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大伴家持(おおとものやかもち)

 大伴家持は、奈良時代の貴族・歌人であり、波瀾の万葉歌人と言われ、その人生は左遷と昇進の繰り返しであった。もともと大伴氏は大和朝廷以来の武門の名家であり、祖父・安麻呂、父・旅人と同じく律令国家の高級官吏として歴史に名を残し、延暦年間には従三位 中納言にまで昇っている。奈良時代において中央政界で台頭する藤原一族に対して、名門氏族の棟梁であった家持は、「反藤原」の動きに関わることも多く、中央官僚復帰と地方官僚への左遷を繰り返している。

 光仁・桓武天皇の時代に入ると、都の要職や大国の守を歴任する一方で順調に昇進し、780年(宝 亀 11 年)に参議に任ぜられて公卿に列し、やがて先任の参議を越えて中納言に昇進した。784年(延 暦3年)には東国の蝦夷征討の責任者となり、翌年785年に68歳の生涯を閉じた。家持が没した同年9月に寵臣 藤原種継が暗殺され、家持は暗殺の首謀者の一人として関与していたとされ、死後、官位等すべての名誉を剥奪された。その後、約20年後の806年(延暦25年)に桓武天皇は重なる不幸を藤原種継事件で処分した怨霊の祟りによるものと恐れ、天皇崩御の日に恩赦を受けて従三位に復した。

 大伴家持は758年(天平宝字2年)に因幡国(現在の鳥取県東部)の国守(政務全般を統括する長官)として赴任した。翌年元日は、豊年の吉兆とされる正月の大雪に加え、正月新年と立春新年が重なる珍しい元旦立春で非常に縁起の良い日だった。この日に家持は因幡国庁で「新しき年の始の初春の今日降る雪のいや重け吉事(あらたしきとしのはじめのはつはるのきようふるゆきのいやしげよごと)」 を詠んだ。
この歌は後に『万葉集』の最後を飾る歌となるとともに、この歌を最後に家持が詠んだ歌は見つかっていない。

 大伴家持の歌は長歌・短歌など合計 473 首が『万葉集』に収められており、『万葉集』全体の 1 割を超えていることから家持が『万葉集』の編纂に関わったと考えられている。
家持は年長の歌人・文化人である山上憶良の影響を強く受けていると言われている。
父・旅人が大宰帥として大宰府に赴任する際に従ったという説が有力だが、当時まだおそらく12、3歳であったろう家持は32人の歌人の中には入っていない。梅の花の宴で歌を詠む父 旅人や憶良を少年時代の大伴家持は、まぶしく見つめていたかもしれない。


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