調査・研究(山田重直 因伯の戦国時代シリーズ)

ある戦国武将の生き様から因伯の戦国時代をみる(第12回)

【今回のあらすじ】天正10年(1582)から天正11年(1583

 吉川軍の吉川父子は備中高松城での織田・毛利戦争の最終決戦に合流しますが、重直ら吉川軍は引き続き南条軍と戦いを続けます。最終決戦で重直ら吉川軍は羽衣石城を攻略します。しかし、その結末は・・・

【前回のまでのあらすじ】天文12年(1543)から天正10年(1582

 伯耆の国人領主山田重直は、出雲尼子氏の伯耆侵攻により本貫地を追われましたが、但馬山名氏の庇護のもとで因幡侵攻により戦功を重ね、出雲侵攻で伯耆を手にした安芸毛利氏の配下になり本貫地に帰還しました。

 重直は毛利氏の領域支配の一端を担い、因伯やその周辺地域で数々の戦いに参陣し、その後も因幡・東伯耆で毛利氏のために奮闘し、織田・毛利戦争でも東伯耆の前線で毛利軍として南条軍と交戦していましたが、旧冬からは南条軍と対峙した状況でした。

〇天正10年(1582)4月9日 ※『新県史』では天正6年としていますが、毛利側からの羽衣石攻めに言及されている状況などから天正10年と考えられます。

 吉川元春・元長は重直に対して、西国への処置として秀吉が備前に下向し、我々も輝元から頼まれて輝元本陣に出向くこと、元長は北前(山陰道)への対応のために残置すること、この度の戦は秀吉一人だから南北(山陽・山陰)の人数が一丸となって戦えば勝利は必定だとして、輝元から何度も頼まれたこと、それならば北方面の事は元盛などを八橋に派遣するよう固く申付けているので、我らが南(備中)に専念している間、堅固に守るように伝えています。

 今度於東国(織田)信長失利気遣不及是非付而、西国為手当羽柴(秀吉)至備前打下候、就其我等事従(毛利)輝元重々依被申候、至本陳罷出候、(吉川)元長事ハ北前聞合申ニ付而残置候、寔今度之儀羽柴一人之事候間、南北人数打丸及一戦候者、勝利案中候、是非一行可申付之由、従輝元切々被申越候、然者其表之儀、先以当時無異儀之由候条、方角之事候間、(杉原)元盛・(佐波)恵連・(天野)元珍・(三刀屋)久扶至(八橋郡)八橋可被罷出之通、堅申候之条、無緩可為出張候、然間其城之儀、肝要之所候条、我等其表打越之間、堅固□御抱頼存候、南前之儀、羽柴一人之儀与申、敵警固之事も、船行者不相下者候条、珍儀有間敷候、軈而其口打越候て、(河村郡)羽衣石可及行候、万々用口上候之条、不能詳候、恐々謹言、
  (付箋)天正六年 卯月九日 山田出雲守(重直)あて吉川元春・同元長連署書状写(『新鳥取県史』1128)

 織田方は天正10年宇喜多氏を支援して備中へ進出します。秀吉が岡山へ4月4日着陣し、毛利は備中を死守するため山陰出陣中の吉川軍の移動を求めます。元春は因伯の対応を元長に委ね、この日備中へ急行しました。

〇天正10年(1582)4月21日

 輝元は備中表の状況を伝え、山田重直に対し、吉川元春の手が空き次第、山陰へ戻す旨を告げています。輝元は重直へ高野宮城の堅守を命じています。

 急度申候、羽柴(秀吉)事、(備中国)宮路・(同)冠山取詰候、両城之事堅固候間、肝要候、幸之儀候之条、一行為可申付之、(吉川)元春暫時此口被打出候、則時可明隙候之際、急速其面可被打廻候、其内之儀、当城(高野宮城)之事、弥無異儀候様、御短束専一候、委細従元春可被申候、尚佐々部又右衛門尉(元光)可申候、恐々謹言、
 (付箋)天正十年 卯月廿一日 山田出雲守(重直)あて毛利輝元書状写(『新鳥取県史』1522)

〇天正10年(1582)5月18日

 元春は重直に対して、近日の無音を詫び、羽衣石表の事は緩み無きようにすることが大事だとした上で、備中表は、7日に秀吉軍が備中高松城に攻め懸かってきて我らも在陣中などと情報を送り、羽衣石では元盛と相談して対処するよう求めています。

 近日者無音候、併無差儀故候、其表之儀、旦タ無御緩之由肝要候、雖不及申候、此節候条、何篇可被付御心事、頼申候〳〵、此表之儀、去七日至(備中国)高松城敵取懸候、是非後巻可被申付之由候、各於行者無緩候条、可心安候、其口之儀、我等此表在陣中、(杉原)元盛歎息頼被申之由候間、旁被仰談、無異儀御覚悟専一候、猶此者可申候、恐々謹言、
 (付箋)天正十年 五月十八日 山田出雲守(重直)あて吉川元春書状写(『新鳥取県史』1527)

〇天正10年(1582)6月9日 ※新県史では天正9年としていますが、状況的に天正10年と考えられます。

 元長は重直に対して、羽衣石城から上方へ使者派遣の風聞があり、これを待伏せして首3つを取った戦功を賞しています。

 従(河村郡)羽衣石上表飛脚差上之由風聞候哉、就其待伏被仰付候処、羽衣石へ罷通者被討捕之由候て、印三ッ被持せ候、肝要之儀候、毎事無比類儀、無申計候、弥無緩可被申付儀専用候、恐々謹言、
  (天正九年)六月九日 山田出雲守(重直)あて吉川元長書状写(『新鳥取県史』1362)

〇天正10年(1582)6月11日 ※新県史では天正9年としていますが、状況的に天正10年と考えられます。

 元春は重直に次のように書き送っています。

 羽衣石表の現在の様子を承りたいと思う。事あるごとに緩みなく、その方面の気遣い、心遣い頂いているとのこと、詳しく聞き及んでいる。遠く離れていて申し遅れ、残念に思っている。我らの陣替えのことは、準備に油断がなく、速やかに引き上げ、どのみち事情を話すべきと考えている。

 どんな事でも元長に伝え、相談することが何よりである。

  一筆令啓候、仍其表当時之趣承度候、毎事無緩方角之御気遣・御短束之由淵底承及候、遠路ニ付而早晩申後、心外之儀候、我等出張之儀、用意無油断候之条、急度打上、旁以可申述候、何篇元長可被仰談事可為本望候、委細此者相含口上候条、不能審候、恐々謹言、  (天正九年)六月十一日 山田出雲守(重直)あて吉川元春書状写(『新鳥取県史』1364)

 備中高松付近に屯営中の元春から羽衣石にいる重直に書状が送られたものと考えられます。

〇天正10年(1582)6月12日 ※新県史では天正9年としていますが、状況的に天正10年と考えられます。

 杉原元盛は重直に対して、羽衣石家中が混乱しているので、家来衆を出して尾頸の南通路にいた者を1人討ち果たすなどの軍功を賞しています。元盛らも明日の泊到着を予告しています。

 羽衣石(南条元続)家中無正儀之由候間、自然明退候する哉と被思召、御家来衆被差出、於尾頸南通路之者被討果、頸被差越候、御行之段無比類儀候、我等事明日ハ(河村郡)泊へ可為着候間、程近可申承候、左候条不能審候、恐々謹言、
  (天正九年)六月十二日 (山田)重直あて杉原元盛書状写(『新鳥取県史』1365)

 本能寺の変の知らせは、間もなく羽衣石城にも達したと思われます。南条氏は、存亡に関わる信長の生死確認に躍起となったようで、南表(備中)の秀吉本陣に使者を派遣して真偽を確かめようとしたようです。重直は混乱に乗じて城へ迫ったようです。元盛も一挙に城を陥れるために出陣しようとしています。

 元長の奉行人は重直の戦功を賞し、元盛が今日爰元(八橋)に着陣し、明日は馬野山に陣替、雲州衆も今日淀江に到着、皆々が羽衣石表に向おうとしていると伝えています。

 (河村郡)羽衣石至尾頸搦被仰付候哉、一人被打取しるし御持せ候、誠ニ無御由断段、申茂疎候、(杉原)元盛事、今日爰元御着陳候、御門出御吉慶ニて候、一入大慶候、可被思召候、此節之儀候間、旁御内略肝要候、元盛御事明日(河村郡)馬野山表御陳易之由候、殊外之御人数ニて候、雲州衆茂至(汗入郡)淀江今日御着ニて候、皆々申談、羽衣石表可差寄との相談申事候、弥互御吉左右追々可申承候、猶期来音候、恐々謹言、
 (天正九年)六月十二日 山出(山田重直)あて桂春房書状写(『新鳥取県史』1366)

 元盛出陣の報は桂氏からも届けられています。急激に羽衣石方面への進出機運が高まるのも、信長の死が知らされていたためと考えられます。羽衣石・岩倉周辺には毛利軍が日を追って増えてきました。

〇天正10年(1582)6月13日 ※新県史では天正9年とされています。

 元長は重直に対して、羽衣石後谷で待伏せ、敵2人を討ち取ったことを賞し、毎度の戦功に褒美を与えることが大事だといっています。

 於(河村郡)羽衣石後谷待伏被申付候、敵二人御同名外記介・同市丞被討取之、印到来候、毎度御心懸之段、無比類候、別而可被加褒美之段肝要候、恐々謹言、
  (付箋)天正八年 (天正九年)六月十三日 山田出雲守(重直)あて吉川元長書状写(『新鳥取県史』1367)

〇天正10年(1582)6月26日 ※新県史では天正9年としていますが、状況的に天正10年と考えられます。

 元長が重直の戦功を賞しています。羽衣石から上方へ上がらせる使者を待ち伏せするよう命じられ、首二つを届けて貰った。万事に亘る忠義は比べようもなく際限がないことだ。何はともあれ、明日使者をもって伝える。

 従羽衣石上へ使者差上候哉、就夫待伏被申付、印二ツ御持せ候、毎事之御忠儀、無比類段、無尽期候、何茂明日以使者可申入候之条、不詳候、恐々謹言、   (天正九年)六月廿六日 山出あて吉川元長書状写(『新鳥取県史』1373)

 羽衣石方では、信長横死の風聞に接し、事実確認の使者を上がらせようとしたものと思われます。

〇天正10年(1582)7月26日

 吉川元春は山田重直に対して、京芸間の和睦を説明し、和睦は交渉次第で決裂し、再び緊張状態に陥る恐れがあるため、我が方からの手出しは止めるようにし、従来保持してきた各方面の城々に厳重な警戒を呼び掛けていました。高野宮城も油断なきように命じられています。

 元春、重直へ支援遅延を詫び、高野宮堅守を求む。

 被対二宮内蔵助(春次)御折紙令披閲候、仍其表之儀付而、行緩之通無余儀候、誠今度従備前表、直其口可為出張之処、羽柴(秀吉)此方申談儀付而、当時令用捨可然之由、各被申之間、至于今遲々候、重畳以安国寺(恵瓊)申越趣候之条、以彼実否之上、可及行之覚悟候、其内之儀、先以自此方手出之儀令停止候、抱来候諸境要害之儀、堅固申付候、当城之儀茂涯分無御油断、御在番可為本望候、就夫条々被仰越候、令承知候、委細自是可申上せ候、取分普請等之儀、森若被下候之条、趣相尋候而、急度可申付候、聊不可有緩候、猶重畳可申述候、恐々謹言、
 (付箋)天正十年ヵ (天正十年)七月廿六日 山田出雲守(重直)あて吉川元春書状(『新鳥取県史』1533)

 

〇天正10年(1582)9月29日

 羽衣石衆は、重直在番中の高野宮城に夜襲をかけましたが、撃退されています。

元春は重直に対して、羽衣石衆から内通者が少々出、固屋以下に火を懸けたと同時に南条衆が退散しようとするところを追撃し、退口で主だった者数人を打ち取り、すぐに入城した戦功を賞しています。

 尚々旁(河村郡)高野宮被相抱、日夜御気遣之故、如此之太利御本望察入候、於我等茂同前候矣、
追々御折紙拝披候、仍羽衣石(南条)衆少々申通固屋以下被焼崩候之処、同刻南条退散ニ付而被追懸、於退口宗徒之者数輩被討捕、頸之注文被□□〔送越ヵ〕候、誠太利此事候、則御入城之由肝要候、吉田(毛利輝元)遂注進候、何茂此方行不可有緩候、猶吉事重畳可申承候、恐々謹言、
 (付箋)天正十年 九月廿九日 山田出雲守(重直)あて吉川元春書状写(『新鳥取県史』1536)

