調査・研究(東伯耆の中世城館)

亀井茲矩公の後裔亀井亜紀子氏が狗尸那(くしな)城を視察されました。

 狗尸那城は、当センターで行った発掘調査の成果を今年7月に記者公開し、地元紙などで報道されましたが、狗尸那城の記事が亀井亜紀子氏の目に止まり、何か気になっていて、いつかは訪れてみたいと思っておられたそうです。

 今回、墓参りを兼ねて狗尸那城を視察されるということで、11月21日に亀井公を敬愛する地元住民を代表して鹿野総合支所長さんと埋蔵文化財センター所長とで狗尸那城をご案内しました。

 まず、亀井公の菩提寺譲伝寺の前身である抱月寺に通じる古仏谷(こぶつだに)入口にご案内し、鷲峯村絵図を見ながら亀井公が通われたであろう足跡に思いをはせられました。車中では、ちょっと変わった狗尸那(くしな)城という名前は、亀井公が仏教故事にちなんで命名されたと説明すると、亀井公の異国趣味からして納得がいかれたようでした。

 次は、いよいよ狗尸那城に背後の尾根筋から向かいました。
 尾根を深く切断した堀切、緩斜面に掘られた竪堀、高く急峻な切岸、延々と続く深い横堀と土塁+竪堀、その上に見上げるような曲輪群や想定櫓台跡とコンパクトながら物凄い防御施設に、「こんな山城見たことない。こんなの想像してなかった。すごい。」と山城の魅力にはまってしまわれました。
 最後は主曲輪の御殿的建物跡地で記念撮影となりました。

 「茲矩は土木工事が好きだったから、絶対茲矩がいじっていると思う。御殿的建物にも茲矩はいたと思う。」と感覚的に表現されていました。

 狗尸那城の歴史と亀井公の関りを中心にご説明する予定でしたが、遺構のすばらしさに圧倒されてしまわれたようで、遺構の見学と説明だけであっという間に予定時間が大幅に超過してしまいましたが、ご満足いただけたようです。


城郭ライター 萩原さちこさん を狗尸那(くしな)城にご案内しました

 全国各地に残された中世の山城をめぐり、お城の魅力や面白さを楽しく、わかりやすくご紹介されている城郭ライターの萩原さちこさんを狗尸那城現地にご案内しました。
 現地では狗尸那城の巧みな縄張りを興味深く観察いただき、大きな横堀や竪堀、土塁などがよく保存されていると、大変感動されておられました。萩原さんから次の(感想)をいただきました。

〇萩原さんの感想
コンパクトながら無駄のない設計で、改変が的確。戦国期の戦闘的な城として全国的にも見応えがある城と感じました。
 同時に、地域の歴史を紐解く大きな宝が発見されたことに感激しています。調査がさらに進むことで、地域の城の特徴やあり方、改変時の情勢などを知るヒントが出てくるのだと思います。そうした解明に立ち会える喜びを感じつつ、今後の調査成果を楽しみにしています。


 多くの方に、狗尸那城の魅力が伝わったら大変ありがたいです。

現地案内中

現地を案内中

横堀の様子

横堀の様子


狗尸那(くしな)城出土陶磁器の資料調査

 狗尸那城の試掘調査では、約百点の土器・陶磁器の破片が出土しました。これらの中には、年代がある程度推測しやすい中国産の青磁、白磁の碗(わん)や白磁の皿、国産陶器として備前焼(岡山県南部)の擂鉢、瀬戸(愛知県東部)の天目茶碗の破片があります。

 しかし、出土資料はほぼ小片で、年代の特徴を示す口の部分が無く、年代の判断が難しい資料もありました。そこで中世陶磁器を専門とされている愛媛県埋蔵文化財センターの柴田さんに年代観を確認するため調査指導をお願いました。

 調査では、実際に愛媛県内で出土した中世遺跡の資料と比較しながら、狗尸那城の出土陶磁器の特徴や年代観について指導いただきました。今回特に確認したかった狗尸那城出土品は白磁皿の小さな破片(写真1)です。これには窯内で器を重ねて焼くため器の内側に釉薬を剥いだ跡が残っており、この破片の特徴から時期を割り出すことを期待しました。

 まず、類似資料との比較ということで見近島(みちかじま)城跡の出土品と比較しました。見近島城は戦国期の有力な海賊衆、能島(のしま)村上氏と関係の深い16世紀中までの遺跡で、多くの輸入陶磁器が出土しています。この城の出土品の中には類似品として皿の内側に釉薬がかからない白磁皿があります。

