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花弁高杯と共通する模様が彫られた桶~乙亥正屋敷廻(おつがせやしきまわり)遺跡(鳥取市鹿野町)

 

「鳥取西道路」建設に伴って発掘調査した乙亥正屋敷廻遺跡で出土した秀麗な木製品をご紹介しています。

今回は、弥生時代後期(2世紀頃)の桶(おけ)です。
この桶は高さ約25cm。スギ材を縦木取りしてつくられていますが、仕上げにいくつかの特徴があります。

そのひとつが、バチのようなかたちをした突起を削り出し、その上部にふたを綴じるひも孔があけられていること。
もうひとつが、外面全体を顔料で赤く塗っていること。
そして、脚に当たる部分の外面に「Y」字形の線刻を入れていることです。

注目したいのは、「Y」字形の線刻。
水平に溝を周回させて、そこから等間隔に脚の下端に向かって縦の溝が彫ってありますが、この意匠が、山陰と北陸で出土している花弁高杯(かべんたかつき)の花弁のデザインとよく似ているのです。

とくに、水平線と縦線の交点部分を「Y」字型に、線刻の断面を「V」字状にそれぞれ彫る点が、当遺跡や青谷上寺地遺跡など山陰で出土した花弁高杯の花弁の彫り方と共通することが注目されます。

いまのところ、このような線刻を入れた桶の例は、当遺跡出土のものと、同じく「鳥取西道路」建設のため発掘調査した松原田中遺跡(鳥取市松原)の2例(松原田中遺跡のものは、現在進めている、西道路出土木製品の調査研究事業で確認)が知られるのみなのですが、いずれの場合も、花弁高杯の花弁の意匠を手掛けた木工技術者による仕上げなのかもしれません。

松原田中遺跡出土の脚にスリットが入った桶

乙亥正屋敷廻遺跡の脚に線刻の意匠が入った桶   松原田中遺跡の脚に線刻の意匠が入った桶

           

             青谷上寺地遺跡出土の花弁高杯の花弁部分

繊細な模様が彫られた棒~乙亥正屋敷廻(おつがせやしきまわり)遺跡(鳥取市鹿野町)

 

5月12日(日)に供用開始した自動車専用道路「鳥取西道路」の建設に伴って発掘調査を行った乙亥正屋敷廻遺跡(鳥取市鹿野町)で出土した木製品をご紹介しています。

今回ご紹介するのは、用途は分かりませんが、繊細な模様が刻まれた楕円形の棒状品です。

谷地形に堆積した土の中ほどの層(弥生時代後期後半、2世紀頃)から出土したこの棒状品は、途中で折れていて全長は分かりませんが、残っている部分の長さが約13cm、いちばん太い部分の直径が2cmあり、広葉樹の芯材でつくられています。
栓のような円盤状の頭がつきますが、その下は野球バットのグリップのようにいったん細くなって徐々にふくらんでいます。

中央部分には、相対する三角形のきざみを帯状に3段めぐらせ、さらに下方の細くなった部分にも相対しない三角形のきざみを1段巡らせています。

こうした細やかで精巧な装飾は、彫刻刀のような鉄製の工具でつくられたと考えられますが、この遺跡からは鉄製の工具が一切出土していません。乙亥正屋敷廻遺跡を評価する際の、最大のナゾです。

泥除け板を装着した木製の鍬~乙亥正屋敷廻(おつがせやしきまわり)遺跡(鳥取市鹿野町)6

 

5月12日に供用開始した自動車専用道路「鳥取西道路」の建設に伴って発掘調査を行った、乙亥正屋敷廻遺跡で出土した木製品をご紹介しています。
今回は、弥生時代後期後半(2世紀後半頃)の農具の鍬(くわ)。アカガシ亜属の材で作られています。護岸施設を伴う溝の底近くから出土しました。

 

鍬は身と泥除板(どろよけいた)、そして柄からなりますが、出土したのは、身と泥除板。

 

このうち、身は、上半分がゆるやかに広がって、下半部に三角形の切り込みがあります。この部分の幅は約31cmあります。また、柄を差し込む穴は円形です。
さらに、柄穴の左右には泥除を取り付けるための四角い穴が開けられ、身の上部に泥除の背中部分となる、返りが作り出されています。

