弓浜半島には自然の川がなく、充分なかんがい(農地に水を引くこと)用水が確保できなかったことから、農民を苦しめる原因となっていました。
元禄13(1700)年、鳥取藩主池田綱清は、弓浜半島の農業開発を進めるためには、そこにかんがい用水を引くことが重要であるとする米村所平広次の考えをとりあげ、水路の建設を命じました。
広次は、日野川に堰を造って水を引くこととし、取水口を観音寺戸上としました。工事は、硬い岩の掘削で困難を極めた戸上山麓の取水口工事に始まり、それから実に60年の歳月を費やして、境水道まで約20kmの立派な農業用水路が完成しました。
この新しい川は、米村所平広次の功績を讃え、「米川」と命名されました。
米川の完成により、それまでカンショ(サツマイモ)がほとんどであった弓浜半島の農業は、水稲や綿などの栽培が盛んになりました。
現在の米川は約5,900戸の農家から成る「米川土地改良区」によって維持管理され、米子市、境港市のおおよそ2,000haの田畑をかんがいしています。
これらの農地では、鳥取県を代表する特産物の白ネギの他、水稲、ニンジン、ダイコン、葉タバコ、カンショ等が栽培されています。
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日野川頭首工
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米川紀功碑
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米川取水口
(米子市観音寺戸上)
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