 資料を比較した後、柴田さんによると、見近島城出土の白磁皿は釉薬を回しかけたもの、狗尸那城出土品は小型品で内側の釉薬を剥いでおり、製作技法に違いがあると指摘をいただきました。また、狗尸那城出土の白磁皿は小型品で、日本で多く出土例のある15世紀後半頃の中国福建省邵武(しょうぶ)四都(しと)窯産のものと教えていただきました。ただし、内側の釉薬を剥ぎ取ったものは少ないとのことです。

 このほか青磁碗片や備前焼擂鉢片の年代観を確認していただきました。センターでは現在、発掘調査概報の取りまとめに向けて鋭意取り組んでいますので、成果報告は今しばらくお待ちください。

写真1 白磁皿片

写真2 調査の様子


上期の思い出5 狗尸那城の現地説明会

 新聞、テレビ、鹿野町総合支所だより等で取り上げられ、今、話題になっている狗尸那城。

今回の思い出は、この狗尸那城の第2回現地説明会です。

 9月19日(土)に第2回目の現地説明会を参加者21名で開催しました。2回目の現地説明会には、近県や遠くは滋賀県からご参加の方もおられ、狗尸那城の注目度の高さを再認識しました。

 現地で解説を始めると、熱い思いを持っての県外から参加された皆様だけあって、熱心にお城の各施設を観察をされていました。「切岸付近に転がっている石は、石積みか石垣の名残か?」、「つぶて石は発掘調査で掘り出されたものか?」、「植林される前は畑などだったのか?」、「主郭の礎石建物の時期はいつ頃と考えているのか?」、「井戸跡は保存庫の可能性はないのか?」など、各郭で質問攻めを受けました。御案内する側としては、熱心にご覧いただき、嬉しい限りでした。

 今後も狗尸那城について新たなことが分かりましたらホームページ等で皆様に情報発信していきますので、ホームページのチェックやフェイスブック登録をお忘れなく!!

井戸跡付近を熱心に観察される参加者


狗尸那城調査余話-亀井茲矩の関ケ原-

 近年、「関ケ原の戦い」の再検証説が提起され、テレビや新聞で紹介され一般書でも刊行されていることもあって、専門家以外の一般にも知られるようになりました。

 従来、江戸時代の家譜や軍記といった二次資料や、明治時代に参謀本部が編纂した『日本戦史関原役』により通説化した歴史像を、同時代に書かれた一次史料をもとに再構築するものです。

 当センターが今年度行った狗尸那(くしな)城発掘調査について報告概要を取りまとめ中ですが、狗尸那城に関わったと考えられる戦国武将亀井茲矩について、この時期の動向について関連調査を行いました。

 この時代の因幡における動向として、『関ケ原合戦公式本』には、「石田三成が挙兵をしたとき、会津攻めに従軍していた因幡の諸将のなかでは、木下重堅(因幡若桜)と垣屋恒総(因幡浦住)が西軍について伏見城や大津城の攻撃に加わる一方、宮部長房(因幡鳥取)と亀井茲矩(因幡鹿野)が東軍につくなど、対応が分かれていた。しかも、当初は東軍に属していた宮部長房も、三成が大坂城下に残されていた大名の妻子を人質にとりはじめると、西軍に寝返ろうとしたものらしい。東軍の陣を無断で離れたため、拘束されてしまったのである。関ケ原の戦いに勝利を収めた家康は、亀井茲矩に因幡の平定を命じた。茲矩は、関ケ原の本戦に参陣はしていたものの、南宮山に布陣した毛利・吉川勢を牽制していたため、特筆すべき功を上げていない。所領拡大の好機と見た茲矩は、9月23日、400余の軍勢を率いて因幡へ向かう。(以下省略)」とあります。

 「県史だより」でも「1600年の関ヶ原の戦いの際に、因幡・伯耆の武将の多くが西軍を支持して没落したのに対して、亀井茲矩だけは東軍に味方しています。これも彼自身の人生で培われてきた『時代の先を読む力』の延長線上にあるのではないかと思われます。」というのが、大方の受け止め方かと思われます。

 では、一次史料ではどうなっているのでしょうか?