 この頃、岩倉城も陥落したものと思われます。

〇天正10年(1582)11月1日

 元長は重直に対して、羽衣石城が落城したことは本懐だといっています。重直は羽衣石城攻略の祝儀として、元長へ太刀、馬を献上しています。この日、元長はこれに謝意を表しています。

 寔今度(河村郡)羽衣石落城之儀、吉田(毛利輝元)之儀者勿論ニ候、我等父子本懐此事候、為祝儀太刀一腰・馬一疋鴾毛到来、一廉之馬ニ候之条、随分可令秘蔵候、誠御懇志之至候、猶従是可申之条、省略候、恐々謹言、
 (付箋)天正十年 十一月一日 山田出雲守(重直)あて吉川元長書状写(『新鳥取県史』1543)

 3年余りにわたって毛利氏の山陰経営を阻止した羽衣石・岩倉両城は信長の死とともに脆くも瓦解していきましたが、この間に、丹但丹の戦略的放棄、鳥取城への救援妨害、備前・備中・美作方面への支障など、毛利氏に与えた打撃は計り知れませんでした。京芸和睦によって毛利氏は東伯耆を手放さなければならなくなります。

〇天正11年(1583)2月27日 ※新県史は天正九〜十年と推定しています。

 吉川元春は、今度羽衣石口での重直の長期在陣に対し、老足をいとわず特に辛労してくれてうれしく思っていて、重ねて訴えのはいささかも忘れてないが、東伯耆3郡(南条領)は全て割り当てていて、空いた所が少しもないので、少しではあるが久米郡の内から28石地を知行するようにと重直に伝えています。

 其方事、今度此口長々在陣候而、老足別而辛労之段、祝着之至候、仍連々愁訴之儀、聊無忘脚〔却〕候、雖然(伯耆国)東三郡之儀悉相賦、於于今者明所少茂無之候、然者雖少所之儀候、伯州久米郡内鹿野分拾八石、同郡内小東院分拾石、合弐拾八石地之事進之候、全可有知行事肝要候、恐々謹言、
 二月廿七日 山田出雲守あて吉川元春書状(『新鳥取県史』1516)

 羽衣石城を陥落させたことで、毛利氏の戦後処理として南条領が配分されることになりましたが、戦いの最前線にあって最も貢献したはずの山田重直が得たものは久米郡内のわずか28石地だけでした。

毛利氏は、「以羽衣石一着之上、百石地可宛遣候」など、羽衣石城攻略を条件に、南条領からの土地給付を約束して諸将を戦に督励しており、その先行給付が乱発されたため、重直に与えられる土地がなくなっていました。元春は11年2月までに伯耆に下向しています。

〇天正11年(1583)6月4日

 吉川父子は山田重直の所帯を次郎五郎に正式に安堵しました。

 御方之儀、対出雲守(重直)方、於所々進置候地等之事、所勘不可有相違候、全知行肝要候、仍一行如件、
 天正十一年六月四日 山田次郎五郎あて吉川元春・同元長連署宛行状写(『新鳥取県史』1554)

 土地の新規給付については叶いませんでしたが、重直の既得権が安堵されました。

そして、羽柴秀吉・毛利輝元の天正12年の亰芸和睦により、毛利氏は東伯耆を手放すことになり、結果からみると重直の労苦も徒労に終わりました。


ある戦国武将の生き様から因伯の戦国時代をみる(第11回)

【今回のあらすじ】天正9年(1581)から天正10年(1582

 東伯耆では南条軍と吉川軍の戦いは続いていて、因幡では秀吉軍が鳥取城攻めをしていました。

 吉川元春はようやく伯耆に出陣しましたが、吉川軍は南条軍に行く手を阻まれて因幡への救援ができず、鳥取城は落城します。

 そして、秀吉軍と吉川軍は羽衣石付近で対陣、秀吉軍は帰陣しますが、南条軍と吉川軍は対峙します。

【前回のまでのあらすじ】天文12年(1543)から天正9年(1581

 伯耆の国人領主山田重直は、出雲尼子氏の伯耆侵攻により本貫地を追われましたが、但馬山名氏の庇護のもとで因幡侵攻により戦功を重ね、出雲侵攻で伯耆を手にした安芸毛利氏の配下になり本貫地に帰還しました。

 重直は毛利氏の領域支配の一端を担い、因伯やその周辺地域で数々の戦いに参陣し、その後も因幡・東伯耆で毛利氏のために奮闘しますが、東伯耆の南条氏が織田方に転じたことで、織田・毛利戦争の前線で毛利軍の一員として南条軍と交戦に入っています。

 

〇天正9年(1581)9月22日

 鹿野城に在番している亀井茲矩から秀吉に対して、元春が茶臼山に陣を敷いたとの報せがあり、茲矩は秀吉から今少しの間なので鹿野城を堅固に守るようにと命じられています。

 吉川(元春)(久米郡)茶磨〔臼〕山居陣付而被申越書中、何も得其意候、其元今少之間之儀候之間、其城堅固之覚悟専一候、先日御朱印進之候、有御頂戴各へも被見之、被勇尤候、玉薬儀重而越置候間、委細御使者へ申渡候、恐々謹言、
 (天正九年)九月廿二日 亀(亀井茲矩)新十あて羽柴秀吉書状(『新鳥取県史』1447)

 吉川元春が9月8日に陣を敷いたのは茶臼山だったようです。

 元長は9月23日に羽衣石に布陣し、付城2か所の普請を命じており、10月8日には漸く完成しましたが、南条軍を羽衣石城に差留め、因伯境に仕切りの要害を構築し、羽柴・南条間の連絡を断つためと考えられます。付城とは、立地及び文書の記述から一つは高野宮城と考えられます。『山田氏覚書』によると、羽衣石手当として高野宮城には山田出雲守重直とあるので、これ以降、重直、小森が入城したと考えられます。

 一方、城兵が籠城中の鳥取城では、『山県覚書』によると8月16日には飢餓地獄に陥り、10月10日頃から降伏勧告がなされ、10月25日に城督吉川経家が自刃し、鳥取城が開城します。

 その後、秀吉軍は伯耆へ向かいます。

〇天正9年(1581)10月17日

 山田父子のことだが、今もうっかりと腰を据えておられるとの事、きっと当方が彼らを疎かにしていると思っているのだろう。特に、蔵人方(2月に急死した嫡男信直の後継人)の件は、(これまで)特別に相談してきた(事案である)。今の時局下において、取り分け我らの内々の意向としては少しも疎かに考えていない。彼方(蔵人方)からも書状を送って来ているので、直ちに(正規の書式に拠らない)返書に乗じて詳しく申し伝えた。そちらもよくよく心得て、内々に話してくれるよう心から頼む。

 山田父子之儀、于今うかと被居之由候、定而此方疎意之様可被思候、殊蔵人方之儀者、別而申談来候、此節之儀、取分我等於内証者、少茂無疎略候、自彼方も書状差越候間、直ニも乍返事具申候つる、従其方能々相心得、内々可被申事頼入候、恐々謹言
 (付箋)天正十一年 (天正九年ヵ)十月十七日 (粟屋)粟彦右あて吉川元長書状写

 次郎五郎は、かなり早い時期から元長の支持を得ていたようです。正式に安堵されるまで相当な時日を要していますから、次郎五郎の対抗馬=信直遺児?への説得が難航していたと思われます。

 結果的に、信直系は安堵対象から外されました。

 これが後年、山田信直家が岩国系と山口系とに分かれることにつながったと原因と考えられます。

〇天正9年(1581)11月2日 ※『新県史』では天正8年となっていますが、前後の関係から天正9年と考えられます。

 昨日、羽衣石から敵勢が攻め下りて来ましたが、重直がこれを撃退し多くを討ち取ったのを吉川元長が賞しています。両城が相談して、力を尽くして事に当たることが最も大事だとしています。

 尚々、両城被相談候て、御短束専要候〳〵、かしく、
 昨日自(河村郡)羽衣石人数打下候歟、御方手之衆被懸合候て、可然者あまた被討捕候段、無比類儀候、弥無緩御短束肝要候、恐々謹言、 (天正八年ヵ)十一月二日 山田出雲守(重直)あて吉川元長書状写(『新鳥取県史』1287)

 『信長公記』によると、秀吉本隊の羽衣石表への着陣は11月1日でした。これに力を得た羽衣石衆は積極的に進出しようとして高野宮城の重直軍と交戦しています。両城とある内の一つは高野宮城と考えられます。

 なお、『信長公記』によると、羽衣石表での両軍(吉川・羽柴軍)は大規模な交戦はしていません。羽柴軍は羽衣石・岩倉両城に加勢、置兵粮、玉薬を入れて、明春の来援を約束し防備に専念させます。

 そして、11月8日に秀吉は姫路へ帰還します。

 輝元書状に「春陣所馬野山之儀、山柄可然之条、要害取構之候、普請等之儀、頓相調候之間、可御心安候」とあり、元春の陣所は馬野山で、11月30日には普請等が完了したことが分かります。12月10日までには小寺氏を在番衆に任じています。元春はこの後間もなく安芸へ帰還します。

 秀吉軍の引き退きと元春軍の在陣で羽衣石城が劣勢になりましたが、大雪に助けられています。

〇天正9年(1581)11月2日

 輝元は重直に対して、鳥取が落着した後は、山陰方面が心許ないので、我々も出陣する用意があることは紛れもないことだ、いうまでもないが、堅固の守りが大事で、その方面の状況を注進するように伝えています。

 鳥取一着之後、其口之儀無心元候、爰元之儀為始(毛利)元秋、(同)元康・三沢方悉被出候、我々事も今一到来次第可令出馬用意無紛候、当城之儀不及申候ヘ共、堅固之気仕肝要候、方角之様躰具注進候ハゝ、可得其心候、尚此者可申候、恐々謹言、
 (付箋)天正九年 十一月二日 山田出雲守(重直)あて毛利輝元書状写(『新鳥取県史』1476)

〇天正9年(1580)11月28日 ※新県史では天正8年としていますが、前後の関係から天正9年と考えられます。

 元春は重直に対して、羽衣石十万寺山に人数を出して敵一人を討ち取ったことを賞しています。

 今日至(河村郡)十万寺山、人数被差出、敵一人射臥候、剰鳥羽被官一人被討取、頸被差越候、御心懸之至候、弥無御油断事肝要
候、猶重々可令申候、恐々謹言、
  (天正八年ヵ)十一月廿八日 山出(山田重直)あて吉川元春書状写(『新鳥取県史』1299)

〇天正10年(1582)3月7日

 元長の奉行人から塩屋杢助に対して、当城在番に緩みがないと軍忠の上申をしたこと、鉄砲・玉薬の供与については心得たこと、重直とはよく相談するのが肝要なことを伝えています。

 御折紙拝見候、御方事当城被罷籠候て、一口請取被申、無緩在番被申之通、具ニ披露申候、御祝着之由、何茂一人御差上せ候間、
其時可被仰遣候由候、先々我等相心得可申旨候、鉄炮玉薬之儀被申候、是又得其心候、右同前ニ一人御上せ候時、可被遣候由候、山出(山田重直)別而可申談事肝要ニ候、猶此方可被申候、恐々謹言、
 (天正十年)三月七日 塩屋杢助あて桂春房書状写(『新鳥取県史』1518)

ある戦国武将の生き様から因伯の戦国時代をみる(第10回)

【今回のあらすじ】天正9年(1581

 東伯耆では南条軍と吉川軍の戦いが続いている中で、因幡には再び羽柴秀吉が侵攻してきますが、伯耆への吉川元春の進軍は大幅に遅れていました。

【前回のまでのあらすじ】天文12年(1543)から天正9年(1581

 伯耆の国人領主山田重直は、出雲尼子氏の伯耆侵攻により本貫地を追われましたが、但馬山名氏の庇護のもとで因幡侵攻により戦功を重ね、出雲侵攻で伯耆を手にした安芸毛利氏の配下になり本貫地に帰還しました。

 重直は毛利氏の領域支配の一端を担い、因伯やその周辺地域で数々の戦いに参陣し、その後も因幡・東伯耆で毛利氏のために奮闘しますが、東伯耆の南条氏が織田方に転じたことで、織田・毛利戦争の前線で毛利軍の一員として南条軍と交戦に入りました。

