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夫人・御分知家

五代藩主・重寛夫人(仲姫)の墓
昭和五年に東京から移された

 藩主の夫人は、文久二年(一八六二)までは江戸に住まい、入国を許されなかったので、逝去に際して江戸弘福寺の墓所に埋葬されたが、関東大震災後、昭和五年九月に鳥取の墓所に改葬された。墓石には、加賀前田家・紀州徳川家・奥州伊達家・米沢上杉家など実家の家紋が入っている。四代藩主宗泰夫人桂香院は、我が子重寛、孫治道、曾孫斉邦を養育し、藩主を補佐した賢夫人として名高いが、宗派の関係で他へ埋葬されている。


池田冠山(西館五代当主)の墓
江戸弘福寺にも亀趺円頭の墓碑が残る

 鳥取藩の支藩は、鳥取新田として分知された光仲の第二子壱岐守仲澄を初代とする鹿野藩(東館・三田家)と、因幡新田として分知された光仲の第五子河内守清定を初代とする若桜藩(西館・鉄砲洲家)の二家があった。東館は貞享二年(一六八五)の分知で石高は二万五千石(のち三万石)、西館は元禄十三年(一七〇〇)の分知で石高は一万五千石(のち二万石)であった。分知家を設けた目的は、本藩を支えることにあり、三代藩主吉泰及び十代藩主慶行は東館から入っている。支藩の財政権・裁判権は本藩が掌握し、住まいも鳥取城の東門外に館を構えていた。随筆『思ひ出草』で知られる江戸城柳の間・三学者のひとり池田冠山は、西館五代当主池田定常のことである。


家臣・側室・住職

和田三信(初代藩主家老)の墓

 藩主及び一族が眠る墓域の外ではあるが、参道の両側に家臣・側室・菩提寺住職の墓地がある。

 家臣として唯一人墓所に葬られているのが、家老和田三信である。和田氏は池田輝政の代から池田家に仕え、家老職を出す「着座」十家のひとつであり、和田三信は初代光仲、二代綱清に仕えた。性質が温和で慎み深くあったことから、光仲に非常に信頼され、死んだならば、光仲の墓の側に来いとまで言われていた。ひとつだけ離れて、墓碑は光仲の墓と同じ方向を向いて建てられている。


上野勾(初代藩主側室)の墓

 光仲の側室、上野勾(厚恩院)は京都の人で、天性温良であったため光仲に最も愛され、御分知西館初代河内守清定を始め三子を生んでいる。この他、池田家菩提寺興禅寺の歴代住職の墓も旧参道脇にひっそりとある。