 

残念ながら保存処理を行う過程で剥落してしまったのですが、出土した時には、身の四角い穴に泥除をしっかり縛って固定する樹皮が巻かれていました(3枚めの画像)。

 

当時の鍬のつくりや使い方をうかがい知ることができる貴重な出土品です。

         表面                      裏面

    

                鍬の身と泥除を縛った樹皮部分

剣形木製品~乙亥正屋敷廻(おつがせやしきまわり)遺跡(鳥取市鹿野町)

 

この春に刊行した「乙亥正屋敷廻(おつがせやしきまわり)遺跡」(鳥取市鹿野町)の発掘調査報告書から木製品の数々をご紹介しています。

今回は、古墳時代前期初め(3世紀後半)頃の溝の底近くから出土した「剣形木製品」。
カヤの芯去材(材のうち芯をはずした部分)でつくられていて、全長は33cm、幅は4cmあります。

剣のかたちは表裏の区別がはっきりしていて、表面は丁寧かつ立体的なのに対して、裏面は平らです。剣身の中央にはふたつの孔(あな)が、縦に並んで開けられています。この孔の意味はよく分かりません。

また、柄と剣身の境には鍔(がく、柄と剣身との間に挟んで柄を握る手を防護する部分)を表現した突帯があり、さらに、鍔に近い剣身の側面両側には、突起が削り出されていたりと、全体に精巧なつくりで仕上げられています。

剣形木製品は、西日本を中心に弥生時代中期頃(前3世紀~1世紀)から古墳時代前期頃(3世紀後半~4世紀)にかけて、石川県小松市の八日市地方(ようかいちぢかた)遺跡(国重要文化財)、滋賀県草津市の中沢遺跡(国重要文化財)、奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡、岡山市の南方(みなみかた)遺跡など各地の集落遺跡で出土していますが、県内で出土したのははじめて。
当時、ムラの中で行われた儀礼か祭祀の用具と考えられています。

花弁高杯~乙亥正屋敷廻(おつがせやしきまわり)遺跡(鳥取市鹿野町)

 

今年春に刊行した発掘調査報告書から、精美な木製品をご紹介しています。

今回は、乙亥正屋敷廻遺跡から出土した「花弁高杯」(かべんたかつき)。

「花弁高杯」は、杯部分の裏面に花弁模様が陽刻してある木製高杯のことで、これまで、青谷上寺地遺跡や石川県金沢市の西念・南新保(さいねん・みなみしんぼ)遺跡で出土しているものがよく知られています。

いずれも弥生時代後期(2世紀頃)のもので、花弁の数は5弁や6弁あり、外面全体が赤く塗られていたり、杯部分の縁にひとつ、ゆるやかにカーブした把手のようなものが削り出されていることが特徴です。

このたび、乙亥正屋敷廻遺跡で出土した「花弁高杯」は、花弁の数が4つと区割りが単純で、高杯自体のつくりも青谷上寺地遺跡などでこれまで出土したものと比較すると、脚台部分や杯部分(欠損してはいますが)の直径が小さく、高さは変わらないので、全体が間延びしている印象です。

こうした違いから、乙亥正屋敷廻遺跡の「花弁高杯」は、青谷上寺地遺跡などで出土しているものより少し新しい時期(弥生時代後期の終わり頃、3世紀前半頃)のものではないか、と考えています。

「花弁高杯」が、弥生時代の後期に一時的につくられたものではなく、一定期間つくり続けられたことを推測させる資料と言えます。

木製の台付壺~乙亥正屋敷廻(おつがせやしきまわり)遺跡(鳥取市鹿野町)

 
この春に刊行した発掘調査報告書「乙亥正屋敷廻遺跡」に掲載している木製品の中から、優品をご紹介しています。

今回は台付壺とその蓋(ふた)。
台付壺は青谷上寺地遺跡を中心に西は壱岐市から東は長野市までの広域で分布している土器、台付装飾壺を木でつくった製品です。土器のようなさまざまな文様による装飾はされていません。

木製の台付壺は、これまで、青谷上寺地遺跡で2例出土しているだけ。しかも、蓋を伴っては出土していませんでしたが、このたびの発掘調査で、蓋を伴う台付壺が初めて出土しました。

