第76回県史だより

目次

「消えた」奉安殿を追って

敗戦と奉安殿

 県史だより第72号でお知らせしましたとおり、今回は戦後の奉安殿について報告します。本県内の奉安殿の形態は、1.校舎内に奉安庫(または「奉安所」)を建設、2.校舎外に木造で、神社風のもの、2.校舎外にコンクリート製で、屋根が神社風のもの、4.校舎外にコンクリート製で洋式のものと大きく4つの形体があったことが確認できます。これら4形体の比率は現在のところはっきりしませんが、2、3のものが多かったようです。

写真1
鳥取県女子師範学校併設鳥取県立八頭(やず)高等女学校(現鳥取県立八頭高等学校)内にあった奉安殿。屋根は神社風ではあるが、コンクリートで作られている。正面上部に菊の御紋がある。

 1945(昭和20)年12月15日、聯合国最高司令官総司令部参謀副官発第三号として「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」(いわゆる「神道指令」)が発令され、更に同月22日、文部次官名でこの指令に対する実施要領が発令されます(注1) 。これにより、公的教育機関からの神道の切り離しが本格化していきます。この指令の三項には、

三、学校内ニ於ケル神社、神祠(しんし)、大麻(たいま)、鳥居及注連縄(しめなわ)等ハ撤去スルコト尚(なお)御真影、奉安殿、英霊室又ハ郷土室等ニ付テモ神道的象徴ヲ除去スルコト

とあり、御真影同様、奉安殿の「除去」を命じています。ただし、GHQは、早い時期から奉安殿の全面撤去を働きかけていたのに対し、文部省は神道様式の奉安殿の撤去で切りぬけようとしました(注2)

進まぬ撤去

 奉安殿の「除去」については、その対応は各都道府県で様々でした(注3)。本県の場合、気高郡内では1946(昭和21)年3月14日付で「御真影奉安殿撤去ニ関スル件」について気高地方事務所から郡内の各学校に照会が行われました。これは、奉安殿が神社形式か否か、もし神社形式の場合はその処置をどのようにするかという照会でした。学校の対応は様々で、「撤去予定」、「神社様式を撤去した上改造」と回答したり、奉安殿が神社様式であるか否か判断できないため、見取り図を添えて判断を仰ぐ例も見られます。中には「神社様式ではないため奉安殿は撤去も改造も行わない」と回答している例も見られます。

 学校敷地内からの撤去が遅々として進まない中、5月5日にも奉安殿の除去を含む聯合軍最高司令部指令の徹底が通達されています(注4)。このような状況下、倉吉周辺では6月10日、「戦時色払拭処理ニ関スル件」と題する校長会が成徳国民学校(現倉吉市立成徳小学校)で開催され、奉安殿については出席した内務部長代理磯江、高田両視学から

一、奉安殿ノ処理1,御紋章取除キ2,神社造屋根改造(六月末日迄ニ西郷村長ト話合ニヨリ改造ス)3,勅語、詔書ノ処理(教育勅語、一月一日詔書ノミ残ス)

との指示が出されました(注5)

本格化する奉安殿の撤去

 奉安殿撤去の遅れは全国的な現象であったと思われます。この間、昭和21年4月からGHQ民間情報教育局と文部省の間で話し合いが始まり、6月18日に同省は、奉安殿の神道様式の如何を問わず公立学校から撤去する旨を民間情報局長に報告しています(注6)。これを受け、本県の場合県中部には、6月29日付で、「校舎内にある奉安殿は神道様式の如何を問わず全面撤去、校舎内にあり撤去困難な奉安庫は、他の目的に転用することを命じる文部次官からの「御真影奉安殿の撤去」についての指令があり、県も7月13日付でこの文部次官からの指令の徹底を通知しています(注7)。西郷国民学校の場合、8月10日に撤去完了の報告が東伯地方事務所になされています(注8)

 これら一連の動きは、日時に多少の違いはあるものの、他の都道府県も大体同様であったようです(注9)。特に撤去が8月に行われたのは、夏季休暇中、すなわち児童、生徒たちに撤去の様子を見られない時期を選んだためと思われます。

