調査・研究(東伯耆の中世城館)

発掘調査で出て来なかったモノ、出て来たモノ(その2)

 令和2年に発掘調査を行った狗尸那城で出土した遺物の謎解きシリーズの2回目は、出て来たモノを取り上げます。

 

 1回目でご説明したように、狗尸那城から出土した遺物の年代観は、15世紀半ば頃から16世紀前半までという見立てでした。

 

 狗尸那城は現地踏査により、遺構の一部に16世紀前半までの年代観を示しているエリアがありました。

 

 そうなりますと、山名や尼子、毛利や秀吉といった外部勢力が角逐をはじめ、その勢力による改修が行われる前の段階で既に築城されていて、居住空間として使用されていたとする想定も成り立ちます。

 (陶磁器が使用され・後に廃棄されるまでの期間だけでは説明が難しいので。)

 

 狗尸那城のある鹿野町では、関係者のご尽力で町史の研究が進められてきましたが、平成の大合併前に刊行された『鹿野町誌』では狗尸那城が詳しく取り上げられていませんでした。ところが、その後になって、鹿野町史専門委員会による『研究紀要 平成8・9年度』において続報として紹介されています。

 

 強大になった山名氏の勢力を削ぐため、将軍足利義満が仕掛けた1391年の「明徳の乱」で反乱軍側に与した山名満幸が西に逃れる途中で、子どもの一人を家臣に託し(狗尸那城のある)鷲峯山に隠匿し、居城を構え、永禄8年(1565)に4代後の後裔が県東部の岩井郡陸上村(現岩美町)に移り、因幡守護山名氏に付属し、3村を与えられた、というのがそれまでの顛末です。

 紀要の筆者(元鹿野町教育長の長岡健二さん(故人))は、「この城として考えられるのは鷲峯山ということから、狗尸那城ではないだろうか。」と推定されています。

 

 天正8年(1580)11月26日の日付で、山名豊弘が宇治・大野・陸上3ヶ所を与えた山名豊弘宛行状(写カ)が『新鳥取県史』(鳥取県公文書館・平成27年刊)に掲載されています。

 

 永禄7年に、布施天神山城から「鹿野」(狗尸那城との想定)に退去していた、但馬系因幡守護を毛利軍が攻撃しています。そして、永禄8年には彼らが但馬方面に退去したと考えらています。   (『戦国の因幡武田と鹿野城』(鳥取県埋蔵文化財センター・令和2年刊))

 但馬系因幡守護が狗尸那城に退去して来る前から同城に居住していた者たちも、但馬系因幡守護と共に永禄8年に東方面に退去していった、と推測できるかも知れません。

 

 「16世紀前半までの戦国時代の鹿野には、但馬守護家山名氏に属する山名一族が領主として君臨し、同時に気多郡を統治しており、気多郡に但馬守護家の勢力が扶植されていた。」(小坂博之「因幡鹿野城の発掘」『中世の考古学』)とあり、16世紀前半までは但馬勢の居城であったとの推測も成り立ちます。

 

 山名満幸後裔説には疑問点もありますが、歴史ロマンでもあり、可能性として考えておきたいと思います。

 

 出て来るとは思っていなかった、出土品が出て来たことで、狗尸那城の築城起源を改めて考えるきっかけになりました。

 

 詳しくは、3月に刊行予定の因伯の中世城館シリーズ3冊目『鹿野亀井とクシナ城』でご確認下さい。

 

 調査研究に関連したコラムは、不定期ですが、引き続き3月の年度末まで継続いたします。

 

                              (北村順一)


秀吉発給文書から統一政権における合戦について考える

 秀吉発給文書から考えるシリーズ、前回は文書の様式などについて考えましたが、2回目の今回は、秀吉の統一政権への過程において、戦闘の形態、評価方式がどう変化したかを考えてみたいと思います。

 

 秀吉は、天正9年の鳥取城攻め、同10年の備中高松城攻めを転換点として、信長没後の同10年の山崎合戦、同11年の賤ヶ岳合戦と天下統一に向けて快進撃をつづけます。

そして、天正12年には徳川家康・織田信雄と小牧・長久手合戦で戦います。

 

 秀吉発給文書に出て来る「陣立書」とは、特定の合戦を想定し、そのために自己の軍勢を最も効果的に配置したもので、制定者の花押または印章が据えられているもので、小牧・長久手合戦が契機となって生まれたとされています。

 

 戦国後期に鉄砲が普及したことで、戦闘の主力が鉄砲足軽による集団戦に移行するなど戦闘の形態も大きく変容し、城郭建築や武具、文書様式にも変化がみられました。

 

 鎌倉時代からの「着到状」や「軍忠状」によって武士が自らの戦功を主人に上申する方式から、主人が制定した「陣中条目」に基いて奉行人の指図で行った武士の働きぶりを軍監(目付・横目)が判断する方式に変わりました。このような過程で「陣立書」が生まれました。