壺本体のほうは、クワ属の木を横木取りでつくられています。
壺本体と蓋の両方の外面には、もともと全面に塗られていたらしいベンガラ(水銀朱)という顔料が一部に残っていました。
  
土器の台付装飾壺は、ムラの跡から出土することが一般的なので、ムラのマツリで使われた祭器と推定していますが、木製の台付壺も同様な目的、用途で使われていたも                                                                                                                                                                                                                                                                                                       のなのではないでしょうか。

乙亥正屋敷廻遺跡で出土した木製の台付壺とその蓋。

   左)木製の台付壺(上)とその蓋(下)        右)土製の台付装飾壺       

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いまに伝わる農具~鳥取市坂津口遺跡(鳥取市)

 
坂津口遺跡(さかつぐちいせき)のある地域は、弥生時代前期(紀元前7世紀)以来、現在に至るまで脈々と水田が営まれ続けてきた場所です。

この遺跡で、稲作が始まって間もない弥生時代前期の流路から、ほぼ完全なかたちの手箕(てみ)が出土しました。

出土した手箕は、ヤナギ属のヨコ材2本一単位とする「ござ編み」で、タテ材にはツヅラフジの樹皮を中央部分に、サクラ属の樹皮を両側部分に使って編まれています。また、枠材はアカガシ亜族の丸木です。大きさは横幅が80cm、縦幅が44cm。

弥生時代前期の手箕としては、唐古・鍵遺跡(奈良県)の出土例が知られ、また、青谷上寺地遺跡からは弥生時代中期(紀元前1世紀頃)の手箕が見つかっています。

手箕は、脱穀した穀物から穀物のみを取り出す脱穀具や、穀物の殻やぬかを取り除く精米具として、それらの作業が機械化される以前の昭和の時代までは農業に欠かせない用具でした。金沢坂津口遺跡の手箕は、その大きさといい、つくりといい、2,500年以上の時の隔たりを感じさせない出来栄えなのが注目させます。

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ほぼ完全なかたちで出土した手箕(現在、収蔵展示室でご覧いただけます)

素材植物ごとに色分けした手箕の実測図

「桛(かせ)」で糸巻き~乙亥正屋敷廻(おつがせやしきまわり)遺跡(鳥取市鹿野町)

 

「鳥取西道路」建設に伴って発掘調査を行った乙亥正屋敷廻遺跡。
浜村川が形成した南北に長く広い平野を東に見る丘陵の斜面と谷地形に立地する、弥生時代後期から古墳時代初め頃(1世紀から3世紀後半)のムラの跡です。

今回、ご紹介するのは「桛(かせ)状木製品」。出土した層の時期は弥生時代後期と考えています。

乙亥正屋敷廻遺跡で出土したものは、腕木(一枚目の画像の上下)のそれぞれ中心にほぞ穴を開けて支え木を差し込み、木製の目釘で固定してあります。支え木の中央には持ち手部分と思われる意匠も見られます。
スギの芯持材で作られ、腕木は長さ約23cm、支え木の長さは約60cmあります。

ところで、桛とは、紡錘(つむ)で紡いだ糸を巻き取る道具で、使い方は鎌倉時代の「春日権現験記」の中で描かれています(二枚目の画像)が、弥生時代の桛は、銅鐸に描かれた絵画(腰を下した人物が片手に持っているようす)として登場することで知られてきました。

けれども、発掘調査で出土した実物は、これまで静岡県菊川市の白岩遺跡のものが唯一とされています。乙亥正屋敷廻遺跡出土のものがやはり桛だとすると、全国で2例目というとても貴重な出土例になるわけです。

「春日権現験記絵」巻九(鎌倉時代、絵師は高階隆兼)に描かれた紡いだ糸を桛にかける女性(国立国会図書館デジタル化資料から部分引用)

谷に打ち捨てられた建造物の部材~乙亥正屋敷廻(おつがせやしきまわり)遺跡(鳥取市鹿野町)

 