県内に残る旧奉安殿―長和田自治公民館の例―

 現在、県内に旧奉安殿として確認されているものとして、八頭町船岡にある英霊廟(旧船岡国民学校(現八頭町立船岡小学校))(注10)と那岐(なぎ)神社の境内に移築されたもの(旧那岐国民学校(現智頭町立智頭小学校))の他(注11)、湯梨浜(ゆりはま)町長和田(なごうた)地区に残る旧奉安殿があります。今回は、長和田地区に残る旧奉安殿を紹介します。

 この旧奉安殿は、現在、長和田自治公民館の横に倉庫として建っています。本殿の側面はコンクリート製です。記録によれば、この旧奉安殿は、大正13年に当時の花見(はなみ)尋常高等小学校時代に造営されたとあります(注12)

 敗戦当時、花見国民学校の生徒で、実際に旧奉安殿の移送に携わった土井吉人氏によれば、旧奉安殿は、昭和21年7月に花見国民学校から払い下げとなりました。6月から7月にかけて倉吉で開催された校長会や国や県からの強い指示、指令の影響をうかがわせます。払い下げられた旧奉安殿が、解体されずに長和田地区に移された詳細な経緯は不明ですが、各戸から1名ずつ人力を提出させ(「労力奉仕」と言ったそうです)、木馬(きんま)に載せ、当時、長和田集落の真ん中にあった長和田同志会場(青年会場とも呼ばれていたそうです)まで曳いて行ったとのことです。当時は集落内の路地も狭く、旧奉安殿の通行に際しては、路上に張り出した樹木を伐採したり、通行の妨げになる家屋の軒先を一部外したりと、旧奉安殿の移送に際し、注意が払われました。その後、昭和52年に自治公民館が、現在地に新築されるのにあわせて、再度移動することとなりました。この際は、屋根と建物本体を一旦切り離し、フォークリフトで自治公民館横に移送したそうです。

写真2
湯梨浜町長和田自治公民館横に現在も残る旧奉安殿。
写真3
現在は、倉庫として使用され、地元の祭礼関係の道具が保管されています。
写真4
正面上部。菊の御紋はなく、移設の際、屋根と本体を切り離した跡が見られます。

おわりに

 本県の場合、学校敷地内からの奉安殿の撤去は昭和21年に完了したと思われます。ただ、福井県のように1947(昭和22)年になって撤去が完了したところもありした(注13) 。ところで、GHQの指令やそれを受けた国からの指示には「解体」という文言は一切見られません。指示されたのは、「撤去」でした。ただ、占領下という状況からすると「撤去」という言葉を援用して「保存」するという選択肢はほとんど不可能でした。また、「撤去」=「解体」と即断したことや他の要因も大きかったと思われます(注14)

 実際にどれほどの数の奉安殿がどのような経緯で「解体」を免れ、他所へ移設されたのかは不明です。また、移設後、しばらくの間倉庫等として使用されたものの、耐久性の問題等からその後解体されたものもあったと思われます。では、解体と移設を分けた明暗は何だったのでしょうか。「撤去」という言葉に非常にひっかかるのですが、残念ながら、現段階は納得の行く資料を見出すことができません。現在、確認されている旧奉安殿の他にも県東中部には旧奉安殿といわれている建物がいくつかあります。今後、事例数を増やし、本県における旧奉安殿の行方を追ってみたいと思います 。

(注1)『戦時色払拭聯合軍指令文書綴 西郷国民学校』(鳥取県立公文書館蔵)。

(注2)小野雅章「戦後教育改革下の天皇制公教育の「解体」過程―御真影、祝祭日学校儀式、教育勅語、奉安殿などの廃止過程の実証的考察を中心としてー」(『日本大学人文科学研究所研究紀要』41、1991年)138頁。

(注3)小野同上論文によれば、福島県や山形県では、昭和21年3月の段階で、奉安殿の全面撤去を決定している。

(注4) 『聯合軍最高司令部指令綴 河北青年学校』(鳥取県立公文書館蔵)。

(注5)岸本覚「鳥取の奉安殿についてー那岐小学校奉安殿を中心にー」(『鳥取県収蔵品等調査活用支援事業「石谷家史料蔵』調査報告書7、2012年」)。なお、現資料は注1。この結果、西郷国民学校(現倉吉市立西郷小学校)は、「一、奉安殿ノ処理 1、倉庫トシテ使用シ、朝帰児童敬礼セザルコト 2、教育勅語、二十一年元旦詔書等桐ノ箱ナドニ納メザルコト 3、神殿造ノモノ改造ノ事 4、御紋章取除クコト」という条件付きで倉庫として残すことを決定している。