 

 小牧・長久手合戦の陣立書には、因幡関係では「宮部善浄坊 合弐千五百」とあります。天正17年の宮部継潤の軍役が「弐千」で更に「合」とあるので、宮部継潤の組下として亀井茲矩の参加を想定しましたが、実は茲矩はこの合戦には参陣していなかったものと考えられます。

 

 次はずーっと下って、「慶長の役」です。

 『新鳥取県史』(1777号)に文禄四年(1595)正月十五日の高麗国動御人数帳が掲載されていて、「高麗城々留守居之事」として、亀井武蔵守(茲矩)があがっています。朝鮮のどこかの城の留守居役に任じられていました。ですから、文禄の役と同様に慶長の役にも参陣したとばかり思っていました。

 

 ところが、亀井茲矩の居所と行動の調査を進めていく中で、慶長の役が行われた、慶長2年から同3年に亀井茲矩は別の所で仕事をしているらしいことが分かって来ました。

 

 改めて、慶長の役の前後の文書に当たってみました。

県立図書館から借りた『毛利家文書之三』932号に、秀吉の御朱印が据わった慶長二年二月廿一日の 「豊臣秀吉高麗陣陣立書写」が載っていました。

 

 総合計 拾四万千五百人の動員規模で、茲矩の名前が書かれていた文禄4年正月十五日時点の総計十六万人の動員規模より縮小されています。そして、前あった茲矩の名前は、「城々在番衆」から外れていました。

 

 文書をみることに変わりはありませんが、それまでは武士自らが「着到状」や「軍忠状」によって戦功を主人に上申する方式(実績報告)でしたが、それが主人が制定した「陣中条目」(事業計画)に基いて奉行人の指図で行った武士の働きぶりを軍監が判断する方式に変わっていました。

 それまでの実績報告とは異なり、事業計画方式に変わっているので、計画変更があり得るということを頭に入れて、事業実績を確認しないといけないと知らされ、それからは県立図書館にある参謀本部編の『日本戦史』で確かめるようにしました。(『日本戦史』は、大日本帝国陸軍参謀本部が、英知を結集して膨大な資料を解析・編纂したものです。)

 

 (この記事は、三鬼清一郎「陣立書の成立をめぐって」を参考にさせていただきました。)

 

 詳しくは、3月に刊行予定の因伯の中世城館シリーズ3冊目『鹿野亀井とクシナ城』でご確認下さい。

 

 調査研究に関連したコラムは、不定期ですが、引き続き3月の年度末まで継続いたします。

 

                             (北村順一)

 


発掘調査で出て来なかったモノ、出て来たモノ(その1)

 令和2年に発掘調査を行った狗尸那城は、遺構の残存状態はとても良好ですが、遺物・文献は少なく、まして文献ではストレートに狗尸那城と書かれた一次史料はありません。

 また、遺構についてもそれだけで年次比定の決め手にするのは困難が伴います。

 そこで、遺物・遺構・文献(狗尸那城と書かれたモノ以外の一次史料も含めて)を相互に対比しながら凡その年代を推定せざるを得ません。

 

 ということで、まずは出土した遺物(陶磁器)について見ていくことにします。

 

 1回目は、出て来なかったモノを取り上げます。

 

 お城ファンの皆さんの中には、「杉山城問題」ということをお聞きになられた方もあるかと思います。

 出土した遺物と縄張り遺構の年代観が一致しないことから、築城主体に対して異なった見解が提起されるなどの論争があり、見解の一致をみていないという問題です。

 

 狗尸那城の場合もこの問題に突き当りました。

 少量ではありましたが、出土した遺物の年代観は、15世紀半ば頃から16世紀前半までという見立てです。

 一方で、横堀や竪堀の連結、礎石建物など、遺構からみると研究者の多くが16世紀後半と評価されます。

 この年代観は、製作されてから、持ち込まれる年代観を示していて、使用され・後に廃棄されるまでの期間は考慮されていません。

 

 ですから、陶磁器を使用するような山城の使い方を想定した場合、ある程度の時期差を考慮することも必要だと考えられます。

 

 他地域の例ですが、甲斐の武田勝頼(信玄の後継者)が構築し、躑躅ヶ崎(つつじがさき)館から移転した新府城ですが、ここから出土した遺物は古い年代観を示しましたが、新府城の築城年代が特定できることから、新府城跡の出土遺物は躑躅ヶ崎館から移転と共に搬入されたとの解釈がされているようです。

 

 一方で、陶磁器を使用しないような山城の使い方も想定しておく必要があります。

 

 多くの発掘調査に携わられた研究者からは、「発掘調査では16世紀後半の遺物は出ない。」と云われます。

 戦国時代になると合戦が日常化したことで、近江にある浅井長政の小谷(おだに)城のように、山城が居住空間になったような戦国大名も出てきますが、そうではなくて純粋な軍事拠点の枠割を付与された山城もあったと考えられます。

