開始から100年の節目を迎える今回の国勢調査ですが、いよいよ調査書類の配布にあわせて、令和2年9月14日からインターネット回答の受付が始まりました!
われわれ実施本部では、調査の円滑かつ確実な実施へ向けた広報活動の大詰めを迎えています。もちろん、新型コロナウイルス感染症予防の観点から、今回は多くの人に集まっていただくかたちでの広報は控えているところですが、新聞や情報誌の広告、ポスター、テレビ・ラジオのスポットCMなど、様々な媒体を通じて皆様へ調査協力のお願いをしています。また、国の方ではツイッターやインスタグラムといったインターネットのSNSでも情報発信をしています。
テレビ局での広報動画撮影の様子
鳥取大学の電光掲示板で広告を表示
ところで、今から100年前の第1回国勢調査の際は、どのような手段で広報を行っていたのでしょうか?
ポスターやチラシといった紙媒体が大きな役割を果たしていたことは容易に想像できますが、1920(大正9)年当時、ラジオやテレビの放送はまだ日本で始まっていませんし、いうまでもなくインターネットの誕生はずっと後の出来事です。となると、ほかに有力な媒体はあったのでしょうか...?
実は、当時の広報活動では県内各地での「幻燈会」に力が入れられていました。つまり、映写機を使ったスライド上映です。
日本において、映写機は幕末にもたらされ、明治時代になって普及したといわれます。この当時としては新しいメディアであった映写機が、初めての国勢調査の広報で活躍したのです。
幻燈会の様子について、例えば1920(大正9)年8月12日付の『鳥取新報』(鳥取県立図書館所蔵)は次のように伝えています。
鳥取市国勢調査宣伝の為めの幻燈会は 、既記の如く一昨日午後八時過ぎから市内本町遷喬小学校に於て開催し、観覧者頗る多数であって、申告義務者及び調査員の各々心得べき事項の幻燈六十余枚を映写し、中尾県属各々説明して無事散会した。
記事に登場する中尾氏は、県の「統計主任」であり(県属とは県職員の意味)、県内各地の幻燈会に出向いては調査に関する詳細な説明役を務めた人物のようです。われわれの大先輩ですね。
幻燈会の参加者数について、同記事は「頗る多数」と伝えるのみですが、別会場に関してはいくつか具体的な数字が残っています(以下も『鳥取新報』より)。例えば7月17日の夜に鹿野町(現鳥取市)で開催された会では、600名とも千余名ともいわれる参加者が聴講されたそうです。当時の同町の総人口は3,090人、総世帯数は632世帯でしたから(これは第1回国勢調査実施によって明らかになった数字です!)、ほぼ全世帯から1名ずつの参加があった勘定になります。また、同じ頃、日野郡の宮内村(現日南町)で開催された会には300名、根雨町(現日野町)の会には400名と「予想外の出席者あり、好成績を示し」たといいます。ほかにも含む多くの村々で数百名規模の幻燈会が開催されたというので、当時の熱気たるや驚くべきものだったようです。
100年後の令和2年国勢調査も、皆様の御協力のもと、しっかりと実施していこうと思います。
今年10月実施の国勢調査に対する協力依頼のため、鳥取大学と公立鳥取環境大学を訪問しました。
鳥取大学での協力依頼の様子
国勢調査の実施にあたっては、日中に不在がちな単身世帯について、調査員の訪問による調査が難しいケースが想定されます。そのため、国や県では、インターネット回答の周知など、大学生の皆さんへ向けたPR活動に力を入れていく計画です。
また、各国からの外国人留学生も多いことから、調査票の多言語対応(紙調査票27言語、電子調査票7言語)についても、丁寧に広報していこうと考えています。
今回の訪問は、そうした活動に先立ち、各大学事務局の皆さんへ今後のご協力をお願いしたものです。
公立鳥取環境大学での協力依頼の様子
いよいよ今年10月に迫った国勢調査の実施体制を整えるべく、「令和2年国勢調査鳥取県実施本部」を設置しました。
発足式で実施本部の看板を掲出
実施本部が置かれたのは、県庁の令和新時代創造本部統計課内です。2020(令和2)年2月3日の発足式では、加藤本部長の手によって、課の入り口に実施本部の看板が掲げられました。また、広報活動や協力依頼の充実、インターネット回答の促進などの効率的な調査実施によって、令和時代最初の基幹統計調査となる本調査に取り組むよう、本部長から事務局職員へ訓示が行われました。
あと8か月後の調査実施へ向け、関係職員一同、気を引き締めていきたいと思います。
加藤本部長による訓示
倉吉市上福田の高城公民館を訪問してきました!
この公民館がスゴいのは...1920(大正9)年の第1回国勢調査実施を記念して建てられた石碑が現存することです。下の写真のように、一見、公民館の門柱のように敷地入口の両脇に立つ石碑ですが、向かって右手のものには「第一回国勢調査紀念」、左手には「大正九年十月一日」と刻まれています。
公民館のある高城地区は、1953(昭和28)年に倉吉市に合併されるまで、東伯郡高城村という東西に大きな一つの村でした。公民館の位置は当時の村役場があったところです。
村を挙げた一大事業、第1回国勢調査が実施された事実は、石碑というかたちで記録されたわけですが、調査の結果も現在まで残っています。実施から5年後に刊行された『大正9年国勢調査報告』によると、1920年当時の同村は有業者の8割以上が農業従事者(県全体では66%)という農業地帯でしたが、県内全192市町村のなかで9番目に多い人口(3,706人)を有していました。このほか様々な人口指標が同書のなかに掲載されており、大正時代の村の様子を知る貴重な歴史資料となっています。
令和時代の調査担当者である我々も、100年以上先の未来まで残る記録のため確実な実施を心がけたいと、思いを新たにした訪問でした。
石碑の前でセンサスくん・みらいちゃんも記念撮影
2019(令和元)年12月5日(木)に鳥取県中部総合事務所(倉吉市東巌城町)で「令和2年国勢調査市町村事前事務打合せ会」を開催。県内市町村の統計担当者の皆さんにお集まりいただいて、来年10月1日に実施する国勢調査のスケジュールや調査方法などについて打ち合わせをしました。
来年の事を言えば鬼が笑うなどといいますが、国勢調査についてはすでにいろいろな準備が始まっています!
令和2年国勢調査市町村事前事務打合せ会の様子