「鳥取西道路」建設に伴い当センターが発掘調査したこの遺跡は、谷地形を中心に形成されていました。
谷部の周囲の尾根斜面を平坦に造成したり、谷地形の少し高い部分を平らに整形して、弥生時代後期から古墳時代初め頃(1世紀から3世紀後半)のムラが営まれていたのです。

その谷部分からは、弥生時代後期を中心とした多種多様にして「第二の青谷上寺地遺跡」とも呼べそうな優品を含む多くの木製品が出土。
とくに多くの木製品が出土したのが、2S-840と呼ぶ幅5mほどの谷でした。

建築部材の長い板材が東西方向を長軸に重なっていたほか、その上下からは同じく建築材の木舞(こまい)、垂木(たるき)といった材も出土し、屋根の一部と考えています。そして、これら建築部材に混じって、容器や腰掛などのさまざまな木製品も出土しました。

次回からは、建築部材以外の木製品をご紹介していきますね!

荻名第3遺跡~何に使った?取っ手と注ぎ口がついた弥生土器~(南部町)

 
  • 遺跡の場所 西伯郡南部町荻名
  • 遺跡の時代 弥生時代後期(約1900年前)
  • 発掘調査した機関 (財)鳥取県教育文化財団(2000)
  • 「お宝」の保管機関 鳥取県埋蔵文化財センター
  • この遺跡は、鳥取県西部を流れる日野川の左岸に南北に延びる「越敷山丘陵」の上にある弥生時代後期の大規模な集落遺跡「越敷山遺跡群」の一部です。調査区の北西の隅で見つかった「SI04」と名づけた竪穴建物跡では、人が住まなくなり上屋が解体された直後から、使わなくなった弥生土器や石器の捨て場所となっていたことが分かりました。このとき捨てられた土器の中に、土器の口の内面を赤い色の顔料で塗り、外側には縦長の取っ手とその反対側に斜め上にすっくと伸びる注ぎ口を取り付けたものが1点ありました。こうした特長以外は一緒に捨てられていた甕(かめ)形土器と同じで、外面にはススも付着していたので火にくべたという使われ方も同じのようです。こうした形の土器は弥生時代中期(2000年以上前)ではよく見かけるのですが、後期の中頃であるこの時期ではあまり例がありません。温めた酒を注ぐ祭器だったのでしょうか。気になる「お宝」です。荻名第3遺跡から出土した取っ手の付いた注口土器(南部町)

坂長第7遺跡~弥生人のおしゃれ・漆塗り竪櫛~(伯耆町)

 
  • 遺跡の場所 西伯郡伯耆町坂長
  • 遺跡の時代 弥生時代中期(約2200年前)
  • 発掘調査した機関 (財)鳥取県教育文化財団(2006)
  • 「お宝」の保管機関 鳥取県埋蔵文化財センター
  • 坂長第7遺跡は、鳥取県西部を流れる日野川の左岸に延びる長者原台地にある遺跡です。台地上から南東にある谷地形に下る傾斜地を発掘調査したところ、SD15と呼ぶ溝の中から漆塗りで歯をひもで結束した木製の竪櫛が出土しました。弥生時代中期のものです。櫛の頭(棟)に当たる部分は方形で、その中央に赤漆と黒漆で塗り分けられた鋸歯状の文様が表現されています。よく似た櫛が松江市タテチョウ遺跡から出土しています。漆は3層にわたって丁寧に塗り重ねられていていますが、鋸歯状文様の部分は、黒漆をベースに赤漆で三角形を塗り残して表現するという細かい工芸手法が用いられています。残念ながら、櫛の歯は失われていましたが、歯を結束した穴が頭部分に残っていたので、歯の数は少なくとも26本あったことも分かりました。弥生人の女性が長い黒髪を結うときに使った、漆の色が陽に映える美しい竪櫛だったことが想像できる「お宝」です。伯耆町坂長第7遺跡出土の弥生時代の竪櫛

長者原遺跡~弥生土器ざっくざく~(伯耆町)