 

 これも他地域の例ですが、「軍事拠点の城は、遺物の消費が殆どない可能性が高い。」という見解もあります。

 

 東国の方では、陣中に「器」を持参するようにとか、器の種類を規制するような文書や、城の在番は30日分の支度と、「薄漆」を持参し、番中支度というような文書も残っています。

 (この部分は、HP「お城の研究史」を参考にさせていただきました。)

 

 狗尸那城は、遺構からみると、改修が繰り返された形跡があると考えられます。

 戦国時代の鹿野郷は、山名や尼子、毛利や秀吉といった外部勢力が角逐する場でした。

 遺物、文献は少なく、遺構だけで判断することも困難で、決して容易ではありませんが、鹿野郷を取り巻く政治・軍事情勢も検討することで、その時々の狗尸那城の役割を考えながら、考察を進めています。

 

 詳しくは、3月に刊行予定の因伯の中世城館シリーズ3冊目『鹿野亀井とクシナ城』でご確認下さい。

 

 調査研究に関連したコラムは、不定期ですが、引き続き3月の年度末まで継続いたします。

 

                             (北村順一)


毛利氏発給文書から豊臣政権への統一過程をみる

 毛利氏発給文書から豊臣政権への統一過程をみる

 

 前回は、亀井茲矩あて秀吉発給文書から豊臣政権の成立過程をみて来ましたが、今回は因幡・伯耆に多大な影響を及ぼした毛利氏の発給文書から、毛利氏が豊臣政権へ移行する過程における文書の変化について、先行研究(『中世のなかに生まれた近世』山室恭子氏)をご紹介しながら、みて行きたいと思います。

 

【書式】前回と同じように、差出し署名、書止め、宛所の敬称といった観点でみて行きます。

 <差出し署名>

 「名乗り+花押」だったものが、「花押」だけに変わっていきます。

 <書止め>

 「恐々謹言」(書状系)、「状如件」(如件系)から、「也、以上」と命令口調に変わっていきます。

 <宛所の敬称>

 漢字で「殿」と書いていましたが、「とのへ」と平仮名書きに変わっていきます。

 

【内容】こういった形式の変化ばかりでなく、内容についても変化がみられます。

 「宛行」、「安堵状」から「命令」、「掟」への変化です。これは、主君-家臣間で相互の意思疎通があったものが、主君側(奉行という官僚機構)から一方的に家臣に与える方式に変化しています。

 こうした主君-家臣間のつながりの希薄化の中にあって、「官途状」だけが家臣との絆(きずな)をつなぎ止める役割を果たしました。

 

【背景】こうした変化の背景には次のような背景がありました。

 毛利氏は、安芸の国人領主から戦国大名化を遂げ中国地方の雄にまで成長し、後には反織田勢力と結んで信長に敵対し、秀吉とも長年にわたる抗戦を続けますが、天正10年の本能寺の変により和睦して一旦戦いを終結させていました。そして、秀吉の天下統一の過程の中で、天正13年春に秀吉-毛利(輝元)間で京芸和睦がなります。

 そして、天正16年には輝元自らが、関白になっていた秀吉に臣従の礼をとり、上洛します。

 

 そして、輝元が7月に上洛して秀吉に謁見し、帰国した時から書式の尊大化が起こっています。

 

 毛利氏の領国が豊臣政権の勢力下に組み込まれました。領国内の惣国検地、官僚機構などにより、戦国大名から近世大名化していく過程の中で、文書の内容や書式が変化したものだったようです。

 

 『秀吉の接待~毛利輝元上洛日記を読み解く~』二木謙一氏が参考になります。

 

                              (北村順一)


統一政権の成立過程を亀井茲矩あて秀吉発給文書からみる

 文書は、差し出す側が、自分を相手に対してどのように位置付けているかで表現が変わります。

 今の県庁が発出する文書も、差し出す相手とのバランスによって差出人名義が決められます。

 県庁では、これまでから差出人の押印を省略する公印省略文書がありましたが、菅内閣における行政手続での印鑑廃止の動向を受けて、一層推進する動きが出てきています。

 

 秀吉の時代にも伝統的な書札礼(しょさつれい:手紙の書き方)はありましたが、それに則り、又ははみ出していく形で変わっていきます。

 

 秀吉が統一政権の成立過程において、自らの権威を文書の上にどう表現し、相手に押し付けたか。

 

 今回の亀井茲矩シリーズは、国立歴史民俗博物館が所蔵する亀井家文書の中から代表的な秀吉発給文書について、その原本から秀吉文書の年代による用紙の使い方や文書の様式の変化を見ることで、皆さんと一緒に確かめていきたいと思います。

 

 別表と見比べながら読み進めてください。

 