 

〇天正9年(1581)7月13日

元長は、重直軍が今朝、長和田表で南条家人を討ち取ったことを賞しています。

 今朝於(河村郡)長和田表、南条治部丞家人山崎吉六討捕之由、寔心懸之段、更以無比類候、頸到来令祝着候、殊乗馬以下被取置之由候、心持能候、何様以使者自是可申候〳〵、恐々謹言、
 (付箋)天正八年 (天正九年)七月十三日 山田出雲守(重直)あて吉川元長書状写(『新鳥取県史』1391)

〇天正9年(1581)7月13日

長和田表の事と、明日には堀普請が完了する見通しが伝えられています。

 今日於(河村郡)長和田(山田)重直内衆粉骨候て、印御持せ候、不始于今御心懸更申疎候、殊南治馬(南条治部丞)被追落候、近頃之心能さにて候由被仰事候、
 一明日者御普請も可相調候哉、可然候とのもの御事候間、手際よく可被仰付候〳〵、
 一自因州御左右候て、爰元へも御同前之到来にて候、上衆も失手趣之由其聞候、追々御吉事可申述候、恐々謹言、
 (付箋)天正八年ヵ (天正九年)七月十三日 堺七郎右衛門・福原七郎右衛門・田岡勘兵衛尉あて香川春継・森脇春親連署書状
 写(『新鳥取県史』1392)

 重直は、またも長和田で南条軍と交戦しています。再三にわたる南条衆の進出は、重直らの普請を妨害しようとしたものと考えられます。

〇天正9年(1581)7月21日

 吉川元長は、重直軍の戦功を賞するとともに、秀吉が鳥取に出陣しているが、珍しく軍事行動をしていないので、馬ノ山の普請が一応整えられた段階で、加勢・兵粮・玉薬等を輸送することを重直へ伝えています。また、19日には秀吉軍が吉岡に攻め懸かってきて合戦に及んだが、吉岡方が勝利したことを伝えています。

 御折紙拝見候、寔先度者敵相動候之処、御粉骨之故、手負死人数多敵方有之由、大慶無申計候、上衆(羽柴秀吉)之儀、至鳥執取出候へ共、至今日珍行無之候、随而当城抱様之儀承候、無御余儀候、加番之儀可差籠存令相談半候、勿論兵粮玉薬已下、是又無緩可申付候、仍一昨日至(高草郡)吉岡羽柴(秀吉)相動候、吉岡無二以覚悟及合戦、奇川平介為五十余討捕、頸到来候、弥勝利之段申茂疎候、猶吉左右追々可令申候、恐々謹言、
 (付箋)天正九年 七月廿一日 山田出雲守(重直)あて吉川元長書状写(『新鳥取県史』1401)

 重直はこれ以前、当城守備について秀吉軍の来襲が予想され、防備強化の必要があると、元長へ進言していました。元長も賛同しています。

 奉行人からも重直に対して、敵が攻めてきたが数人討ち取ったことへの褒章の伝達がされています。南条家家臣が鳥取の秀吉本陣を訪れ、馬野山攻撃を進言したとの情報に対しても、あり得るとして厳重な警戒を呼び掛けています。鳥取からは、羽柴軍来攻を伝える使者が八橋の元長本陣へ到来していました。元長は因州へ船を向かわせ、重直は配下の者を大坂の城へ派遣していました。

 尚々先日之動ニ鎌源兵越度候哉、可然儀候、(河村郡)長和田表ニても□〔馬ヵ〕乗一人果置之由候、左様可有御座候、次至(高草郡)亀山去十九日羽柴(秀吉)相動候処、各以堅固之覚悟、被及一戦、敵数輩被討捕、昨日廿日頸到来之候、殊討捕候、肝要之儀候、其外武具以下切捨不知数之由候、追吉左右之趣可被申入候、委細直被申候〳〵、かしく、御折紙拝見申候、誠今度敵相動候処、無二之以御覚悟、数人被討捕、御勝利之段申茂疎候、御忠功不浅之由被申候、仍南備・山越両人、羽柴(秀吉)陳〔陣〕罷上候歟、当城可相動之由告来候哉、定而可為事実候、堅固之御覚悟肝要候、鳥執之儀取詰候通、爰許以飛脚被申越候、今朝返事相調、差返被申候、警固等之儀無緩被申付候、先舟有合候分十五廿之間、今日出船候、弥下警固被指上之由候、将又北垣丹後守殿・山崎右馬允殿(気多郡)大坂被付置之由候、尤可然候、切々可申談候、可御心安候、猶期後慶、不能一二候、恐々謹言、
 (天正九年)七月廿一日 山出(山田重直)あて森脇春親書状写(『新鳥取県史』1402)

〇天正9年(1581)7月28日

元春は、重直への兵粮は昨日当城に届けられたが、吉川軍の置き兵粮(備蓄用の兵粮)搬入を南条軍が妨害しようとして、橋津・長瀬方面に派兵してきて重直軍と交戦になり、重直軍が歴々を討ち取ったことを賞しています。

 昨日当城置兵粮之儀、差􂡲候之処、敵罷出候へ共、御方手之衆粉骨之故、無恙差籠候、毎事無比類之段大慶候、殊歴々被討捕、印到来令一見候、此節之儀ニ候之条、堅固之調儀頼入候、(吉川)元春事も不日上着之由候間、弥可御心安候、猶期来慶候、恐々謹言、 (天正九年ヵ)七月廿八日 山田出雲守(重直)あて吉川元春書状写(『新鳥取県史』1412)

杉原景盛からも重直に対して、昨日の橋津表合戦での重直軍の働きを賞しています。

 呉々御忰者衆一両人手負之由、乍去薄手之由候条、可然候、かしく
御折紙拝見申候、昨日兵粮被差􂡲候之処、従(河村郡)羽衣石人数至(同郡)橋津罷出候歟、然処其元より御人数御差出、被及合戦、敵御討捕、印被持せ候、無比類之儀候、則(吉川)元長へ一人相副申入候、一入御機嫌にて候、弥御心懸肝要存候、恐々謹言
 (天正九年)七月廿八日 (山田)重直あて杉原景盛書状写(『新鳥取県史』1413)

〇天正9年(1581)7月29日

 元長奉行人の二宮春澄は、重直の許に派遣される福頼元秀に、重直の不審を晴らすよう、書状を託しました。重直の度重なる戦功にも拘らず一向に恩賞に預かれず悔やみ切っており、毛利氏も前線の諸将も限界に達しつつありました。

 返々 上之御内証如何思召候哉と、重直被思召事候ハゝ、何分茂誓紙成共御望次第ニ取付可進之候、今程者 上にも重直へ一廉心付之儀も候ハて、彼心底無面目候と迄、御くやミにて候、境目之旁ヘハ、うへを御あいしらい候て、底はそれほとにも思召ぬ方も御座有ものに候、山出於御手前者、奥底共々東伯耆にての憑ニかけられ候、此条我等偽申候ハゝ、此書中之内ノ誓句可蒙罷候、元秀御存知之事候間、不及申候ヘ共、事ノ次而を以之申事候、如此之条、於我等如在候する事ニて御座候哉、爰を以御分別   肝要候、自今以後無退屈御方申談、御取合可申候、懇ニ御物語候て可給候、尚重而可申候矣、
 自(山田)重直対御方様御書中之旨、具拝見申候、内々御物語申候様ニ、彼御方之儀、数年別而対殿様御馳走之段、申事旧候、誠ニ 上にも何とかなと被仰候ヘ共、方角無明所候へは、于今一廉之儀、無御座候而、常々御くやミ物語にて候、勿論我等事、大小共ニ 上之御為ヲ存知候間、不限他国、御家中ニ 殿様へ御馳走之仁ヲハ、縦我等へ御疎意候共、順路にとこそ存候、於此段者、旁御存之前候、然者重直我等へも連々御懇之儀候、殊更□□□〔数〕多之御約束蒙仰候つれ共、其首尾□□合候処、山出御気遣を以〔       〕御意候、万端雲州御取持之故候、於于今聊無忘却候ヘ共、切々非可申儀候条、打過申候、先年一段之一こし給候、加様之儀迄御懇意と存知候、〔    〕拙者へ御入魂之所不存忘候との申事に候、元秀御存之様ニ、我等事内々自由ニ有付候間、事六ケ敷細々之儀共口上にて甚敷申候事、不相叶候条、以左様之儀、内証相違候哉なとゝ被思召間敷候、 殿様へ之儀さへ無御忘却候ハゝ、毛頭茂余儀ヲ存間敷候、真実ニ候、大山・杵築も御照覧候へ、対重直不可有御余儀候、此由直ニも可申入候へ共、我等内心之通、元秀迄被申事候、可有御物語候、尚期面上之時候、恐々謹言、
 (天正九年ヵ)七月廿九日 (赤川)元秀あて二宮春澄書状写(『新鳥取県史』1415)

〇天正9年(1581)8月3日

元長は、今朝、山田重直が水越山下に待伏せ、敵を討ち取ったことを賞しています。

 今朝(河村郡)水越山下ニ待伏被仰付候処ニ、被及一戦勝利之由尤可然存候、殊一段之印御持せ、于今不初御心懸之段、無申計候、猶重而可申入候、恐々謹言、
 (天正九年)八月三日 山田出雲守(重直)あて吉川元長書状写(『新鳥取県史』1418)

奉行人からも重直に対して褒章の伝達がされています。

 一行被仰付御太利之趣、御注進之段、則申聞候、不始于今御心懸、申疎候、能々相心得可申入旨候、恐々謹言、
 (天正九年ヵ)八月三日 山田重直あて森脇春親・香川春継連署書状写(『新鳥取県史』1419)

杉原景盛も重直の戦功を賞しています。

 至(河村郡)水越山下待伏被仰付、敵被討捕、即印被持せ候、毎事無比類御心懸候、(吉川)元長へ案内者申付、懸御目候、殊更武具執余多被作候、可然候、就中御被官御両人被手負せ之由、乍去浅手之由候之条、可然候、右之趣(杉原)盛重へも申遣候、
 恐々謹言、 (天正九年ヵ)八月四日 (山田)重直あて杉原景盛書状写(『新鳥取県史』1420)

〇天正9年(1581)8月21日

杉原景盛は重直に対して、昨朝、羽衣石衆が苅田のために橋津・長瀬表に出てきたところを重直が人数を出して敵1人を討ち取ったことを賞しています。また、吉川元春が明日当城に着陣するので、景盛らは赤崎に陣替するとあります。

 御折紙拝見申候、昨日従(河村郡)羽衣石(同)長瀬表罷出、苅田申付候哉、従其許御人数被差出、敵一人被討捕、印被持せ候、則案内者申付、(吉川)元長江申入候、毎事御心懸無比類候、将亦(吉川)元春明日至当城御着陳候、就其我等事今日(八橋郡)赤崎へ陳〔陣〕易仕候、此書状(赤川)元秀へ可頼御届候、猶自是可申入候、恐々謹言、
 (付箋)天正八年 (天正九年ヵ)八月廿一日 (山田)重直あて杉原景盛書状写(『新鳥取県史』1434)

 吉川元長からも戦功を賞されています。

 昨朝至(河村郡)橋津表為苅田、羽衣石(南条軍)之者共罷出候之処、相賀被官三村孫右エ門尉与申者、佐藤与介討捕、印到来候、毎事御心懸不浅候、猶吉事期来音候、恐々謹言、
 (付箋)天正九年 八月廿一日 山田出雲守あて吉川元長書状写(『新鳥取県史』1433)

〇天正9年(1581)8月26日

 元長奉行人が重直の戦功を賞しています。ご家中衆が奮戦され、首を持ってきてくれたそうですね。何時も変わらぬ(当方への)心掛け、申す言葉もないと思っております。特に元春が到着する頃合いだから、(今回の手柄は)格別な事です。詳細は(元春なり元長から)直接申し入れがあると思いますから、多くは書けません。

 御内衆被砕手、印御持候哉、誠不打置御心懸之段、無申計被存候、殊元春上着之砌、別而之御事候、委細直被申入候条、不能多筆候、恐々謹言、 (天正九年)八月廿六日 (山田)直重あて香川春継・森脇春親連署書状写(『新鳥取県史』1435)