 鳥取県では近年『新鳥取県史』が編纂されましたが、関ケ原の戦いに関する史料はありませんでした。

 鹿児島県では、鹿児島藩が、関ケ原の戦いに参戦した島津家家臣に命じて記録させた史料が『鹿児島県史料』「旧記雑録後編三」にあり、このなかの『山田晏斎覚書』に因幡の亀井茲矩に関する記事があります。

 原文は、「敵合前ニ亀井武蔵殿 被仰候ハ、敵つき来候間、鉄砲衆御加勢可有之よし候条、濱之市衆可遣之由御意ニて、城井三郎兵衛との・前原孫左衛門殿、其外餘多福山衆中、鎌田次郎九郎・前原源六被遣候、其衆彼方備ニ被参着候半与存候時分、早味方勢崩れ候、以降承候へハ、亀井殿野心之由申候事、」とあります。

 白峰旬氏の現代語訳では、「9月15日、開戦前(「敵合前」)に亀井茲矩から、敵が来たので、鉄炮衆を加勢してほしいとのことだったので、濱の市衆を遣わすべき旨、(島津豊久の)御意にて城(ママ)(堀ヵ)井三郎兵衛殿(以下、人名は省略)を遣わした。その衆が亀井茲矩の備(そなえ)に到着する途中と思われる時分に、早くも味方勢は崩れた。以後、聞いたところでは、亀井茲矩は野心(謀反をおこそうとする心)があったということである。」となっていて、要するに「亀井茲矩から島津豊久に対して、鉄炮衆を加勢してほしいとの要請があり、島津豊久は鉄炮衆を遣わした。しかし、亀井茲矩は途中から寝返った。」というのが新たな解釈です。

 更に調べてみると、通説を構成する元になった『日本戦史関原役』にも通説を疑わせる記述がありました。

 「(前略)初メ家康ハ重堅光成ノ脱シ去リシヨリ已ニ長煕ヲ疑ヒシカ今又告ケスシテ西下スルニ及ヒ果シテ異心アリト為シ或ハ云フ吉政之ヲ訴ヘタルナリト亀井茲矩ニ其居城ヲ収ムヘキヲ命ス〇或ハ云フ茲矩は九月十五日関ケ原ノ西軍ニ在り西軍崩潰ノ時東軍ニ属シタリト又云フ初メヨリ家康ニ属シ東下シタリト竝ニ事蹟ノ徴スヘキナシ因テ附図第二号之ヲ中立ノ部ニ収ム(以下省略)」とありました。(下線は筆者)

 江戸時代の徳川の世においては、徳川家への忠節の誇示、徳川幕藩体制の護持が求められる中で、従来の通説が出来上がってきたのでしょうが、明治時代になって呪縛が解けて、モノが言えるようになったということでしょうか。昨今の出来事を見るにつけ、考えさせられるものがあります。

 

(主な参考文献)

『日本戦史関原役』(明治26年参謀本部)

『関ケ原合戦公式本』(2014年小和田泰経)

『史学論叢第46号』「関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈」(2016年白峰旬)

『天下分け目の関ケ原合戦はなかった』(2018年乃至政彦、高橋陽介)

『新視点関ケ原合戦』(2019年白峰旬)


「亀井玆矩」、「武田高信」歴史大河ドラマ候補に?

 10月31日(土)「鳥取県を舞台に歴史大河ドラマを推進する会」による歴史大河ドラマの選考会に行ってきました。

 今回、新たな候補作として「亀井茲矩物語」と「鳥取城主・武田高信」がエントリーされており、これは当センターが調査研究しているテーマ「戦国の因幡武田と鹿野城」とピッタリだったので、プレゼンを聴講に行きました。

 大河ドラマを目指した取組みということでしたが、地域の方々が地域に関係する歴史上の人物について知識を深める学習をするだけでなく、地域史の掘り起こしを実践し、紙芝居やミュージカルなどの具体的な行動をされていました。このことで、地元の気運が盛り上がり、地域おこしにつながるのではないかと思い、すばらしい取組みをされていることがわかりました。

 当センターも調査研究を通じて、遺跡等の価値や地域の歴史を明らかにし、遺跡等を保護しながら活用し、地域振興を図る取組みをしています。

 地域の皆さまの歴史の掘り起こしや再評価に一役買っていきたいと思います。

会場の様子

当日資料


狗尸那(くしな)城ウォークの開催しました!

