第8回「教科書には書かれていない歴史とナゾ~出前講演への誘い~」

立ち別れ いなばの山の峰におふる まつとし聞かば 今帰り来む

年表 百人一首に親しんでいる人なら、この歌をご存じでしょう。
 この作者、在原行平は平安時代初め(今から約1,200年前)頃の人で、斉衡2年(855年)に京都から因幡国府(今でいえば県庁に相当するところ)に役人としてやってきて、2年ほどを鳥取の地で過ごしました。冒頭の歌は都から鳥取に向かうときによまれたもので、都を離れ、遠い地方に行くさびしい気持ちをうたっています。しかし、鳥取になじみの深いこの歌のことは知っていても、歴史の教科書に出てこないため、その作者のことを知る人はきっと少ないのでしょう。
 在原行平は鳥取から京都に戻った後、さまざまな役職をつとめ75歳で亡くなっていますが、この人の墓と伝わっているところが国府を見おろす鳥取市岩倉の稲葉山上にあるのをご存じでしょうか?
 それは高さ1m、幅10mほどの小さな山(写真1)で、頂上には大きな木が生え、その根元に宝篋印塔と呼ばれる石造物がのっています。ここが「在原行平の墓」であることは古く江戸時代に書かれた『因幡誌』という書物にもでていて(写真2)、かなり昔からこの地域の人々がそのように考えていたことがわかります。ただ、石造物は平安時代からはるかに後の室町時代(今から約450~600年前)、この小山は今から1,500~1,600年くらい前の古墳と考えられ、在原行平とは時代があわないものばかりです。では、本当にここは在原行平の墓なのか、そもそも京都で亡くなった在原行平の墓がなぜ鳥取にあるのか? と考えていくと、なんだか推理小説のようになってきましたね。
 歴史というと、教科書に書いてあることが間違いのない事実であると思っている人が多いかもしれません。しかし、実際にわかっていることはとても少なく、そのためいろいろな資料を調べ、ひとつひとつ積み重ねていくことで事実に迫る…、ますます犯人を捜す刑事のようですが、まさに歴史とは、こうした作業によってつくりあげられるものなのです。
 このような、教科書にのっていないことを、私たち文化財の専門家(プロ)がみなさんのところへ出向きお話しする「出前講座」をしています。私たちの話しを聞き、ぜひ歴史を知ってワクワクしてください。きっと、思わず家族や友達に話して自慢したくなるようなことが満載です!!
  

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