〇天正9年(1581)8月27日

 渡辺長が重直の戦功を賞しています。(貴殿)配下の衆の手柄は、いつもすべて貴殿の手柄です。特に一段と身分が高い者とのことで、ひとしお御本望とのことですね。また、思いがけず敵の身柄を捕えられました。(主も)首を見る時よりもご機嫌です。(捕らえた者は)最近では思い至らないほど(当方にとって)有益な人物です。彼の者については(身柄を)引き取りました。なお、この衆中が申している事は、多くを書けません。

 御手衆御高名毎事一篇御事候、殊ニ一段之者之由候、一入御本望之由候、又不慮ニ人を被召籠候、頸よりも猶々御機嫌ニて候、近此不思議成者ニて社御座候へ、彼者事請取申候、尚此衆中申候条、不能多筆候、恐々謹言、
 (天正九年ヵ)八月廿七日 山出(山田重直)あて渡辺長書状写(『新鳥取県史』1429)

〇天正9年(1581)8月27

 元長は重直に対して、昨日、栗尾に足軽を出して敵歴々を討ち取ったことを賞しています。元春が今日爰元に着陣したとあります。

 昨日至(河村郡)栗尾足軽差出候之処、敵歴々被討捕之、印到来候、毎々無比類之□、申茂疎候、元春今日爰元着陳〔陣〕之儀候、行等不可有緩候、恐々謹言、
 (天正九年)八月廿七日 山田出雲守(重直)あて吉川元長書状写(『新鳥取県史』1436)

〇天正9年(1581)9月9日

 重直は元長奉行人から、近頃軍事行動がよくできており、羽衣石衆が河狩(川魚漁)に出てきたところを攻め懸かって討ち果たし首2つ取ったことを賞されています。また、昨日元春が着陣したところであり、一層尽力するように、また、7日には秀吉軍が吉岡に攻め懸かってきたが吉岡方が手柄を上げたこと、必ず因州に軍勢を出すことを伝えています。

 返々、砌能御行出来候、速々御心懸之故候〳〵、珍重〳〵、敵河狩被出之処、御手衆被懸付、則被討果、頸二御持せ候、昨日(吉川)元春着陳〔陣〕之処、首途可然候て、一入之御心懸候、併御冥伽之儀候、当年中御内衆御粉骨之趣、具申聞候、福左衆同道被申候哉、其辻申聞候、将亦去七日、上衆(羽柴秀吉)(高草郡)吉岡相働、失勝利□□宗徒者三十余討取、印到来候、不始于今吉岡方手柄、忠儀可有御察候〳〵、乗馬等歴々追落候、急度因州出勢候、於旨儀者、直被申入候、恐々謹言、
 (付箋)天正九年ヵ (天正九年)九月九日 山田重直あて香川元継・森脇春親連署書状写(『新鳥取県史』1442)

 羽衣石城中での兵粮欠乏が進行していたようです。

 元春の伯耆進出は、7月2日の予告以来、大幅に遅れていましたが、『陰徳記』によると、豊後大友氏が長門を、宇喜多氏が備中を窺っていたために元春が動けなかったようです。

 


ある戦国武将の生き様から因伯の戦国時代をみる(第9回)

【今回のあらすじ】天正9年(1581

天正9年も東伯耆では南条軍と吉川軍の戦いは続いています。そうした中、因幡では秀吉軍による第2次の因幡侵攻も迫りつつありました。

【前回のまでのあらすじ】天文12年(1543)から天正8年(1580

 伯耆の国人領主山田重直は、出雲尼子氏の伯耆侵攻により本貫地を追われましたが、但馬山名氏の庇護のもとで因幡侵攻により戦功を重ね、出雲侵攻で伯耆を手にした安芸毛利氏の配下になり本貫地に帰還しました。

 重直は毛利氏の領域支配の一端を担い、因伯やその周辺地域で数々の戦いに参陣し、その後も因幡・東伯耆で毛利氏のために奮闘しますが、東伯耆の南条氏が織田方に転じたことで、織田・毛利戦争の前線で毛利軍の一員として南条軍と交戦に入りました。

 

〇天正9年(1581)2月5日

 山田重直の息信直が不慮の急死との報せに、吉川元長は重直の心情を察しています。

 蔵人(山田信直)殿之御事、誠不慮之至、更無申事候、御方御心底察存計候、先年別而申談候以筋目、当時之儀も何と様ニ茂令存候つれ共、旧冬着陳〔陣〕已来、御存外手前無寸暇之様候而、切々御方へも彼御方へ茂令申候儀茂無之候つ、於于今者更無申事まて候、併御方以堅固之御分別、彼手次仕立可被申儀肝要存候、於我等も向後聊不可存余儀候、可御心安候、頓可申入候を、(気多郡)宮石表行旁取乱候て相過候、随而青銅千疋令進之候、補空書計候、委細此者可申入候、恐々謹言、
 (付箋)天正十年ヵ (天正九年)二月五日 山田出雲守(重直)あて吉川元長書状写(『新鳥取県史』1321)

 1月に気多郡で、毛利方の宮吉城田公新介が敵方の鹿野城亀井と申合せ逆意を企てました。2月上旬には陥落させましたが、元長はその対応に手間取り、重直への弔辞が遅れました。

〇天正9年(1581)4月9日

 羽衣石衆が山田重直の守備する城に攻めかかってきたが、これを崩し、主だった者を討ち取ったので、奉行人から褒章の伝達をしています。羽衣石衆は500~300の間なので引き抜きを命じています。

 呉々被及一戦、無比類被仰付さま中〳〵可被申やうも無之候、則元春へも被申遣候〳〵、以上、
至其城、敵行被仕懸候処、以御手柄被仕崩候て、宗徒者共被討取頸御持せ候、無比類被存候、此節者弥々被遂御馳走御心遣干要之儀候、御忠儀之段、永々被致忘却間敷候、切々以使者可被申入之処、彼是被取乱候て、無沙汰被申候、則今日(吉川)元春へも被申遣候、因州表之儀茂、今程無事之由申候、可御心安候、申来儀共候ハゝ、細々可被仰越候、千万々此節被成御気遣、羽衣石(南条元続)衆五百三百之間候、可被引祓事入事候、恐々謹言、
 (天正九年)卯月九日 山田出雲守(重直)あて森脇春親書状写(『新鳥取県史』1347)

 羽衣石では慢性的な兵粮欠乏と落人続出に悩みながら毛利軍と戦っていました。鳥取城に入った吉川経家は当時の状況をよく把握していました。

〇天正9年(1581)4月10日

 吉川元長は、昨日午前10時ごろ出動してきた南条軍を迎撃すべく重直も出撃して合戦に及び、元続近習衆を討ち取ったことを賞しています。

 昨日巳之刻、従羽衣石(河村郡)打出候之処ニ、各以御調儀被張出、被及合戦、剰(南条)元続近習中林御方手へ被討捕頸到来、大慶之至候、誠ニ一廉被手砕之段、淵底承知候、則至芸州可申遣候、何様以使者可申候、恐々謹言、
 (付箋)天正八年ヵ (天正九年)卯月十日 山田出雲守(重直)あて吉川元長書状写(『新鳥取県史』1348)

 昨日は、南条氏は再び重直と交戦していたようです。

〇天正9年(1581)4月10日

 元長からの使者には渡辺長がたてられたようで、同人からも副状が付されています。

 昨日敵相動候、被及一戦、一段頸、御高名、一入可然候、自吾等能々此由可申旨候、恐々謹言、
 (天正九年)卯月十日 (山田)重直あて渡辺長書状写(『新鳥取県史』1349)

〇天正9年(1581)5月5日

 吉川元長は、昨夜、羽衣石に進出して南条軍と景宗寺で戦い、北垣方の敵を討ち取った重直の功を賞しています。奉行人からも褒章が伝達されています。

 (河村郡)羽衣石谷决叟寺、昨夜御手之衆被相動、北垣五郎次郎方敵被討捕、頸御持せ候、御心懸之段、申茂疎候、殊切捨歴々被仕之由候、寔無比類候、被疵之衆雖有之、浅手之由候条、可然存候、猶以使者可令申之条、令省略候、恐々謹言、
 (天正九年)五月五日 山田出雲守(重直)あて吉川元長書状写(『新鳥取県史』1351)

 景宗寺は羽衣石と十万寺方面への分岐点にあり、その周辺が主戦場になっていたと考えられます。

 御手衆於(河村郡)羽衣石被遂御粉骨、一段之印御持せ候、無比類被存候、殊今日御吉左右一入之御心懸之故候、以使者可申入之由被申事候、尚委細御使被申入候、恐々謹言、
 (天正九年)五月五日 (山田)重直あて香川春継書状写(『新鳥取県史』1352)

〇天正9年(1581)6月4日

 吉川元長は、羽衣石から水越に向かう使者(南条家被官と中間)を重直が討ち取ったことを賞しています。

 水越へ自(河村郡)羽衣石罷越候者、南条治部被官河津屋弥五郎・同中間一人被討捕候、毎々無比類之段、申茂疎候、御同名外記介方佐藤理兵衛尉心懸之段、感悦不及沙汰候、能々可被申聞候、猶自渡石(渡辺長)可被申候、恐々謹言、
 (付箋)天正八年 (天正九年)六月四日 山田出雲守(重直)あて吉川元長書状写(『新鳥取県史』1360)

〇天正9年(1581)6月26日

 吉川元長が山田重直の息次郎五郎の家督を認めています。

 対御方申談候、所帯之儀、御息(山田)次郎五郎方可被譲進之由候、尤可然候、於我等不可有疎意候、(吉川)元春江茂此由可相達候、為其染筆候、猶大谷玄蕃允申候、恐々謹言、
 (付箋)天正九年 六月廿六日 山田出雲守(重直)あて吉川元長書状写(『新鳥取県史』1374)

〇天正9年(1581)6月28日

 奉行人から重直に対して、次郎五郎への跡目安堵が伝達されています。次郎五郎の事は以前から元長が引き立てていました。そして、作州岩屋城は落城させたので安心すること、当城のことはすぐに普請衆を派遣するので城普請に緩みのないこととしています。

 御折紙致拝見候、(山田)次郎五郎殿江御手続之儀、被仰聞候、誠彼人御事者、其以前より申談候時者、(吉川)元長御引立申儀、不紛事候条、可御心安との儀候て、書中被申候、御懇蒙仰通申聞候、能々可得御意候、作州岩屋落去事実候、可御心安候、当城彼是之趣、御両所御申候、急度普請衆申付、被差遣候、至諸事不被緩存候、恐々謹言、
 (付箋)天正九年 六月廿八日 〔     〕〔山田出雲守ヵ〕あて森脇春親書状写(『新鳥取県史』1375)

 奉行人から重直に、普請衆の派遣を予告して協力を求めています。

 7月2日の元春書状によると、この頃秀吉軍が因州表に進出してくるとの事で、我らも急いで出張る覚悟だといっています。

〇天正9年(1581)7月6日

 元長は、重直が長和田表に待伏せ首4つ取ったことを賞しています。

 於(河村郡)長和田表待伏被申付、頸四ツ到来候、毎事御方内衆無比類之段、無申計候、弥無緩御調儀肝要候、恐々謹言、
 (付箋)天正七年 (天正九年)七月六日 山田出雲守(重直)あて吉川元長書状写(『新鳥取県史』1383)

 奉行人からも褒章の伝達がされています。また、堀普請として今朝人数を派遣したことを伝えています。

 (河村郡)長綿(長和田)表待臥衆被仰付、印歴々御持せ候、則一見被仕候、于今不初被仰付様、申茂疎之由被申事候、委細直ニ被申入候、将又堀為普請、今朝人数被進之候、境七郎右ヱ門尉毎事被加御言、御調肝要候、猶追々可申述候、恐々謹言、
 (付箋)天正八年 (天正九年)七月六日 山出(山田重直)あて香川春継・森脇春親連署書状写(『新鳥取県史』1384)

吉川軍が馬ノ山普請に着手したものと思われます。

〇天正9年(1581)7月9日

山田重直は奉行人の渡辺から家来衆の重ねての高名を賞され、秀吉は但馬小代に逗留中と伝えられています。

 重畳御家来衆御高名遂披露候、一段之御感にて候、上衆(羽柴秀吉)之儀も自身ハ于今(但馬国)小代ニ逗留候由申候、相易儀候由到来候者可申上候、恐々謹言、
 (天正九年)七月九日 (山田)重直あて渡辺長書状写(『新鳥取県史』1387)

 その後、秀吉は7月12日には鳥取城の近くに陣を寄せています。



ある戦国武将の生き様から因伯の戦国時代をみる(第8回)