 10月4日(日)、鳥取市鹿野往来交流館「童里夢」さんの企画による「狗尸那(くしな)城ウォーク」にて、出張現地解説を行いました。当日はあいにくの曇天でしたが、県外を含めて町内外からの申し込みがあり、10名ずつ3回現地をご案内しました。狗尸那城の切岸、横堀、竪堀や堀切といった防御施設、山頂の主郭で見つかった礎石建物跡とともに鹿野を舞台にした外部勢力の争いについて皆さんに説明させていただきました。

 参加された方から「石垣の城は良く見るが、土のみの城は初めてでした」、「お城を造るにあたり、色々な事を考えながら造られていたんだなと思った」、「最近狗尸那城があるのは聞いていたが、ここまですごい山城とは知らなかった」と山城の真の魅力を分かっていただいたことで、担当者として喜びひとしおでした。「来年は別の城でやらないのですか」と次の山城ウォークを楽しみにしておられる方もあり、「童里夢」さんにもお伝えしましたが、埋蔵文化財センターでも取り組みを継続してご期待に応えていきたいと考えています。


10月21日(水)、狗尸那(くしな)城発掘担当者がテレビ出演します。

 10月21日(水)のBSS山陰放送の番組「なまラテ」に、発掘担当者が出演し、狗尸那(くしな)城についてお話します。狗尸那城は、新聞やニュースでも取り上げていただきましたが、小規模ながら横堀や竪堀を巧みに用い遺構の残りが非常にいい山城で、主郭(山頂)には県内初めてとなる大規模な礎石建物(主殿)跡が発見されています。

※15:50からの放送です。是非ご覧ください。


狗尸那(くしな)城に対する質問にお答えします。

 9月12日、19日に行った『狗尸那(くしな)城現地説明会』には当初日程で申し込まれていた方の中からご参加いただきましたが、新型コロナウイルス感染拡大防止対策下での実施となり、皆さんの疑問に十分お答えする時間がとれませんでした。遅くなりましたが、いただいていたアンケートの中から主なものをいくつかご紹介させていただきます。

Q1 狗尸那城の城主は誰か?

A1

調査前の見通しでは、但馬系因幡守護(山名豊定・豊数)、安芸毛利方で在番を務めた武将(湯原元網、野村士悦)、そして織田方の武将で後に鹿野城主となる亀井茲矩が、狗尸那城に対して何らかの関与があったのではないかと想定しています。

文献、遺物、遺構の調査結果を総合的に勘案しながら、狗尸那城の整備主体や居城主体等に近づけないかと考察を進めています。

Q2 狗尸那城をどれだけの人数で守っていたのか?

A2

城を守るための人数について、江戸時代の兵学者が一応の回答を出しています。

それによると攻撃に面している塁の上には一間(1.8m)につき三人の兵力がいるとしています。これらの兵が弓矢を射、石弾を投げ、鉄砲を撃つので射撃面は相当な密度ですが、これは理想的で十分な人員配置なのでこのとおりいくとは限りません。実際に考えてみると、敵に対する線の延長を一時に攻撃を受けるケースは少ないと考えられます。(『城の秘密』井上宗和)

また、中世の城についての文献として『築城記』があり、山城の塀に設ける狭間(外敵の攻撃から身を隠し、城内からは狭間を通じて弓矢で敵を射落とす機能を持っていた)の数について書かれています。

「サマの数は一町ノ面に卅と申、…然共数之事、やう体によるべし、…」(狭間の数は一町につき三十という、但し数のことは状況によるものである)とあります。(『朝倉氏の家訓』福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館)

1町=60間なので、2間に一つの狭間を設ける計算ですが、一つの狭間に何人の兵力を配置するかで決まってきます。ちなみに、これを仮に2人として、狗尸那城で一時に攻撃を受ける線の延長を90mとしますと、必要な守備兵は100人±50人となります。

具体的には、想定される敵方の攻撃規模・攻撃力、城方の動員力・守備力、築城技術、地形などの要因を考慮して決めていたものと考えられます。水準の高い技術の結集はむしろ配置される軍勢の少なさを埋め合わせる意味を持つとの指摘もあります。(『戦国時代の城』峰岸純夫ほか)

Q3 山城に敵がいてもほっておけばよいのではないか?