<差出し署名>

 木下藤吉郎、羽柴秀吉への改姓、筑前守、豊臣と名乗りが変わりますが、署名、押印にも変化が見られます。天正11年にライバルの柴田勝家を倒す賤ヶ岳合戦までは名乗り+花押でしたが、同12年に徳川家康と戦った小牧・長久手合戦の頃より花押から朱印に代えています。花押の自署よりも印の方が薄礼で、相手に対して尊大な態度です。後にそれが加速し、名前を書かずに朱印だけにしてしまいます。天正13年に秀吉が関白に任官したことが反映していると考えられます。

 

<書止め>

 今の手紙でも、謹んで申し上げる意味で、最後に「敬具」「謹言」などと書きます。秀吉は天正12年までは「恐々謹言」を用いていましたが、関白任官後天正13年から書止め文言を「候也」と命令口調に変えています。対等な人に差し出す書状でなく、上位下達の「直書」とよばれる様式で、相手を見下した上から目線の文書になっています。それまでは同盟的な側面を持っていた亀井茲矩との関係が、主君と家臣の関係に変わったことを意味していると考えられます。

 

<宛所の敬称>

 県庁の文書では、従来は差し出す相手に「殿」を付けていましたが、今では「様」変わりして久しくなります。

 秀吉は、それまでは漢字で「殿」のくずし字を書いていましたが、天正13年の途中から「とのへ」と平仮名書きに変えています。「殿」の方が厚礼、「とのへ」の方が薄礼であり、こんな所にも差を付けている念の入れようです。

 県庁での電子メールのやり取りで、「〇〇様」でなく「〇〇さま」と打って電子メールを送られてくる方(もちろん筆者より上位職)がありますが、意識されているのでしょうか。

 宛所の位置も、「殿」から「とのへ」の変化に合せて、月日の「月」の字あたりから書き始めていたものを、「月」と「日」の中間あたりに下げているようで、相手を見下げた態度になります。

 

<料紙>

 天正17年(1589)年の文書から、料紙の大きさが一挙に巨大化し、料紙の種類も通常の奉書紙から厚手で皴のあ大高檀紙に変わっています。原本を同縮尺でコピーしていますのでお分かりいただけると思います。秀吉が天正13年に関白に任官し、同14年に太政大臣に就任し、全国制覇を視野に納めた時期に当たります。

 

<差出し押印>

 これまで日付の「日」の下に捺されていた朱印が、文禄元年12月の文書から「日」の字に掛る位置に捺されるようになります。自分の名前を「日」の下に書くのがへりくだった書き方だという決まりがありましたが、尊大化の流れの中で秀吉はこれを嫌ったものと思われます。天正18年に小田原北条氏を滅ぼし、奥羽仕置きで全国制覇を実現し、天正20年(12月8日に文禄に改元)は朝鮮侵略(文禄の役)を始めています。

 

<編年>

 文書番号30の知行宛行状のように年次が書かれている秀吉文書は少ないですが、以上のような文書の形と様式の変化から発給された時期がある程度判断されます。書かれた内容から判断する場合とも一致すればいいですが、中にはそうでない場合もあり悩ましいことがあります。

 

<追記>

 この記事を読まれている皆さんは先刻ご承知ですが、この時代、文書の本文などは「祐筆」(ゆうひつ)と呼ばれる書記官が書き、秀吉などの差出人は花押のみでした。

 

(この記事は、『国立歴史民俗博物館研究報告 第45集』『国立歴史民俗博物館企画展示「近世の武家社会」図録』などを参考にして、一般向けに再構成したものです。)

 

<補足>

 秀吉が、亀井茲矩を含む因幡の大名たちに大坂城普請を命じた、宮部兵部少輔(長煕)あての文書が『新鳥取県史』1776号で掲載されています。

 『新鳥取県史』では、大名たちの表記が「殿」となっていて、年次を文禄3年カとしています。

 『豊臣秀吉文書集六』では、大名たちを「とのへ」と表記していて、年次を文禄3年としています。

 この文書を所蔵している大阪城天守閣が刊行した『生誕400年記念特別展 豊臣秀頼展』図録に原本が掲載されていますが、それを見ると、大名たちを「とのへ」と書いているようで、年次を慶長3年と比定しています。大阪城天守閣から掲載許可をいただきましたので、末尾に原本を掲載しますので皆さんもご自分の目でお確かめください。

 書かれた内容はひとまず置いておくとして、秀吉文書の様式からすると、「殿」を用いた文書を文禄3年に比定するには無理があると思われます。

 

 詳しくは、3月に刊行予定の因伯の中世城館シリーズ3冊目『鹿野亀井とクシナ城』でご確認下さい。

 

 調査研究に関連したコラムは、不定期ですが、引き続き3月の年度末まで継続いたします。

                              (北村順一)

 

豊臣秀吉朱印状

 

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史料で事実が証明されたワケ(その3)