【今回のあらすじ】天正8年(1580

 天正8年になると織田・毛利戦争の境目となった東伯耆で南条軍(織田方)と吉川軍(毛利方)の戦いが始まります。秀吉軍(織田方)も因幡に侵攻してきます。東伯耆では重直軍(毛利方)が前線で戦っています。

【前回のまでのあらすじ】天文12年(1543)から天正7年(1579

 伯耆の国人領主山田重直は、出雲尼子氏の伯耆侵攻により本貫地を追われましたが、但馬山名氏の庇護のもとで因幡侵攻により戦功を重ね、出雲侵攻で伯耆を手にした安芸毛利氏の配下になり本貫地に帰還しました。

 重直は毛利氏の領域支配の一端を担い、因伯やその周辺地域で数々の戦いに参陣し、その後も因幡・東伯耆で毛利氏のために奮闘しますが、南条宗勝亡き後、南条元続が織田方に転じたことで重直にも危険が迫りました。

〇天正8年(1580)5月23日

 山田重直から因幡の戦況が報告され、吉川元春が報告を了としています。

 因幡では羽柴秀長、但馬衆が私部・船岡に布陣しています。南条元続が合力として気多郡に乱入しています。

 元春は山田重直に因幡方面への出陣を予告しています。

 返々因州之趣、具被仰越本望候、弥相替儀候ハゝ、可被仰越候、迚明後日打廻候間、不及申候〳〵
御折紙拝閲候、如仰今度(播磨国)広瀬落去付而、因州之儀上衆打出少々相動候歟、就夫(八東郡)鬼城・(同)私部儀、至鳥執被相莟候段、不及是非候、然間木下小一郎(羽柴秀長)・善乗坊(宮部継潤)為頭、但州衆相催三四千ニて令乱入候歟、鳥執之儀用心候而、人数不被差出候故、彼山下(高草郡)加路辺まて発向候而、于今敵私部・(八上郡)舟岡ニ居陳之由申候哉、左候故為其手合南条(元続)事、気多郡表取出彼方角放火候て、今程(気多郡)青屋迄打入之由、被仰越候趣、具承知候、鳥執之儀、(山名)豊国無二ノ以覚悟、此方入魂儀候、先以肝要候、我等事此口隙明候之条、明後日至其表令陳替候、左様候て、先舟手ニて鳥執・(気多郡)鹿野へ可加勢儀定候、雖不及申候、此節之儀、旁御気遣、可為本望候、迚其元打越事候条、彼是可申談候間、不能一二候、恐々謹言、 (付箋)天正八年 五月廿三日 山田出雲守(重直)あて吉川元春書状写(『新鳥取県史』1213)

 この年の1月に毛利方の播磨三木城を陥落させた秀吉軍が、5月に因幡へ侵入します。元春は、兵員不足や毛利軍が美作で苦戦していたこともあり、なかなか伯耆に陣替えできませんでしたが、7月になってようやく伯耆に着陣しました。しかし、秀吉軍による第1次因幡攻めは、5月26日に鹿野城が陥落し、秀吉軍が毛利方の人質を奪い、鳥取城など7城を落し6月13日には姫路に帰還していました。

〇天正8年(15807月8日 ※『新県史』、「吉川氏の奉行人」(『史学研究』2592008年「戦国後期における吉川氏の権力構成―親類衆・奉行人を中心にして―」木村信幸)では天正9年と推定されています。

吉川元長は、山田重直の家人が長和田表で羽衣石衆の郡木氏一人を討取った功を賞しています。羽衣石衆が出てきたところを人数を出して討ち取ったとあります。奉行人からも褒章の伝達がされています。

 (河村郡)長和田表羽衣石□〔之〕者共罷出候処、御方手之衆〔    〕〔北垣五郎〕次郎方被懸合、□木□□〔次郎〕左衛門と申者被討取之、頸到来候、無比類之段、珍重候、□〔弥〕可有忠儀由可被□〔仰〕聞候、猶重而可申候、恐々謹言、
(付箋)天正七年 (天正九年)七月八日 山田出雲守(重直)あて吉川元長書状写(『新鳥取県史』1385)
 (河村郡)長和田表羽衣石衆罷出候処、御人数被差出、一段之者一人被討捕、頸御持せ候、毎々無比類之段、珍重之至被申候、此節と申、一段之御事候、猶期来慶候、恐々謹言、
(付箋)天正七年 (天正九年)七月八日 山田出雲守(重直)あて香川春継・森脇春親連署書状写(『新鳥取県史』1386)

8月13日、吉川軍は本格的な攻撃を始めます。長和田から羽衣石岸際にかけて広範囲で行われ、南条勢百人以上が討ち取られています。地元に伝わる「長和田の十三日崩れ」の呼び名も、この時の戦いだと思われます。『陰徳記』によると、山田信直(重直息)も長和田に派遣されていることになります。

〇天正8年(15807月8日

 数年来、毛利に親密にしていることは忘れてない、南条元続の謀叛により襲撃されたが難を逃れたのは何よりだ、給地をし知行安堵するので、ますます奔走してほしい、と吉川元春は山田重直に書き送っています。

 御方事、数年芸州御入魂之儀、無忘却候、然者今度南条(元続)相構逆意付而、此方被取退御届之段、誠以本望之至候、仍御□地(久米郡)八幡領五百石、(河村郡)福王寺分五拾石、(毛利)元就一行之前、同八橋郡之内弐百石奉書之前􁖽(気多郡)日置・(同)勝部之代所新地共ニ千弐百五拾石、合弐千石之地坪付別紙有之、封裏、進置候、全有進□、弥御馳走肝要候、猶二宮右京進(春澄)可申候、恐々謹言、
 (付箋)天正七年 (天正八年)七月八日 山田出雲守(重直)あて吉川元春書状写(『新鳥取県史』1235)
坪付注文
  久米郡北条之内 一、五百石 八幡領 元就一行之前
  河村郡 一、五拾石 福王寺分 元就一行之前 上分共申
  八橋郡 一、百七拾石 以東之内 奉書之前
  八橋郡 一、卅石 下郷之内 奉書之前
   以上、七百五拾石
  河村郡羽合田内越振遠江守給 一、三百七拾石 売地共田尻分(裏花押写)
  同郡長和田之内 一、弐百石 浅津
  同郡同所 一、五拾石 由木分
  同郡西郷内越振九郎左エ門給 一、六拾石 有田分
  同郡同郷越振大和守給 一、四拾石 田尻
  同郡松尾領内小鴨弾正左エ門尉分 一、弐百五拾石 長和田内
  同郡越振大和守給 一、五拾石 同所
  久米郡建部分 一、六拾石 小田
  同郡北条之内 一、五拾石 龍光院分
  八橋郡下郷内のり本種久徳長 一、百廿石 近藤弥左衛門尉分
   以上千二百五十石
  合弐千石
   因州(気多郡)日置・(同)勝部替地共ニ
  右、御付立之前令承知候、只今無案内之儀候間、自然差合之儀候者、以代所可申談候也矣、
  (天正八年)七月八日 山田出雲守(重直)あて某裏判注文写(『新鳥取県史』1236)

〇天正8年(1580)9月26日

 豊国家中の中村・森下は、山名豊国を追放、鳥取城には市川雅樂允・朝枝加賀、その外人数5、6百を授け、鳥取城は毛利が請け取りました。

 一筆申、此表在陣已後ハ、兎角相過無音心外候、仍当春者岡三郎兵衛方、於南表被立御用、誠不慮之儀、不及是非候、其砌早々可令申候処、伯州表打廻、則至(河村郡)羽衣石表、及行候故、彼是取乱、于今無沙汰之段、千万口惜候処候、定而朦気之段、令推量申候〳〵、申疎候、随而此口之儀、所々任存分趣候、羽衣石之儀者、先度初合戦之儀、定而可有御聞候、南条衆数国〔百〕人討捕、自其已来敵珍敷行無之、弥相弱りたる躰候、付城等数多□付、漸隙明趣候、然処因州之儀、此間中申越子細候、内略候処、(山名)豊国家中中村対馬守(春続)・森下出羽入道(道誉)為先宗徒衆此方令一味、去廿一日豊国をハ立出し、鳥執儀、無異議可相渡之由申越候条、市川雅楽頭(春俊)・朝枝加賀(春元)其外人数五六百差上、彼要害無相違請取候、(気多郡)鹿野之儀、是又昨日廿五到来趣ハ、彼城内鹿野と申人其外数輩、此方一味候て取退、羽衣石と鹿野之間ニ(気多郡)荒神山とて一段可然山を取付在城候、追追申越候、鹿野にハ亀井新十郎(茲矩)一人残居仕入候、是亦一両日中可為一途候、如此候条、此口之儀、勝利まて事候、於趣者重畳可申述候、先以有増之儀、令啓候、猶吉事期後喜候、恐々謹言、
(天正八年)九月廿六日 山縣越後守あて吉川元春書状写(『新鳥取県史』1267)

吉川元春は9月21日、戻された鳥取城へ再び番衆を入城させました。

〇天正8年(1580)9月29日

 吉川元春は山田重直に、市川ら鳥取加番衆の到着までの当座の守備固めとして、若桜から退去していた加番衆や毛利家が派遣する番衆に加え、それでも不足するなら鵯尾衆へ要請せよ、と促していました。

 其許人質之儀、并自若桜之加番衆、此方番衆差籠様、彼是之儀付而、田中善太郎殿・同新十郎殿、自我等市雅差出候、毎事被申談能々調儀肝要候、若又當座加番之人数共入事候ハゝ、鵯尾衆へ被申理、調専一候、委細市雅任口上候恐々謹言、
 九月廿九日 山田出雲守あて吉川元春書状(「譜録」や―113)

〇天正8年(1575)10月4日 ※新県史では天正3年としていますが、前後の関係から天正8年と考えられます。

 鳥取城に入っていた山田重直の用兵が下城し、市川軍と交代します。  

 昨日用兵下城之由候、可然候、彼是市雅(市川春俊)所へ申遣候条、弥可被申談事肝要候、長々其許御心遣察申候、猶雅楽允可申候、恐々謹言、 (天正三年ヵ)十月四日 山田出雲守あて吉川元春書状(『新鳥取県史』1063)

 吉川元春は因幡での対応を済ませ伯耆に帰還し、敵方である羽衣石・岩倉への付城を構築した後、吉川軍は出雲へ帰還すると、南条軍は打吹城を攻撃するなど再び動き始めます。

〇天正8年(1580)11月19日 ※「吉川氏の奉行人」では天正9年と推定されています。

前夜、羽衣石谷で山田配下の馬田・赤木らの軍勢が南条氏重臣の泉養軒館を夜襲して、南条方の高名の者のほか数十人を討ち果たして、人質になっていた山田の息女を取り返し、その外この騒動のとき南条方の十人余が投降してきたとして、吉川元春から賞されています。奉行人から褒章が伝達されています。

 呉々、強初(ママ)之折節、自城中数人罷退候哉、肝要之趣可被仰越候矣、夜前泉養軒谷へ以馬田長左衛門尉・赤木行夜懸申付、数十人討果之由被示越候、尤以肝要之儀候、分捕之衆中江粉骨之趣、能々可被申候、猶渡石(渡辺長)・二蔵(二宮春次)可申候、恐々謹言、
 (天正八年)十一月十九日 山田出雲守(重直)あて吉川元春書状写(『新鳥取県史』1291)
 尚々、何も直被申入候間、不能重書候、以上、
 御折紙拝見申候、泉養軒御方へ馬田・赤木方以調儀、夜懸被申付、数十人被討果、朝平御同理御高名之由候、誠御忠節之至不浅之由被申事候、殊□□□〔能折節ヵ〕御息女御取退〔返〕之由、御大慶奉察候、其外騒動之刻、十人余落来之由候、尤可然候、彼口上候趣、弥可被仰越候、恐々謹言、
(天正八年)十一月十九日 山出(山田重直)あて渡辺長・二宮春次連署書状写(『新鳥取県史』1293)

吉川元長からも賞されてます。奉行人から軍忠の上申、褒章の伝達がされています。

 夜前(河村郡)羽衣石至谷行被申付、数輩被討果剰朝枝平兵衛尉□・同名理兵衛尉高名之由無比類候、毎度之儀更々無申計候、殊ニ御方息女取返之由尤可然候、猶自森太(森脇春親)所可申候条、不能一二候、恐々謹言、
(天正八年)十一月十九日 山出(山田重直)あて吉川元長書状写(『新鳥取県史』1292)
 夜前至(河村郡)羽衣石谷一行被仰付、歴々被討果之趣、御注進候、則披露申候、直ニ被申入候、毎度御忠儀之段、誠不浅被思旨候、何茂重畳可申述候、恐々謹言、
(天正八年)一月十九日 山出(山田重直)あて森脇春親書状写(『新鳥取県史』1294)