A3

部隊が進軍するときに、その経路上にある敵の山城を落とさず、先に進もうとした場合、山城から下りてきた敵兵が侵攻軍の背後や側面に出没して、侵攻軍や補給部隊が襲撃されたり、前面の敵と背後(放置した城)から追尾してきた敵に挟み撃ちにされてしまうので、山城にいる敵に対して攻略するか、相応の兵力を割いて山城の城兵を封じ込めるなど、何ら対策を講じないまま進軍することはないと考えられます。(『城取りの軍事学』西股総生)

Q4 当時の城兵たちの食糧はどのように調達したか?

A4 

文献調査によれば、狗尸那城は永禄12年(1569)から天正元年(1573)までは、毛利方の因幡における戦略拠点として武将(湯原元網、野村士悦)が在番をしていたと考えられます。毛利氏は天文年間末期(1550~55年)に大名権力を確立したのち、天正10年(1582)の羽柴秀吉との備中高松城講和までの約30年間、毎年のように近隣地域の大名・領主と戦争を行っていました。

毛利氏が兵糧を支給した事例からその特徴が明らかにされており、毛利氏が自ら主導して指揮を執る戦争において、参加した将兵に兵糧を支給していたことが確認されています。次に、毛利氏の兵糧支給政策における特徴として、(1)兵糧は主に毛利氏の支城に在番する将兵や、味方する国衆に支給された、(2)「境目」=戦争地域にある城の将兵にとって兵糧は必要不可欠のものであり、最前線にある山城への兵粮運送が戦争の帰趨を左右するものであることを認識していた、(3)現時点で臨戦状態にはない城には「置兵槙」なるものを貯蔵して非常時に備えていた、などが指摘されています。(「戦国大名毛利氏と兵糧」菊池浩幸)


狗尸那(くしな)城 紙上講演会(その4 全4回)

 前回に引き続き高橋先生による「戦国時代の鹿野を取り巻く政治・軍事情勢」(後編)をお届けします。

戦国時代の鹿野を取り巻く政治・軍事情勢(後編)

                        高橋正弘

 では現鹿野城が古城化し、新鹿野城が代替した時期とはいつか。「鹿野城」へのニーズが劇的に転換される天文1516年(154647)頃が最も濃厚と思われる。同15年前半までの城は、因幡と出雲の廻廊を担っていたが、但馬山名が因幡山名を滅ぼした途端、城の矛先は一転して出雲方面へ向けられる事となった。尼子氏の最前線が伯耆中部にまで後退せざるを得ない局面の中、その維持は至難の業であり、事実、但馬山名の手に落ちていた過去もあった。こうして尼子氏による城の徹底的な破壊が進められたと思われる。片や因幡を制圧した但馬山名からすれば、依然として東伯耆までを管下に置く尼子氏の脅威は去っておらず、屈強な防波堤の再構築に迫られた。鹿野入道以下が玉砕した攻防戦は、尼子氏の人海戦術にもよるが、代替城郭の占地へ大きな教訓となり得た。人々を、地域経営より地域保全のための要害造りへ向かわせずにおかないからである。皮肉にも、この要害性が天正初期に障害化し、仕切る城への回帰を熱望させた、というのが論者が描く粗筋である。

 永禄05年(1562)秋、毛利元就は対尼子決戦のため出雲に進出するが、これに伴い出雲以東の政局にも影響が及んだ。当該期には友軍だった但馬山名氏が潜在的脅威となり始めたため、その西進を阻害する必要が出ていた。こうして翌06年(1563)春、元就支援の下で、鳥取城の武田髙信が但馬山名の傀儡政権と決別した。但馬山名は毛利と手を切り尼子支援に回った。同年冬、髙信は山名勢を天神山から鹿野城へ一掃した。翌年07月、毛利軍が新鹿野城を攻めるものの、山麓部で撃退されている。この時点での鹿野城には、明らかな強度上の変化が認められる。以後二年間、鹿野は亡命政権の首都となる。

 永禄08年(1565)冬、源七郎豐儀(毒殺被害者は誤り)を首班とする亡命政権も力尽き、恐らくは但馬へ去ったらしい。従って、これ以後の暫時、鹿野城は毛利系人物の管理下に置かれたと思われる。以後三年ほど因伯に目立った争乱は見られないが、換言すれば、そうした時期にこそ改修・増強の工事は施工しやすい。この時代、敵方から奪ったり、敵方へ通じてしまった重要な城々は、ほとんど例外なく構造を変えるための工事が施されている。出雲冨田・新山・末次・滿願寺、因幡鳥取城は好例だが、城の構造が相手方に筒抜けであれば、それだけ敵に付け込まれやすいのである。鹿野城のように、常に争奪の渦中にあった城であれば、所有者変更による改造は喫緊の課題となりえよう。この翌年、足掛け五年にも及ぶ毛利軍の攻囲に疲れた尼子氏は、月山冨田城を開いて毛利の軍門に降っている。