 亀井茲矩関連の連載のうち、意外なことから事実が証明されたワケシリーズの3回目をお届けします。

 

 今回は、亀井茲矩の伏見屋敷です。

 

 秀吉が自らの居城として文禄3年から再整備した指月伏見城ですが、「伏見城普請役之帳」というのがあって、そこに亀井茲矩が出ているので、動員されていたものと考えられます。

 その伏見城が文禄5年閏7月12日深夜の地震で倒壊し、秀吉は直ちに閏7月15日から木幡山に伏見城の再建を始められ、大名屋敷は新伏見城と一体となるように整備が行われたと考えられています。

 モノ本によると、「御成等のあった大名屋敷」というのがありますが、亀井茲矩クラスには御成等はなかったようで、亀井茲矩屋敷は挙がっていません。ところが、秀吉の因幡攻めによる鳥取城攻略後に鳥取城主となった宮部継潤に昔仕えていた田中吉政の関連で伏見城下絵図を見ていたところ、田中吉政邸の近くに小さい字で亀井武蔵(茲矩)と書かれている一角を見つけました。

 

 絵図では証拠能力に乏しいと批判を受けそうなので、史料がないか調べてみました。

 

 詳細な説明は、3月に刊行予定の因伯の中世城館シリーズ3冊目『鹿野亀井とクシナ城』でご確認いただくとして、簡単に申し上げますと、亀井茲矩は豊臣大名でしたが秀吉政権が終わっても、続けて徳川政権にも与していました。

 

 そして、徳川時代になった慶長16年、伏見大火で大名屋敷20ばかりが焼亡します。史料には、「(前略)余焔之所移亀井武蔵守□□、古田大膳大夫□□、島津右馬頭□□、稲葉右近大夫□□、田中筑後守忠政、(中略)等宅焼亡云々」とあります。

 

 記録に残るような火事で屋敷が焼亡したことで、伏見に亀井茲矩屋敷があった事実が裏付けされました。

 

 (この記事は、日本史研究会『豊臣秀吉と京都』などを参考にしました。)

 

 調査研究に関連したコラムは、不定期ですが、引き続き3月の年度末まで継続いたします。

 

                               (北村順一)


史料で事実が証明されたワケ(その2)

 元旦の記事で、津村別院の近所に亀井茲矩屋敷があり、大坂御坊移徒御法事記に載ったことから、茲矩の大坂屋敷が津村にあったことが確かめられたことをお伝えしました。

 

 これを「その1」として、今回から亀井茲矩シリーズは2回にわたって(合計3回シリーズ)、ひょんなことから事実が証明されたワケシリーズをお届けします。

 

 「その2」は、天正10年6月8日の茲矩による秀吉見参と琉球守の拝命です。

 

 天正10年6月2日、本能寺の変で信長の死を知った秀吉は、毛利と和談して中国大返しで東上する途中、6月7日に姫路城に入リましたが、翌8日に茲矩は秀吉に見参。

「汝に出雲国を與(あた)へんと約せしに、今事変に処して、遽(すみや)かに和を毛利氏に講ずるに至れり。復た如何ともすべからず。願くは出雲以外に於て、汝の欲する所を選べと。茲矩曰く、光秀誅に就かば、海内六十余州、挙げて麾下(きか)に属せんこと、火を睹(み)るよりも明らかなり。然れども、茲矩の海内の地に於ける、出雲を除く外、望む所なし。若し琉球国を賜はらば、伐(う)ちて之を取らんと。秀吉大いにこれを壮なりとし、腰間に挿む所の金団扇を採り、其の中央に、六月八日秀吉と署名し、右辺に羽柴筑前守と書し、左辺に亀井琉球守殿と書し、手づから之を授けて、他日の証左と為す。」と『道月餘影』にあります。

 

 その後、茲矩が唐浦の海戦(文禄の役)で文禄元年6月2日に李舜臣に敗北を喫し船を捨てて逃げたときに、茲矩が秀吉から拝領した団扇が朝鮮軍に接収されました。

 

 朝鮮側の記録によると、「於敵船中、捜得金団扇一柄、中央書曰六月八日秀吉署名、右辺書羽秀筑前字五字、左辺書亀井琉球守殿六字蔵于漆器」と、6月8日秀吉という署名があり、右辺には羽柴筑前守という五字が、左辺に亀井流求守殿の六文字が書かれており、漆甲に入っていたようです。

 

 茲矩が李舜臣に敗北を喫し、船を捨てて逃げたときに、茲矩が秀吉から拝領した団扇が朝鮮軍に接収されたことで、事実が裏付けされました。

 

 更に、羽柴秀吉書状(折紙) 亀井家文書(『新鳥取県史』1540)の「先度者被罷上見参ニ入」と符合し、この文書が天正10年に比定できる根拠の一つとなりました。

 