(注6)小野前掲論文。

(注7)小野前掲論文、岸本同上論文及び注1。

(注8) なお、西郷国民学校の奉安殿は大正14年元旦に落成(『西郷 西郷小学校創立100年誌』(西郷小学校教育振興会、昭和49年)27頁)、昭和21年「アメリカ進駐軍の命令で取りこわすことになり、宮本儀一氏(上余戸)に金千円で払い下げられた」とあり(『同書』28頁)、「進駐軍の指令により、奉安殿を取り除」いたのは、8月3日であった(『同書』96頁)。

(注9) 小野前掲論文。

(注10) 船岡の旧奉安殿については、『日本海新聞』1999年2月4日付記事の他、『新船岡町誌』(船岡町、平成14年)450-451頁。さらに岸本前掲論文を参照。

(注11)那岐の旧奉安殿については、岸本前掲論文の他、『日本海新聞』2012年3月17日付記事の他、『写真で見る智頭町の文化財―第4集―』(智頭町教育委員会、平成24年3月30日)38及び77頁を参照。

(注12)『東郷町誌』(東郷町、1987年)653頁。

(注13) 小野前掲論文138~139頁。

(注14)例えば、佐治第三国民学校(現鳥取市立佐治小学校)の校長であった春菜重美氏の回想によれば、奉安殿は県とGHQの了解を得て、倉庫として利用することとしたものの、「・・・これを戦後間もなく組織された日教組(筆者注:日本教職員組合)が問題にして、幹部の者が度々学校に押しかけて来て、即時取りこわしを迫る、県の日教組本部に呼び出す、家に帰っていれば家にまで押しかけて来て、吊し上げをする。・・・(中略)・・・結局私が日教組から反動校長、反民主主義校長の烙印を押されながら頑張りとおして、転任した事でした。」とあるように、奉安殿の解体は必ずしもGHQ主導ではなかったことがうかがえる(『啓明 佐治第三小学校百年誌』(佐治第三小学校PTA、昭和50年)143頁)。

(清水太郎)

活動日誌:2012(平成24)年7月

1日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、渡邉)。
3日
民具調査・資料借用(鳥取市用瀬郷土歴史館、樫村)。
4日
資料調査(境港市史編さん室、渡邉)。
5日
資料調査(日野高校黒坂施設、樫村)。
6日
近代・現代部会合同資料調査(鳥取市気高町総合支所、清水・岡・足田)。
7日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(県立博物館、渡邉)。
8日
民具調査(湯梨浜町泊歴史民俗資料館、樫村)。
9日
民俗調査(松江市八束町、樫村)。
10日
資料返却(鳥取市用瀬郷土歴史館、樫村)。
12日
新鳥取県史編さん委員会(公文書館会議室)。
近世資料調査(~13日、公文書館会議室)。
16日
民俗調査(倉吉市大谷、樫村)。
18日
県史編さんに関する協議(北栄町北条島、岡村)。
遺物借用(県立博物館、湯村)。
19日
近代・現代合同資料検討会(公文書館会議室)。
25日
県史編さんに関する協議(鳥取短期大学、岡村)。
27日
写真資料返却(日野町歴史民俗資料館、樫村)。
28日
出前講座(湯梨浜町橋津地区公民館、湯村)。
31日
民俗調査(境港市中野町、樫村)。

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編集後記

 戦前は各学校に設置されていた奉安殿ですが、今はすっかり姿を消してしまいました。

 学校から消えたといえば…県史編さん室では二宮尊徳像のことが話題になりました。小学校ならたいてい設置してある、と私は思っていたのですが、戦時中に武器製造のため供出されたり、本を読みながら歩くのは危ないという理由から撤去されたり、今はあまりないそうです。そのかわり、というわけでもないのでしょうが、ロダンの考える人の像があった、という人もいました。地域によって、時代によって、小学校の姿もさまざまだなあ、と感じました。

(岡)

 
  

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