 永禄12年(156906月現在、鹿野城には毛利氏から派遣された湯原元網が在番の任に当たっていたが、元網は但馬諸寄の在番も兼ねていた。その一か月前、尼子勝久を擁した山中鹿介が尼子家再興戦を企て但馬に挙兵、劣勢に追い込まれた元網は、諸寄・鹿野城から撤収し、鳥取城で武田髙信と共に籠城する。翌年春には包囲も解け、武田髙信は氣多郡へ進出し、鹿野新山を足場に青谷小畑へ出撃して何者かと交戦していた。尼子家再興戦も、結局、元龜02年(157108月に頓挫している。

 天正01年(1573)春、第二次尼子家再興戰が因幡を標的に起こされると、それまで毛利氏の山陰道中部域で司令塔の役割を果たしていた鳥取城にも落城の危機が訪れた。毛利氏が野村士悦に鹿野在番を命ずるのは、こうした状況下である。ところが、その一か月後、輝元は士悦に対し「鹿野古城再建命令」を発した(僅か一か月で在番先が古城と呼ばれるのは不可解)。当時の輝元の期待は「因伯仕切りの城」の表現に顕著である。期待の言葉の裏には、鳥取城に代わる役割を鹿野城へ負わせようとした意図が感じられる。再建工事はその年一杯費やされ、士悦の在番も翌年三月までと決定された。この時に復興された古城こそが、今日周知の鹿野城と考えている。

 こうして江戸初期に廃棄されるまで再生鹿野城は引き続き重要な働きを期待されるが、それがゆえに以後も何度か危機が見舞った。例えば天正04年(1576)、因幡では武田髙信が斃され、伯耆でも柱石南條宗勝を失った南條・小鴨家では、路線転換を含む不穏な空気が支配的になっていた。毛利氏は、前年に鹿野城を含む氣多郡を山名豐國へ割譲していたが、因伯の情勢悪化に伴い、鹿野城だけを返還させた。この年、毛利氏は織田信長に追放された前将軍足利義昭を受け容れ、対織田戰へ舵を切っていた。信長は対抗上、羽柴秀吉を対毛利戦の指揮官に起用した。秀吉は、毛利領との境界付近で盛んに調略を駆使するが、鹿野城の返還は、信長へ傾きがちな豐國と東伯耆との間に楔を打ち込むためだったのである。そこに当時の鹿野城の重要性や役割が凝縮されている。

 更に天正08年(1580)夏、鹿野城は秀吉の第一次因幡制圧戰で織田方へ引き渡された。こうして城番の一人亀井茲矩が派遣され、以後40年近く亀井氏と城との関係が始まる。その初年早々、本来の城主鹿野某は茲矩と悶着を起こして城を出奔、荒神山を再生して籠城、織田方に転じた東伯耆~鹿野間を分断した。南條元續が翌年これを攻略するまで、荒神山は鹿野城への大きな脅威たり得た。天正09年の第二次平定戦は、秀吉の渇殺劇が強烈過ぎて霞んでいるが、両軍決戦の真の目的こそ、因幡と東伯耆を一体化させられるか、或いは分断状態を維持できるかの戦いだった。同10年(1582)冬、羽衣石・岩倉城が吉川軍に落されると、東伯耆全体が鹿野城の存立を脅かすようになった。これらはいずれも、西側からの脅威への備えを亀井氏に講じさせるに十分な環境変化と評価できる。

                              了

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 久松山地域は戦国時代以降鳥取城が築かれ、鳥取藩32万石の中心地でした。現在でもこの地域は県庁があり、行政の中心地となっています。

 しかし、戦国時代から遡ること約800年前の奈良時代、県庁から4キロほど離れたこの国府町に国史跡因幡国庁(現在の県庁にあたるもの)がありました。今ではひっそりとした田園地帯ですが、因幡三山(甑山(こしきやま)、今木山(いまきやま)、面影山(おもかげやま))に囲まれ、当時の面影を残す万葉の歴史と古代の出土品にあふれた万葉の里となっています。
 この歴史豊かな万葉の里の一角に埋蔵文化財センターはあります。


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