 「先度者被罷上見参ニ入、満足候、其城之儀、境目之事に候間、弥丈夫覚悟専一候、兵粮等之儀、五百石も善浄より可被差籠旨申遣候、請取候て能々可被置候、自然(羽柴)秀吉此方隙入事も可在之候、此時候間、堅固之儀、兼而申遣候、普請等用心かた、何も不可有由断候、恐々謹言、

    十月十九日         秀吉(花押)

「(切封)(墨引)」                 羽筑

 亀井琉求守殿 御宿所     秀吉

(この記事は、『津和野町史』などを参考にしました。)

 

 詳しくは、3月に刊行予定の因伯の中世城館シリーズ3冊目『鹿野亀井とクシナ城』でご確認下さい。

 

 調査研究に関連したコラムは、不定期ですが、引き続き3月の年度末まで継続いたします。

                              (北村 順一)


菅政権と徳川政権のペーパレス化

 菅内閣になって、行政手続での印鑑廃止やペーパーレス化、デジタル化を推進する動きが加速しています。

 あと三か月すると鳥取県庁も人事異動の季節になりますが、鳥取県庁における人事異動の発令は、ペーパレス化や事務の簡素化などの観点から、所属長からの辞令書交付による発令が、所属長からの口頭による発令、更にはデータベースでの公開で発令に代えるなど究極のペーパレス化となって久しくなります。

 

 このシリーズ、今回は菅政権と徳川政権のペーパレス化について考えてみます。

 

 当センターでは令和2年度に鳥取市鹿野町にある狗尸那(クシナ)城の発掘調査を行いましたが、その関連で、戦国武将である亀井茲矩の文献調査を行いました。

 

 茲矩は、秀吉が鳥取城攻めをした天正8・9年の鹿野城堅守を評価され、秀吉から気多郡を申付られます。

 秀吉の小田原城攻めを前にした天正17年には気多郡13,800石の秀吉朱印状が発給されています。

 

 豊臣秀吉朱印状(折紙) 亀井家文書(『新鳥取県史』1714)

   因幡国之内気多郡壱万参千八百石事、令扶助訖、右之内弐千八百石無役、残而壱万千石之分、五百五

  十人軍役可相懃候也、

    天正十七

      十二月八日   (秀吉朱印)

               亀井武蔵守(茲矩)とのへ

 

 センターでは、年度末前の3月中を目途に因伯の中世城館シリーズ3冊目として、『鹿野亀井とクシナ城』の発刊に向けた編集作業の追い込みに入っていますが、折角ですので、茲矩が最初に拝領した朱印状原本を所蔵されている国立歴史民俗博物館にお願いして原本の写真を掲載し、皆さまにご紹介する予定です。

 

 次に、関ケ原合戦後、家康から高草郡24,200石を加賜されたと『道月餘影』(茲矩公三百年祭の明治45年に亀井家により発行)をはじめ編纂物にはすべてそう書かれています。

 

 慶長14年には、茲矩の後嗣政矩の上意による婚姻に伴って領知された河村郡5,000石を合せて4,300石となります。

 

 茲矩は、湖山池の干拓工事、大井手用水路の開設など、高草郡内での執政が認められますので、高草郡の加増は間違いないはずでしたが、念のために一次史料を探しましたが見当たりません。

 

 関ケ原合戦後の全国規模での領知再配分に関して、後に肥後熊本藩に領知替えとなった細川忠利から、前領豊前小倉藩の領知宛行に関する書付の有無を聞かれた父忠興は、「権現様より豊前一国、豊後之内拝領申候時、御書出少も無之候、我等に不限、いずれも其分にて候つる」と答えています。

 

 土佐山内家の場合も、「土佐国拝領仕候、但、御判物は頂戴不仕候」で、榊原康政が家康の使者として山内一豊の下に赴き、「御感ニ被思召之旨被仰出、土佐国拝領」の旨を伝達しています。

 福島正則の場合も、井伊・本田両名が使者として芸備二ヶ国拝領の旨を口頭伝達しています。

 

 関ヶ原合戦後の領地宛行に際しては、いずれの大名に対しても、宛行の朱印状も領地目録も発給されていなかったようで、家康の使者による伝達、口頭発令だったようです。

 

 400年前に、大名たちにとって何より重要な領知宛行状がペーパレス化・押印廃止されていたことになります。

 

 ただ、その理由は「関ヶ原合戦後の領地配分に際しては、その実質的な決定と執行が家康によってなされていることは疑いないけれども、同時にその法的、制度的観点からするならば、それらの領地配分、給付の主体は依然として(豊臣)秀頼なのであって、家康の名をもってすることはできなかった。」ということで菅政権における目的とはまったく異なっていたようです。

 

 (この記事は、笠谷和比古・黒田慶一『豊臣大坂城』を参考にしました。)

 

 調査研究に関連したコラムは、不定期ですが、引き続き3月の年度末まで継続いたします。

                             (北村 順一)


