽くしたことは有名。鳥取藩において文化的に最も注目すべき時代である。

 治道は子にも恵まれて、七代斉邦、八代斉稷はともに側室の子であるが治道の子である。女子は、毛利、鍋島、島津という幕末から明治維新に活躍した大名家に嫁いでいる。島津家に嫁いだ弥姫は、西郷隆盛を重用した島津斉彬、幸姫は鍋島直正(閑叟)といった名君の実母である。

 寛政十年(1798)三十一歳で逝去、法号を大機院殿賢翁紹雄という。