 「第94回県史だより」(鳥取県公文書館)によると、南条方だった赤木某は3日前に使者を送って毛利方へ降伏を申し出た落人で、毛利方はこれを軍勢に加えていたようです。

〇天正8年(1580)11月28日

 夜前の正受院固屋合戦では、重直軍が馬田を案内者とし、砦下に放火、鉄砲や野伏を用いて戦ったことを元長は賞しています。南条氏配下の油木の下人が今朝降伏してくるなど、城内が疲弊し、降伏してくる者が出てくるだろうから、城内のことを尋ね聞いて、重ねて言って寄越すことが大事だとも、元長は言っています

 書中披閲候、扨々、夜前、馬田長左エ門尉為案内者、人数被申付、正受院固屋之下放火候哉、鉄砲野伏有之之由、無比類候、随而油木下人之儀、今朝落来候歟、城内相□〔弱ヵ〕之由候哉、可然候、弥落人可有之事候間、城内之趣被尋聞、重畳可被申越事肝要候、恐々謹言、
 (天正八年)十一月廿八日 山出(山田重直)あて吉川元長書状写(『新鳥取県史』1298)

〇天正8年(1580)12月28日 ※新県史では天正7年としていますが、前後の関係から天正8年と考えられます。

 吉川元春は、書状等を持って水越から羽衣石へ至る間を通りかかった使者を信直が討ち果たしたことを賞し、手薄なところや注意を払っていないところ等を堅固にすることが大事だとしています。

 従水越至(河村郡)羽衣石、田中彦四郎与申者通路候之処、被討捕頸被差越之候、誠無比類次第ニ候、殊書状等持せ被越之候、何茂披見候、弥搦等堅固可被申付事肝要候、猶従二内蔵(二宮春次)所可申候、恐々謹言、
 (付箋)天正七年 十二月廿八日 山田内蔵人あて吉川元春書状写(『新鳥取県史』1184)

〇天正8年(1580)12月29日 ※新県史では天正7年としていますが、前後の関係から天正8年と考えられます。

吉川元春は、信直が水越の尾首で朝駆けをして、南条方の中間一人を討ち果たしたことを賞しています。山田軍は手堅いので配下の者に褒美を加えられて忠儀を抽んでるのが大事だとしています。

 (河村郡)水越於尾頸、朝臥被申付、泉養軒中間一人討捕、首被送越候、昨日茂両度頸到来候、各無緩心懸之次第無比類候、□〔併ヵ〕其方手堅被申付故候、内之者共被加褒美、弥抽忠儀候様、可被申付事肝要候、尚従二内蔵(二宮春次)所可申候、恐々謹言、 (天正七年ヵ)十二月廿九日 山田蔵人あて吉川元春書状写(『新鳥取県史』1185)

 水越は東伯耆の最西端にあり、山を越えると因幡に入ることができる戦略上重要な立地にあります。



ある戦国武将の生き様から因伯の戦国時代をみる(第7回)

【今回のあらすじ】天正5年(1577)から天正7年(1579

 天正5年になると織田方の影響が中国方面にも出てきます。重直は但馬や山陽道方面の吉川軍に同行します。

同7年には備前の宇喜多氏、東伯耆の南条元続が織田方に転じます。南条元続の逆意は元続による重直の襲撃で明らかになります。

【前回のまでのあらすじ】天文12年(1543)から天正4年(1576

 伯耆の国人領主山田重直は、出雲尼子氏の伯耆侵攻により本貫地を追われましたが、但馬山名氏の庇護のもとで因幡侵攻により戦功を重ね、出雲侵攻で伯耆を手にした安芸毛利氏の配下になり本貫地に帰還しました。

 重直は毛利氏の領域支配の一端を担い、因伯やその周辺地域で数々の戦いに参陣し、鳥取城が山名豊国や尼子党に奪われた後は、毛利方による因幡の制圧や拠点の確保に努めていました。

 ところが、因幡の武田高信と東伯耆の南条宗勝が急死する事件が起き、重直は嫌疑ある福山を討ちました。

〇天正6年(1578)2月晦日 ※『新県史』では天正8年としていますが、文書の内容から天正6年と考えられます。

 山田重直は去年(天正5年に)渡辺と伯耆に向い、その後但州竹野に派遣されていました。「当年之儀茂」とあるので、輝元は重直に去年同様の丹州、伯州下向を求めています。

 其方事、去年渡辺(長)相副伯州表差上候、殊但州竹野迄罷上、辛労仕之通、具承知候、当年之儀茂、彼表差出儀候条、涯分馳走肝要候、尚重而可申聞候、謹言、
(天正八年ヵ)二月晦日 山田出雲守あて毛利輝元書状(『新鳥取県史』1194)

 前年のことですが、吉川元春は、織田方に圧迫されていた毛利方拠点を救援するため、天正5年5月には但馬に入ります。吉川軍には山田重直が随行しました。(吉川氏から疑念を持たれた南条氏は伯耆に留まります。)当時、重直は安芸又は出雲に滞在していたようですが、夏には渡辺とともに一旦伯耆へ下り、のち但馬へ向かったようです。伯耆に一緒に下った渡辺は羽衣石に留め、南条元続の警戒に当たらせたようです。なお、天正5年10月には羽柴軍が但馬に進出しますので、吉川元春はこの頃までには但馬を退去していたと思われます。

〇天正6年(1578)3月21日 ※『新県史』では天正7年としていますが、文書の内容から天正6年と考えられます。

 雲州に着陣中の吉川元春が伯州に出張るので、渡辺に随行し伯耆に下向するよう毛利輝元は重直に命じます。

 (吉川)元春伯州表被罷出候条、渡辺石見守(長)事相副差上候、然者其方事、毎事乍辛労、渡石随遂〔逐〕候て可罷上事、可為祝着候、猶委細渡石所より可申候、謹言、
  (天正七年ヵ)三月廿一日 山田出雲守あて毛利輝元書状(『新鳥取県史』1151)

 この年、秀吉方となって尼子党が籠城する播備作境の上月表の状況は宇喜多氏を通じて毛利氏へ届けられていました。毛利氏は尼子党を覆滅すべく分国中に動員令を発出しました。元春は山陰道からの進軍を計画し、出雲へ下って方面の将士を募りました。丹波や但馬の毛利派から元春へ再度の出馬を要請されていましたが、前将軍足利義昭の勧めにより但馬方面を断念し上月城に向かっています。毛利軍は4月18日に着陣していますが、『陰徳記』によると山田重直も参陣したとされています。

〇天正7年(1579)9月7日

 吉川元春は、南条元続が山田重直を襲撃し、重直父子が鹿野へ逃走したこと、元続の離反により兵站線が伯耆で分断されるため丹波と丹後は言うまでもなく、但馬を放棄せざるを得ないこと、そうなると因幡もどうなるか分からないことなどを小早川隆景に伝えています。

 

尚々、蔵田事、羽衣石・山田事を爰元ニて被聞候て、被申登候、自此方も一人、自(会見郡)尾高も一人相副差上申候、誠無比類、能被上候と申事候、
 (美作国)高田表之儀付而、一々被仰越候処、従安国寺(恵瓊)内状被差下候哉、其趣具承知申候、其御事候、爰元にも其取沙汰迄候、羽衣石(南条元続)儀、先日如申候、山出(山田重直)可討果行候処、彼仁堅固之以覚悟切抜、至(気多郡)鹿野罷退候、此儀肝要候、
一対此方無別儀由、血判之以神文、広瀬若狭守与申者差越、重畳申分候、雖然、彼申様更不及分別候、内証ハ相澄候而、申組候衆中調相待候歟、又ハ手前之覚悟為可仕候哉、此方をあやつり候と聞候、此方にも山内一城為可申付候間、先以東之儀を請引候て、彼使指返候、南条人質歴々之者芸州にも罷居候、彼者共捨置候て如此儀、不及是非候、
一御人数上へ悉被差上、某元御小者一人之仕合ニて御気遣之由、察申候、従吉田(毛利輝元)茂於于今者御調可為御出張候、追々御催促肝要候、吉田御出張御延引故、惣々の衆も不被罷出候、御油断之儀候〳〵、
一彼両所之事、被仰越候様ニ可為必定と存候、自某許能々輝元へ御申肝要候、
一此表相談之趣、其分目をも不申入様被仰越候、尤候、乍去彼御両所ニ頓御返事申談候て、差返申候間、不及申候、此方儀者、従某元蒙仰旨ニ何茂任て、丹々(丹後・丹波)之儀ハ不能申候、但州之儀も捨置候、右両人さへ如此候時ハ、因州儀も如何可在之候哉、其気遣可有御察候、猶様躰追々可申述候、恐々謹言、
(天正七年)九月七日 小早川隆景あて吉川元春自筆書状(『新鳥取県史』1166)

 その後、但馬は天正8年4月には羽柴秀長に掌握されてしまいます。

〇天正7年(1579)9月8日

輝元は去る5日に南条の事を元春から報告されていました。南条元続には重直を通じて重ねて人質を仰せつけていたが、これを承服せず、あげく元続自ら重直の居宅を襲撃したこと、山田父子は何とか切り抜け、鹿野に退避したこと、元続は事件後に使者を派遣し、元春に対して「毛利家を裏切った訳ではない」と釈明してきたとあります。因幡でも鹿野、鬼ケ城に番衆を入れて守りを堅固にすることが大切だとしています。

 去五日之御折紙到来令拝見候、先以南条□〔書ヵ〕中之趣、具被仰越令承知候、寔山田(重直)事、対此方別而従前々馳走之段、淵底致存知候、然者今度重人質之儀、以山田(南条)豊〔元〕続へ被仰遣之処、不能許容、結句去朔日山田至宅所南条(元続)自身押懸候、腹を可切せ候行之処、山田以手柄父子(重直・信直)共ニ切抜、至(気多郡)鹿野罷退之由、誠肝要存候、左候へハ、自豊〔元〕続至其許只今被申様にハ、対此方無別儀之由、理等申越候歟、如仰御方様江も一往不及御届如此之段、更以不能分別儀迄候、先人質等之儀を被仰遣候て、弥彼表之趣被聞召切可被仰越之通、尤ニ存候、何篇御思惟肝要候、鹿野・(八東郡)鬼城之儀も番衆等被差􂡲、堅固ニ被仰付由可然候、因州之儀も至今日不相替趣之由、是又専要候、一備前表之儀、境目一二ケ所要害取付之由候、(美作国)月田之儀申付之由候歟、自(同国)高田も其分ニ申越候、(同国)宮山之儀をも諸牢人取付之由候条、左候へハ高田江之通路相留迄候、然間従其元彼伝之一城、可被仰付之由尤肝心候、(杉原)盛重被罷出可取付之由被申候哉、寔短束之段不浅候、自此方も彼伝之一城可取誘との儀候、下野守(口羽通良)(備中国)国吉表罷居候て、右之一城之短束仕半候、追々自爰元も人数等遣之候、於様躰者、重畳被仰越可申入候、尚期万吉候、恐々謹言、
(付箋)天正七年 九月八日 吉川元春あて毛利輝元書状写(『新鳥取県史』1167)

 美作の草苅氏、備前の宇喜多氏の毛利陣営からの離反は、南条元続へも大きな影響を与え、重直の存在が疎ましくなったと考えられますが、この事件で元続の叛意が固まっていました。

〇天正7年(1579)9月17日

 毛利輝元は小寺元武に対して、緊迫した毛利氏最前線の苦境から、何としても南条元続の説得に当たらせようとしています。

 其表之様躰、具申越得其意候、南条(元続)家中之儀、不慮之次第候、山出(山田重直)事、無異儀至(気多郡)鹿野罷退之由可然候、(南条)元続事無別儀之旨、対(吉川)元春可申理之由、此節之儀候条、何と様にも調儀専一候、其方事最前已来之首尾候間、此時別而辛労気仕肝心候、其段不及申聞候、因但之趣是又承知候、何も重々元春可令相談之条、時宜可申聞候、謹言、
 (天正七年)九月十七日 小寺佐渡守(元武)あて毛利輝元書状(『新鳥取県史』1169)