令和3年、御霊神社にお礼します

 明けましておめでとうございます。
 コロナ禍の中での新年を皆さまはどのようにお過ごしでしょうか。
 初詣もままならない、巣ごもりでスマホやネットをご覧になっている読者の皆さまへ、新年最初となるこのコラムは、神社に関するトリビアをお届けします。

 タイトルの御霊神社ですが、「ごりょう」神社と読みます。
 今回は大阪淀屋橋にある御霊神社についてご紹介します。
 神社のホームページはこうなっています。

■令和3年1月1日 歳旦祭 0:30~
皇統の繁栄、五穀豊穣と国民の加護、コロナ禍終息を祈念します。 
新しき年の皆様方のお幸せをお祈りします。
午前0時より新年参拝を行います。

 当センターでは令和2年に鳥取市鹿野町にある狗尸那(クシナ)城の発掘調査を行いました。また、狗尸那城に関係する主要人物として、戦国武将である亀井茲矩の豊臣政権下における居所と行動の文献調査を行いました。

神社のホームページによると神社の由来などとして、

「御霊神社は古来(中略)旧摂津国津村郷の産土神として、多くの氏子・崇敬者の崇敬を集めています。御霊神社の前身である圓江神社(中略)豊臣秀吉公の大坂居城とともに政治経済の中心地として発展し、諸大名の崇敬厚く寄進も相次ぎ、中でも後の津和野藩の祖である亀井茲矩侯が邸地を割いて寄進され、圓江神社は文禄3年船場の現在のこの地に移りました。

 編纂(さん)物には、

「御霊の社は天正年中の亀井邸の鎮守であると伝えられる」(桜井成広『豊臣秀吉の居城 大坂城編』(1970年))
「御霊神社 平野町御霊筋に鎮座し天正年間の創建と云う(太田源太郎『増補 浪花の志保里』(1895年))
「御霊神社 平野町の西亀井町にあり 伝云 中古石州津和城主亀井侯の第この地に有しゆへ今亀井町の名のこれり 一説ニ当社は其始亀井侯のやしきの鎮守なりしという」(暁 鐘成(幕末浪華の人)『摂津名所図会大成』)

 いずれも編纂物ですので、更に文献調査しました。すると、
『慶長日記』慶長三年十一月十四日 慶長三年大坂御坊移徒御法事記
「七ツ時ニ亀井武蔵守津村ニ居住ノ間、依近所始而礼ニ被来候、仍中折紙五十束也、取あへす振舞をする也、客ハ魚、予者精進也、」

 これは、本願寺関係史料にある『慶長日記』になります。
 亀井茲矩屋敷が津村にありました。
 これは慶長3年の記事で、同2年津村に隣接し本願寺津村別院が建立され、同3年に移徒がありました。

 亀井茲矩侯が御霊神社に邸地を割いて寄進されたこと、津村別院の近所に亀井茲矩屋敷があったことから、一次史料に残ることになりました。

御霊神社

亀井公とゆかりのある御霊神社(神社HPより転載)

 当埋蔵文化財センターを本年もよろしくお願いいたします。

 (北村 順一)


狗尸那城調査余話-天正18年の亀井茲矩-

 今年最も大きな話題となった発掘調査の一つに狗尸那(くしな)城がありました。

現在、企画研究担当の総力をあげて『発掘調査概報』の年度内発刊に向けて取り組んでいます。

とりわけ、主曲輪で発見された御殿的建物(礎石建物)跡については、亀井茲矩の関与が天正9年以降に整備を行った可能性を考えています。

そこで、解明の手掛かりになるかも知れないと、亀井茲矩の居所と行動を洗い出す作業をしています。

 当センターは、考古学的に遺構・遺物を取り扱うのが本務ですが、旧石器の時代から、原則として中世までが調査対象とされる中で、中世になると文献との突き合わせも必要となり難しくなってきます。

 調査目的を達成するためには必要な手段で避けて通れませんので、文献の専門ではないかも知れませんが、一つ一つ確認しています。

 ということで、今回は天正18年の亀井茲矩の居所と行動を見て行きます。

 

