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法号

岱嶽院殿

生年と没年

延享二年(1745)~天明三年(1783)

概要

 四代藩主池田宗泰が三十一歳で逝去した時、その嫡子池田勝五郎(重寛)は、わずか二歳の幼児であったため、鳥取藩は分知家(西館)の甲斐守定就を藩主とし、重寛をその養子とすることを願い出た。ところが、幕府はこれを退け、勝五郎をもって家督を相続することを許可した。幼年で藩主の座についた例は、藩祖光仲の先例があり、また勝五郎の生母は紀州徳川家より入った久姫(桂香院)であったことから、実家である徳川家の応援を得て勝五郎の家督相続に成功したものと思われる。

 このようにして五代藩主の座についた勝五郎は、宝暦九年(1759)将軍徳川家重の前において元服し、将軍の名の一字を賜って重繆と改め(のち重寛と改名)、従四位下侍従に任じられ、相模守といった。 この間、母である桂香院の後見は続いたが、藩主が幼年であることにより、幕府の監視が続いている。幕府は寛延二年(1749)鳥取藩政の状況を視察する国目付を派遣した。国目付は藩にとっては迷惑な存在で、報告の内容によっては藩の取りつぶしにまで発展する恐れさえあった。
  重寛の治政において、前藩主宗泰夫人である桂香院太夫人の存在は大きい。当時、鳥取藩財政は元文大一揆などを経て大変苦しかった。このような鳥取藩の財政をたてなおすには、厳しい倹約を実行せねばならず、桂香院は江戸・鳥取両方の家臣に対し、幼主をよく保護すること、謹倹節約を主とすること、文武奨励すること等を指示している。 重寛は、天明三年(1783)三十八歳で逝去、法号を岱嶽院殿祥雲洪澤という。

  

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