〇天正7年(1579)12月17日

 吉川元春は美作着陣と同時に、その代わりに山内表の杉原盛重に小森・山田らを副えて伯耆に帰しています。

 態申候、仍此表之儀明日十八至(備中国)四畝取懸候、即時ニ可拉之条吉左右軈而可申入候、弥福三(福田盛雅)被仰談、堅固之御番肝要候、南条(元続)事雖逆意候、一円無珍儀候、(杉原)盛重・宍道(政慶)其外人数相副、小森(久綱)・山田(重直)以下差出候条、弥不可有異儀候間可御心安候、何茂御方使(小早川)隆景申談相調可差上候間其時可申入候、恐々謹言、
(天正七年)十二月十七日 湯右(湯原春綱)あて吉川元春書状写(『新鳥取県史』1180)

 10月になると元続の背信行為が公然のものとなります。八橋城衆が叛旗を翻し、程なく毛利が奪還するなど、敵心と断定していました。吉川元春は、杉原盛重を雲伯に留め、作州へ一丸となって出陣すれば平定でき、そうなれば羽衣石もどのようにもできるとして、織田方に転じた宇喜多軍に対抗すべく美作に出陣しました。鹿野に退去していた山田重直も従っています。

 天正8年4月になると南条方の動きが活発になり、南条兄弟は二度にわたって毛利方の拠点八橋城を攻撃し、激戦の末、毛利軍に撃退される事件が起きていました。毛利氏は八橋城に番衆を籠め、八橋・尾高間の逢坂につなぎの城を構えました。



ある戦国武将の生き様から因伯の戦国時代をみる(第6回)

【前回のまでのあらすじ】天文12年(1543)から天正3年(1575

 伯耆の国人領主山田重直は、出雲尼子氏の伯耆侵攻により本貫地を追われましたが、但馬山名氏の庇護のもとで因幡侵攻により戦功を重ね、出雲侵攻で伯耆を手にした安芸毛利氏の配下になり本貫地に帰還しました。

 重直は毛利氏の領域支配の一端を担い、因伯やその周辺地域で数々の戦いに参陣し、鳥取城が山名豊国や尼子党に奪われた後は、毛利方による因幡の制圧や拠点の確保に努めていました。

【今回のあらすじ】天正3年(1575)から天正4年(1576

 毛利氏の因伯経営を担った二人、因幡の武田高信、そして東伯耆の南条宗勝が相次いで急死する事態が起きます。重直は毛利氏に命じられ、嫌疑のかかった福山を討ち果たします。

 

〇天正3年(1575)10月14日

 羽衣石城の南条宗勝が不慮の病死と、南条家家臣団(山田重直を含む)から毛利方に言上されています。宗勝は毛利氏の威光をもって帰国して以来、東伯耆三郡の経営を認められてきており、それゆえ宗勝の子元続への家督について誓書をもって懇請しています。連署者の中には、山田重直の名も見えます。

 謹而言上仕候、抑今度(南条)宗勝不慮病死、不及是非候、宗勝之儀、芸州(毛利)以御威光入国被仕、年来就御引立、当三郡(河村・久米・八橋郡)無異儀依被仰付、于今各案着御芳恩、誠御入魂不浅次第候、然間、(南条)元続若輩之条、近年宗勝江被懸御目姿不相替、此節、別而被付御心、於自今以後者、当忰家、弥長久被相続候之様ニ、切々可被加貴意事、可目出候、自然従他家和讒之族申乱子細御座候者、被尋究、礑被成御救候者、万々可忝候、如此申上候時者、芸州江之儀者不及申上、対元続、向後無二不可搆逆心候、此度(吉川)元春様御懇切、聊致忘却有間敷候、若右之旨趣於偽申上者、可蒙罷梵天、帝釈、四大天王、惣而日本六十余州大小神祇、当(伯耆国)国一宮大明神、大山地蔵権現、三徳山三所権現、杵築大明神、殊八幡大菩薩、摩利支尊天、天満太〔大〕自在天神神罰冥罰御罰者也、仍誓紙如件、
 天正三拾月十四日 渡辺(長)左衛門大夫・二宮右京進あて南条九郎左衛門尉信正外十四名㊟連署起請文(『新鳥取県史』1069)㊟山田出雲守重直・一条市介清綱・津村新兵衛尉基信・南条彦二郎清綱・鳥羽安芸守久友・中村八郎左衛門〔 〕・橋本大蔵大輔景正油木々工助清次・山田久介久清・豊島宗介隆・春日弥兵衛尉定信・〔泉養〕軒長清・小鴨左京輔〔 〕基・〔越振ヵ〕遠江守〔宗ヵ〕綱

 南条元続・小鴨元清も同日付けで吉川元春父子に誓書を提出しています。後に家督は元続へ安堵されますが、少なくとも宗勝が死去してから4か月後も毛利から家督は認められていませんでした。毛利家としては、宗勝という信頼すべき重鎮が亡くなったことは、東伯耆の経営にとって悪い予兆でした。

〇天正4年(1576)7月3日

 吉川元春は、南条兄弟が謀叛と知っていて、福山の殺害を山田重直に命じたところ、直ちに討ち果たしてくれたことを賞しています。

 南条兄弟逆意聞き及び福山二郎左衛門事、申し懸くるの処、忽ち御打ち果たし比類無し。この上は御父子別心無き所、眼前に候。此方全く隔心無く候。毎時油断無く忠節抽でられ祝着せしめ候。委細この者申すべく候。恐々謹言、
 七月三日 山田出雲守あて吉川元春書状(譜録や113)

〇天正4年(1576)7月11日

 福山が毛利氏に謀叛し、忠義に背き敵方に内通したのは紛れないとして、山田重直が福山を討ち果たすなど、とりわけ毛利のために奔走してくれているので、吉川元春がこれを賞しています。

 態令申候、今度福山次郎左ヱ門尉事、逆意之通旁以処、則被仰付候、誠彼仁事連年対芸州(毛利)不忠之仁候、剰当時之儀者、毎事敵方内通之儀不紛事候、如此被討果候段、別而(安芸国)吉田御馳走之儀、無残所候、勿論我等式本望此事候、為御礼二宮木工助(弥六)進之候、〔    〕御方一入被入御精之通、不及申候ヘ共、御入魂無申計候、猶任口上候、恐々謹言、
 (付箋)天正四年 七月十一日 山田出雲守(重直)あて吉川元春書状写(『新鳥取県史』1098)

 福山次郎左衛門は尼子旧臣で、月山落城後、宗勝が南条家へ召し抱えていたと考えられます。

『陰徳記』によると、南条元続は密かに織田信長への内通工作を進めていたが、度重なる交渉の過程で使者や書状が捕らえられ、吉川元春の知るところとなり、山田氏を芸州新庄に呼び寄せ事情を質したと見えています。

〇天正4年(1576)8月1日

 南条家から芸州に派遣された5名の使者は、事情を聞かれ、今後も毛利方に奔走するとした誓書を提出していました。この中に重直もいました。重直は元春から今度の福山への対応を重ねて賞賛されています。

 対二宮右京進(春澄)、以御連署被仰越候、具遂披見候、銘々御紙面之通令承知候、委細者自二右可申述候、幾度申候而茂今度福山無異儀被仰付候之段、別而御方御心遣之故与本望存候、心中之程難尽紙筆候、恐々謹言、
 (付箋)天正四年 八月一日 山田出雲守(重直)あて吉川元長書状写(『新鳥取県史』1101)

 福山事件で南条家中は著しく動揺します。南条元続は5名の使者を芸州へ派遣し弁明させようとし、吉川元春も説得のため小寺氏を南条家中に派遣し、沈静化を図っています。

〇天正4年8月5日 ※『新県史』では吉川元春の花押の形から天正2~4年頃としていますが、これに併せ、人質を供出している状況から天正4年と考えられます。

 このとき使者は、併せて人質も差し出しています。

 対渡左(渡辺長)・井木工(井上春佳)被申越候趣、令承知候、今日各人質之儀、被相渡之由候、肝要之儀候、委細此者ニ申含候間、不能多筆候、恐々謹言、
 八月五日 山田出雲守(重直)あて吉川元春書状(『新鳥取県史』1102)

〇天正4年(1576)10月16日

 このあと使命を果たした使者たちは伯耆に帰還しますが、南条元続へ起請文を提出し、元続の身上のみならず、御家来についても虚偽を述べなかったと誓っています。重直も連署しています。

(端裏書)神文□□
 至今度芸州各被召下候、然者当家無二ニ可被作救立旨、(吉川)元春様不被残御内証、重畳被仰聞事候条、罷上有躰之申分候キ、乍勿論吉田(毛利輝元)様􁖽元春様江(南条)元続御身上、又御家来之儀付而、和讒之段、一言茂申上子細無之候ッ、且御家之為ヲ存知、且各身躰之為を存知、聊無別儀候、於向後自然何かと申族御座候者、旨趣被仰知、又自是茂可得御意候、若右之旨於偽者、梵天・帝釈・四大天王、惣而日本国中大小神祗、当国(伯耆国)一宮大明神・大山地蔵権現・三徳山三所権現、杵築大明神、殊氏八幡大菩薩・摩利支尊天・天満大自在天神、可蒙罷御罰者也、仍誓紙如件、
 天正四 十月十六日 (南条)元続あて山田重直外四名※連署起請文案(『新鳥取県史』1107)
 ※鳥羽安芸守久友・南条備前守信正・泉養軒長清・津村新兵衛尉基信・山田出雲守重直あて

 南条元続は5名の釈明に疑念を抱いていたようです。これは、明らかに元続には思い当たる節があった事を示しています。家督認証の遅れが何によるものかを知る焦りが、福山殺害の折りに南條兄弟逆意と、毛利側に呼ばせた行動を選ばせたようです。

〇天正4年(1576)11月1日

 山田重直が覚悟をもって福山を討ち果たしたことを、毛利輝元からも賞されています。

 福山次郎左衛門尉事申談之辻無二以御覚悟即被相果候、御馳走之至本望此事候、□段難謝候、委細(吉川)元春可被申候、恐々謹言、(付箋)天正四年 十一月一日 山田出雲守(重直)あて毛利輝元書状写(『新鳥取県史』1108)

〇天正4年(1576)11月25日

 吉川元春は、「福山の事は内々逆心との風聞だった。殊に去年の出来事(南条宗勝の不慮の死)は死因に不信感を抱いていたが、証拠歴然となったので、重直や南条家の年寄衆を呼んで申し上げ相談したところ、趣旨を理解し、直ちに居宅にて期待通りの仕事をしてくれた懇意に感謝する。重直は元続その他家中衆に無断で殺害するのをためらっていたが、万一あちこちに相談していたら機密が漏れて仕損じる恐れがあったから、伯耆到着後、直ちに福山を討ち果たしたことは止むを得なかった。重直はよくやってくれている。これからも懇意にし、見放すようなことはしない。」との起請文を重直に送っています。

 如承候、福山次郎左衛門尉事、内々逆心□風聞候、殊去年之儀証拠歴然之儀候条、旁􁖽其許御年寄衆一両人呼申、彼子細申談候処、有御分別、則御方於宅所無異儀被申付候、御懇意難謝候、其節者(南条)元続其外御家中衆御無届之様被存候て、乍去彼方此方与被仰談候者、自然偏聞被仕損候ヘハ、無曲被存、上着翌日則時ニ被討果候事無余儀候、於我等本望此事候、如仰御方之儀先年(毛利)元就別而被申談、御馳走之儀、於(毛利)輝元・(小早川)隆景我等無忘却候、自今以後之儀猶以可有御入魂之由肝要候、此方之儀茂為何儀候共見放不申、副心可申上候、然上者無二ニ世上転変之儀候共、可預御届候、於拙者茂聊不可有疎意候、若此旨於偽者、可被蒙日本国中大小神祇、当国厳島両大明神・杵築大明神・大山権現、別而氏神祇園牛頭天王・八幡大菩薩・天満大自在天神御罰者也、仍神文如件、
 天正四年十一月廿五日 山田出雲守(重直)あて吉川元春起請文写(『新鳥取県史』1109)