〇豊臣秀吉朱印状(折紙) 亀井家文書(『新鳥取県史』1728) 
【原  文】
 去月晦日之書状令披見候、其元検地等事、無由断由尤候、能々相改候者、岐阜侍従(池田照政)へ被下候条、則帳共可引渡候、所務之儀、岐阜侍従より可申付候、随而楠杉舟ニ可造木候者、相尋候て書付可申候、御用之時可被召遣候、河端海際へ道何程有之通可書付候、猶木下半介(吉隆)可申候也、
 (天正十九年)九月八日  (豊臣秀吉朱印)
亀井武蔵守(茲矩)とのへ
【読み下し】
 去る月晦日の書状、披見せしめ候。其元検地等の事、油断無き由、尤もに候。よくよく相改め候はば、岐阜侍従へ下され候条、則ちに帳共引き渡すべく候。所務の儀、岐阜侍従より申し付くべく候。随って楠・杉、舟ニ造るべき木に候はば、相尋ね候て書き付け申すべく候。御用の時、召し遣わさるべく候。河端・海際へ道何程これ有るの通り、書き付けるべく候。なお、木下半介申すべく候なり。
    九月八日      (豊臣秀吉朱印)
     亀井武蔵守とのへ
【現代語訳】
 先月晦日(付けの)の書状を見せてもらった。そちらでの検地等の事は油断無く(精励しているとの)由、尤もである。よくよく調査されたら、岐阜侍従へ下されるのだから、(検地終了後は)則ちに(御前―検地―)帳類を引き渡すように。所務については、岐阜侍従から申し付けるだろう。随って、楠・杉は舟ニ造る用木だから、(貴殿の方でも)聞き取りを進め、その結果を書き付けてほしい。必要になった際には徴発するつもりだ。(送り出しに使う)河端・海際までの道がどの程度(多分距離を含めて)有るのかを書き付けるように。なお、木下半介が伝える。
    九月八日      (豊臣秀吉朱印)
     亀井武蔵守とのへ
【解  説】
 天正18年(1590)の秀吉による小田原攻めでは、史料にある岐阜侍従(池田輝政)のほか亀井武蔵守、南条伯耆守、宮部法印、木下備中守、垣屋隠岐守らも参陣しています。(『伊達家文書』天正17年霜月廿□日「豊臣秀吉小田原陣陣立書」ほか)
 小田原城を7月11日に陥落させた秀吉は、奥羽仕置きを行った後、9月1日に京都に凱旋しています。(『織豊期主要人物居所集成』藤井謙治「豊臣秀吉の居所と行動」)
 小田原攻めの論功行賞の結果、東三河が池田輝政に与えられますが、輝政は秀吉の奥州征伐に従い、奥州の平定後は秀吉の命を受け、奥州各地の検地に従事している(『豊橋市史』)一方、輝政の東三河は検地奉行に東部3村で亀井武蔵守(茲矩)、その他諸村で宮部善祥坊(継潤)が従事しており、同年の畑や池場の検地帳には亀井武蔵守の名が見え(『北設楽郡史』近世編)、鳳来町でも七郷宝珠院の後世の文書に「太閤様御代天正十八年寅八月、天下一統御検地有之、当地御奉行亀井武蔵守殿御検地被成」とあり(『新城市史』)、東三河の北部はこの両者によって検地がなされたらしく、当地方にも秀吉から検地奉行が派遣されたものと思われます。(『豊橋市史』)
 なお、天正18年検地の後に池田氏による領国一斉検地が行われた形跡はなく(新行紀一「三河時代- 岡崎城主・田中吉政」市立長浜城歴史博物館・岡崎市美術博物館・柳川古文書館『秀吉を支えた武将田中吉政』)、ましてや吉田城への転封を命じた秀吉が「岐阜侍従」と書く下限は天正18年の此頃で、官途などの表記の原則論に立てば岐阜侍従の表記にそぐわない。よって、本史料は天正18年発給と考えられます。
 史料後段は、用材の調査、用材を運ぶための経路調べをさせていた事が記されています。
『日本書紀』に「杉及び樟(くすのき)、此の両の樹は以ちて浮寶(船舶のこと)と為すべし。」とある通り、古来から杉とクスノキは船の用材と見られており、「楠杉舟ニ可造木」はおそらく「御渡海」用の舟の用材と推測されます。池田輝政の前任地岐阜は木曽ヒノキ(裏木曽)の産地でした。
 秀吉はかねてから明の征服を構想しており、天正18年には明征服の先導役を務めさせようと朝鮮通信使に要求するなど具体化の動きを見せており、天正19年(1591)1月20日には、秀吉は全国に造船命令を発するなどしています。
 本史料が天正19年とすると、造船命令を出してから用材の調査や運搬経路を調べさせたこととなり、算勘に明るい経済官僚を多く召し抱えた秀吉政権らしからぬ、辻褄の合わない話となります。

 

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センター紹介

 久松山地域は戦国時代以降鳥取城が築かれ、鳥取藩32万石の中心地でした。現在でもこの地域は県庁があり、行政の中心地となっています。

 しかし、戦国時代から遡ること約800年前の奈良時代、県庁から4キロほど離れたこの国府町に国史跡因幡国庁(現在の県庁にあたるもの)がありました。今ではひっそりとした田園地帯ですが、因幡三山(甑山(こしきやま)、今木山(いまきやま)、面影山(おもかげやま))に囲まれ、当時の面影を残す万葉の歴史と古代の出土品にあふれた万葉の里となっています。
 この歴史豊かな万葉の里の一角に埋蔵文化財センターはあります。


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