 
  • 遺跡の場所 西伯郡伯耆町坂長
  • 遺跡の時代 弥生時代中期後半(約2100年前)
  • 発掘調査した機関 (財)鳥取県教育文化財団(2005)
  • 「お宝」の保管機関 鳥取県埋蔵文化財センター
  • 長者屋敷遺跡は、鳥取県西部を流れる日野川の左岸に南北に延びる長者原台地にある遺跡です。発掘調査では古代の官衙(役所)の区画溝が見つかったことが大きな成果でしたが、実は、さらにさかのぼった弥生時代の長方形(長軸約2.5m、短軸約1.3m、深さ約0.5m)の土坑(穴)の底に40個もの弥生土器が多くは破片となってはりついていました。土坑自体は土器を焼き上げる「焼成土坑」だった可能性もありますが、出土した土器の様子から土坑にまとめて捨てられたものと考えています。このため、弥生時代中期後半の一時期、日野川流域で使われた土器のかたちや文様などの特徴をよく知ることができる「お宝」です。長者原遺跡から出土した弥生土器(西伯郡伯耆町坂長)

笠見第3遺跡~土器は動く~(東伯郡琴浦町)

 
  • 遺跡の場所 東伯郡琴浦町大字笠見
  • 遺跡の時代 弥生時代中期後半(約2100年前)
  • 発掘調査した機関 (財)鳥取県教育文化財団(2002-2003)、鳥取県埋蔵文化財センター(2006)
  • 「お宝」の保管機関 鳥取県埋蔵文化財センター
  • 笠見第3遺跡は、中国地方最高峰「大山」から日本海へ延びる丘陵にある集落遺跡です。弥生時代の中期後半以降、近隣地域との交流が活発になり、それを裏付けるように近隣地域の土器が持ち込まれたり、あるいは人だけ動いて落ち着いた土地で出身地の土器をつくったり、ということが見受けられるようになります。ここにご紹介するふたつの土器のうち、左の土器(赤枠)は中国山地の向こう、吉備地域から持ち込まれた壺形土器で、首が長く胴が張るのが特徴です。祭祀に用いたらしい土器を多数埋納した穴から出土しました。外側には赤い色が塗られていることが日常生活に使うどきではないことを物語っています。右の土器も地元の土器のかたちとはやや違い、中国山地を越えてきた壺形土器のようです。こちらも外側に赤い色が模様のように塗られていて、祭祀に使われた土器だと思います。笠見第3遺跡からは、このほかにも因幡地方などから持ち込まれた土器もあります。こうした土器は、この遺跡が各地との交易の中心となるような拠点的な集落だったことを物語る「お宝」なのです。
                                  笠見第3遺跡出土の吉備系土器(東伯郡琴浦町)笠見第3遺跡出土の吉備系土器(東伯郡琴浦町)

笠見第3遺跡~海を渡ってきた鉄の斧~(東伯郡琴浦町)

 
  • 遺跡の場所 東伯郡琴浦町大字笠見
  • 遺跡の時代 弥生時代中期後半(約2100年前)
  • 発掘調査した機関 鳥取県埋蔵文化財センター(2006)
  • 「お宝」の保管機関 鳥取県埋蔵文化財センター
  • 笠見第3遺跡は、中国地方最高峰「大山」から延びる丘陵にある集落遺跡です。この遺跡に掘られた長辺1.2m、短辺0.8mの長方形の土坑(穴)には、大型の壺形土器などの土器多数などのほか、鉄製品2点が埋まっていました。何かの祭祀行為によって土器などを埋納した穴なのではないかと考えています。これら多数の出土品の中で「お宝」なのが、鋳造鉄斧(ちゅうぞうてっぷ)の破片(写真の赤枠)。鋳造とは「鋳型(いがた)」に鉄を流し込んでつくる方法で、この時代にはまだ日本列島では行われていません。なので、この鋳造鉄斧は中国大陸か朝鮮半島から北部九州を経由してもたらされたと推定される貴重品なのです。これまで、弥生時代中期にさかのぼる鋳造鉄斧は、山陰地方では鳥取市青谷上寺地遺跡(中国製)と北栄町西高江遺跡からしか出土していません。このことからも、笠見第3遺跡が地域の中核的なムラだったことがうかがえる「お宝」です。
    笠見第3遺跡出土の鋳造鉄斧(東伯郡琴浦町)笠見第3遺跡出土の鋳造鉄斧の実測図(東伯郡琴浦町)

笠見第3遺跡出土の玉作遺物(東伯郡琴浦町)

