山上憶良(やまのうえのおくら)

 山上憶良は、奈良時代初期の下級貴族出身の官人であり、歌人として名高く、万葉集に80首の歌が収められている。
 660年頃の生まれと推定され、粟田朝臣の同族で、天足彦国忍人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)の子孫とされる説と朝鮮半島からの渡来人ではないかという説がある。
 憶良は、42歳で遣唐使書記に抜擢され、貴族になったが、出世に恵まれず、54歳の時に上級官人になり、716年(霊亀2年)に57歳で初めての国司として、伯耆守に任命された。その後、726年(神亀3年)ごろに67歳で筑前守として赴任。その地で大宰府の長官に着任した大伴旅人(大伴家持の父)と交流があったとされ、赴任4年後の730年(天平2年)に令和の典拠となった梅花の歌32首が詠まれた大伴旅人の邸宅で開かれた梅花の宴に出席している。
 筑前守を退官した後、733年(天平5年)に病気により74歳でその生涯を閉じたとされている。

【梅花の歌32首に納められている憶良の歌】
春されば まづ咲くやどの 梅の花 独り見つつや はる日暮らさむ
(春になると最初に咲く屋敷の梅の花よ、私ひとりで眺めながら、ただ春の一日を暮らすことにしよう)

 716年(霊亀2年)4月に伯耆国(現在の鳥取県中部・西部)の国守として赴任し、約5年間を伯耆の地で過ごしたとされる。伯耆国赴任中の歌は、確認されていないが、赴任した間に体験、見聞した伯耆の自然、文化がこの後の歌づくりに影響したと考えられている。

 後に因幡国(現在の鳥取県東部)の国守として万葉集の最後を飾る歌を詠んだ大伴家持も憶良の影響を強く受けていると言われ、憶良の「士やも 空しくあるべき 万代に 語り継ぐべき 名は立てずして(男子として、空しく人生を終わってよいものだろうか。万代の後まで語り継いでいくよう名を立てずに。)」に対して、大伴家持は「大夫は 名をし立つべし 後の世に 聞き継ぐ人も 語り継ぐがね(大夫はりっぱな名をたてるべきである。後の世に聞き継ぐ人もまた語り継ぐように。)」と追和したとされている。


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