 
  • 遺跡の場所 東伯郡琴浦町大字笠見
  • 遺跡の時代 弥生時代後期前半から中頃(約2000年から1950年前)
  • 発掘調査した機関 鳥取県埋蔵文化財センター(2006)
  • 「お宝」の保管機関 鳥取県埋蔵文化財センター
  • 笠見第3遺跡は、中国地方最高峰「大山」から延びる丘陵にある集落遺跡です。このうちふたつの竪穴建物跡(SI34,SI49)から、管玉をつくる工程(「打割分割技法」と呼ばれる管玉にふさわしい大きさになるまで打ち欠いていく方法)がわかる玉作未成品や玉作の際に不要になった剥片などが多数出土。両竪穴建物跡が玉作工房だったことが分かりました。ほとんどの石材は北陸西部産の緑色凝灰岩(りょくしょくぎょうかいがん)でしたが、SI49から1点だけ島根県松江市の花仙山(かせんざん)産のものがありました。花仙山産の緑色凝灰岩は古墳時代の玉作 によく使われた硬質の石材で、笠見第3遺跡出土のものは、花仙山の石材を使った最古の事例です。また、SI31から出土した穿孔途中の未成品には穿孔のための鉄の針が刺さったままの珍しい(玉未成品の写真のうち赤丸で囲った)ものも含まれていました。それまでの石の針に代わり鉄の針が使われるようになったことで、より硬い石材での管玉作りを可能にしたのです。管玉づくりの過渡期を知る貴重な「お宝」といえるでしょう。
    笠見第3遺跡出土の玉作遺物(東伯郡琴浦町)笠見第3遺跡を南から望む(東伯郡琴浦町)

湯坂1号墳丘墓出土の管玉(東伯郡琴浦町)

 
  • 遺跡の場所 東伯郡琴浦町大字湯坂
  • 遺跡の時代 弥生時代後期後半(約1850年前)
  • 発掘調査した機関 (財)鳥取県教育文化財団(2004)
  • 「お宝」の保管機関 鳥取県埋蔵文化財センター
  • 湯坂1号墳丘墓は、「勝田川」によって形成された扇状地を北東に見下ろす、中国地方最高峰の「大山」からのびる高台にありました。「墳丘墓」とはマウンド(高まり)をもつお墓のことです。この湯坂1号墳丘墓からは、38個の管玉がまとまって出土して注目を集めました。管玉は(1)濃い緑色をした碧玉性の太身のものが2個、(2)青みを帯びたものが1個、(3)硬い緑色凝灰岩でつくられたものが34個、(4)鉄石英という赤茶色をした石材でつくられたものが1個です。(1)は島根県松江市の「花仙山」産、(2)は兵庫県北部産、(3)と(4)は北陸地方西部産の石材と考えていて、それぞれ鉄針によるあなのあけ方や穴の大きさなどに違いがあることから、産地に近い場所で管玉に加工されたのではないかと思います。このように日本海沿岸の各地でつくられた管玉が、湯坂1号墓に葬られた人物の身を飾っていたわけです。弥生時代後期の管玉が広域的に流通していたことを物語る「お宝」なのです。
    湯坂1号墳丘墓(東伯郡琴浦町)で出土した38個の管玉

井戸を掘るひと(鳥取市秋里遺跡)

 
今年春以降に刊行される発掘調査報告書から。
 
今回は、秋里遺跡で出土した弥生時代後期(約1800年前)の井戸枠です。
 
この井戸枠は、タブノキをくりぬいたもので、高さが1.15m以上、直径がいちばん太い部分で0.6m、厚さは5~8cmあります。底には、取水口が2ヶ所くり込まれています。
 
また、井戸枠の底には平らな石が置かれ、上面では井戸を囲うように石をコの字状に並べていました。
 
山陰地方では、弥生時代のムラから井戸枠を伴う井戸が見つかった例は少なく、とりわけ、県内では他に湖山第2遺跡(鳥取市)の例があるだけです。

 

また、井戸枠としては秋里遺跡のものが県内最大。時期も山陰地方ではいちばん古いものになりそうです。  

鳥取市秋里遺跡で出土した弥生時代後期(約1800年前)の井戸枠

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