 元春は7月のことを振り返って、重直に起請文を認めています。

〇天正4年(1576)12月18日

毛利輝元も山田重直に対して、これまでの重直の毛利家への忠節を評価した上で、今後とも意思の疎通を欠かさず相談することを誓っています。

 寔御方之儀、(毛利)元就以来別而預御入魂候、殊雲州島根陣之時□□□御馳走之段令承知、於我等□□□□其筋目向後弥可被相
届□□□(吉川)元春􁖽渡辺(長)承候、本望之至候、□□□之儀茂如前々猶以無疎意可申談候、此等之趣若偽候者、日本国中大小神祇、殊当国鎮守厳島両大明神、氏神祇園牛頭天王可有照覧候、聊無別儀候、猶元春可被申候、恐々謹言、  天正四 十二月十八日 山田出雲守(重直)あて毛利輝元起請文写(『新鳥取県史』1110)

 前年10月に南條宗勝が急死し、吉川元春は死因に不自然さを感じ内偵を進めた結果、福山次郎左衞門尉を實行犯と断定し、今年7月に重直へこれを排除させました。しかし、それでも疑念(首謀者は別にいる、複数犯らしいなど)は解けず、毛利氏は南條家から4名の重臣と重直を安芸新庄へ召喚し、個別に事情聴取し、各々の人質を取った末に帰国させました。5名は帰国直後の10月16日に南条元続へ起請文を提出し、元續や家來たちに不都合になる事は一切口にしなかった、と誓っています。毛利氏が南条元続を疑っていたと同時に、犯行に加担した者の広がりにも重大な関心を持っていたと考えられます。重直も当初は疑われていたようです。事情聴取の結果、重直への疑いは晴れたらしいですが、一時的にせよ疑った不明を恥じ、今後は疑わない、との主旨で起請文を認めたものと考えられます。



ある戦国武将の生き様から因伯の戦国時代をみる(第5回)

【前回のまでのあらすじ】天文12年(1543)から天正3年(1575

 東伯耆の国人領主山田重直は、出雲尼子氏の伯耆侵攻により本貫地を追われましたが、但馬山名氏の庇護のもとで因幡侵攻により戦功を重ね、出雲侵攻で伯耆を手にした安芸毛利氏の配下になり本貫地に帰還しました。

 重直は毛利氏の領域支配の一端を担い、因幡、出雲、九州、伯耆、因幡、美作において山名氏、尼子氏、大友氏、尼子旧臣、浦上氏と戦い、鳥取城が山名豊国や尼子党に奪われた後は、毛利方による因幡の制圧や拠点の確保に尽力します。

【今回のあらすじ】天正3年(1575

 武田高信を鵯尾城に退け、鳥取城に入った山名豊国の監視等として、重直は鵯尾城の在番を務めています。

 高信には家督相続や身体保全などの問題がありました。

 

〇天正3年(1575)7月11日

 吉川元春は、山田重直に対して13日の八橋への陣替を予告しています。

態令申候、我等事、去八日至(会見郡)尾高陣易候、明後日十三(八橋郡)八橋罷上候、急度其表可為着陣候、此由其許各へ可被申達候、猶重畳可申述候、恐々謹言、 (天正三年ヵ)七月十一日 山田出雲守あて吉川元春書状(『新鳥取県史』1047)

吉川元春は、尼子党や山名豊国に撹乱されている因幡へ向けての進軍をようやく始めます。このことを鵯尾城の在番をしている山田重直に伝えます。

〇天正3年(1575)7月19日

 吉川元春は、山田重直らに明日の長瀬表陣替を通告しています。

 爰元出張付而、自類方半納可相切之由申候哉、可有左様候、此表明日廿日(久米郡)長瀬陣替候、急度至其表可為上着候、追々可申候、恐々謹言、 (天正三年)七月十九日 山田出雲守・森脇左馬允・寺本玄番〔蕃〕允あて吉川元春書状(『新鳥取県史』1048)

〇天正3年(1575)8月28日

 武田高信が求めていた家督安堵ですが、髙信が格別に陳情していた経緯もあるから安堵されて本望だとの小早川隆景の書状が鵯尾城に在番していた山田重直にもたらされます。重直の春以来の検使在番も労われています。

 就爰許出張、自武田又五郎殿被仰越、祝着候、今度被任本意候、祝儀頓従是可申之処、延引候、(武田)高信別而申談筋目候間、彼安堵之儀本望候、其境所々太利之趣、自(吉川)元春被申下、太慶候、随而某許春以来為検使逗留之由、御辛労候、対又右衛門尉(井上春忠)折紙到来、慥披見候、彼者備中為調残置候、尚期後音候、恐々謹言、
(天正三年ヵ)八月廿八日 山田出雲守あて小早川隆景書状(折紙)(『新鳥取県史』1055)

 2月24日に但馬における毛利派の垣屋豊続が、高信の息子徳充丸への筋目相続を吉川元春に嘆願していました。

天正3年(1575)9月16日

小早川隆景は山田重直に対して、鵯尾城の在番はさぞ辛労だと思いやりつつ、武田高信の身体のことは使者を立てているので、適当に取り繕うように(口裏を合わせるように)迫っています。

 其表長々辛労之段、令察候、(武田)又五郎殿為祝儀、企使者候間、可然取合肝要候、弥頓可申を、可罷上与存相後候、此段能可被申分候、猶此者可申候、恐々謹言、 (天正三年ヵ)九月十六日 山田出雲守あて小早川隆景書状(『新鳥取県史』1057)

 3月7日に但馬における毛利派の塩冶高清から、高信の身体保護を毛利輝元に嘆願していました。

一方で、但馬山名からは髙信の排除を迫られていた毛利氏は、以後半年、判断に窮します。

〇天正3年(1575)9月25日

 武田高信は小早川隆景の許へ家臣を派遣し助命嘆願を求めましたが、隆景は確約を避け、山田重直にもよくよく心得よと言っています。

 自武田又五郎殿為音信預使札候、遙々之儀候、能々可被相心得候、就彼身躰之儀、従武(武田)丹・西(西郷)因被申越候、承知候、然間此方内証之通具此使者申渡候、分別肝要候、能々被心得候て可給候、恐々謹言、
 (天正三年ヵ)九月廿五日 山田出雲守あて小早川隆景書状(『新鳥取県史』1060)

 毛利派からの助命嘆願の一方、但馬の山名韶煕(祐豊)からは、豊国の因幡での覇権確立をもくろみ、豊国の下知に応じない輩(武田高信)の排除を吉川元春に求めていました。

 この段階で、毛利氏は高信を見捨てる決定を下したことになりますが、山田重直にとっても存外のことだったと思われます。

 毛利と山名は、尼子党や反毛利同盟の包囲網の中で苦境に立っていた毛利氏が、武田高信から鳥取城主を奪った山名豊国を許容し、尼子党を支援していた山名氏と、天正3年に芸但和睦を結んでいました。この和睦で最も深刻な影響を受ける武田高信は、毛利氏に身の安全を求めていました。取次には但馬での毛利派(垣屋豊続や塩冶高清)が奔走していました。

 その後、「因幡鵯尾城に武田高信が居たのを豊国が取り懸かり討ち果たした」と「渡邊助充覚書」に記されています。渡邊は尼子党でした。


ある戦国武将の生き様から因伯の戦国時代をみる(第4回)

【前回のまでのあらすじ】天文12年(1543)から元亀3年(1572

東伯耆の国人領主山田重直は、出雲尼子氏の伯耆侵攻により本貫地を追われましたが、但馬山名氏の庇護のもとで因幡侵攻により戦功を重ね、出雲侵攻で伯耆を手にした安芸毛利氏の配下になり本貫地に帰還しました。

山田重直は、毛利氏の領域支配の一端を担い、因幡、出雲、九州、伯耆、因幡、美作において、山名氏、尼子氏、大友氏、尼子旧臣、浦上氏と戦います。

【今回のあらすじ】天正元年(1573)から天正3年(1575

天正元年に尼子党が因幡に乱入し、毛利方の鳥取城武田氏は、尼子党と手を結んだ山名豊国により奪取されます

が、山田氏は毛利勢支援のため因幡に入り、武田氏の鵯尾城などの在番を通じ毛利方の失地回復をはかります。

 

〇天正元年(1573)6月12日

 因州表に尼子党が乱入し、所々に城を取り付けていたが、武田方が小畑姥ケ城を攻略した、などの情勢について、山田重直らが富田城の富田元秋あてに報告しており、加勢について了承を得ています。

 御折紙到来、披見候、至因州表諸牢人令乱入、所々城取付候之処ニ、武田方老中成動、(八東郡)小幡姥城被切崩、敵数輩被討捕之由、先以大慶候、彼表加勢追々被申付候、弥吉左右可示給候、将又渡左(渡辺長)・児三(児玉元良)右某許罷越候之条、万端可為相談歟、干〔肝〕要候、恐々謹言、
(天正元年)六月十二日 有地右近大夫(元信)・山田出雲守・佐々部若狭守あて富田元秋書状(『新鳥取県史』963)

 天正元年になり、尼子党は織田氏や山名氏の支援を受けて因幡に乱入してきました。尼子党は6月頃には八東郡方面に進出、尼子党と手を結んだ山名豊国は8月までは因伯境を拠点に因幡へ進出していました。

〇天正元年(1573)9月23日 ※『新県史』では天正3年となっていますが、用瀬城や9月期の重直の行動状況(天正3年9月期は鵯尾在番中で余力がないはず)から天正元年と考えられます。

 山田重直は、尼子党に降伏していた用瀬城を調略により取り戻し、番衆を入れています。

 就今度(智頭郡)用瀬操之儀、旁被入勢[精]之、過半相調之、祝着候、弥頓可被相澄事、干要候、恐々謹言 (天正3年カ)九月廿三日 山田出雲守あて吉川元春書状(『新鳥取県史』1059)

 山田重直は、鳥取落城への毛利方の対応として、先遣隊として因幡に派遣されていたようです。後に鳥取城は山名豊国たちの調略で落城、城主の武田高信は鵯尾城へ退き、尼子党も因幡から退去し、山名豊国が鳥取城に残ります。

〇天正元年(1573)9月30日 ※『新県史』では天正3年としなっていますが、前後の状況から天正元年と考えられます。

 山名豊国は重臣の中村春続を通じて、山田重直に対して、山名豊数時代の忠節、殊に但馬山名家としては疎かに扱う仲ではなかったことを思えば、これからも懇意にしていこうと、必死に働きかけています。

 一昨日者中村大炊助(春続)令対談之処、種々懇意内証祝着候、先年(山名)豊数時、数度忠節之由伝承候、殊当家別而無等閑半候之間、自今以後何事も得助言、又無隔心可申越候、当国未熟之為躰候之条、此節於入魂者、自然時者従是茂随分不可有疎略候、是非共憑入候、不可有忘却候〳〵、恐々謹言、(天正三年ヵ)九月晦日 山田出雲守あて山名豊国書状写(『新鳥取県史』1062)

 山名豊国は、山田重直が先代の豐數時代以来、但馬山名家のために働いてきた事、そんな重直を但馬山名家も疎かに扱う関係ではなかった事を強調し、平定を目指す因幡掌握に重直の協力が必要で、見返りとして万一の際、重直への支援を怠らない、として、何とか頼む、忘れてくれるな、と懇請しています。どうやら豊国は、毛利家からの信頼篤い重直を通じ、毛利氏への接近を図ったものと思われます。

〇天正元年(1573)10月16日

 吉川元春は山田重直へ明後日の因幡着陣を予告しています。

 態令申候此表頓出張候可企書中之処取乱無音候明後日其表陳易候之間有右其外被申談御懇意可為祝着候恐々謹言、
 十月十六日 山田出雲守あて吉川元春書状(「寄組山田吉兵衛家文書」)

〇天正元年(1573)11月7日

 吉川軍が因州に着陣しましたが、山名豊国以下の国衆を赦免します。山田重直は所労により不参、子息が代参しています。吉川元春は、山田重直に鹿野城普請の協力を求めています。

 此表罷出候者、頓可申入候を取乱令無音候、心外之至候、今度因州表之儀付而出張候、万事御方可申談存候処、御所労之故不遂拝顔候、乍去御息又五郎(信直)殿可有御出陳〔陣〕候之間、諸事可申談候、(気多郡)鹿野普請番衆以下付而、万端(南条)宗勝へ申入候之間、被仰談之、御馳走憑申候、御方之御事、自前々別而我等申談儀候、弥何篇被入御精於御入魂者、可為本望候、猶重畳可申承候之条、不能多筆候、恐々謹言、 (天正元年)十一月七日 山田出雲守(重直)あて吉川元春書状写(『新鳥取県史』976)

 豊国は因幡に進出してきた吉川元春に対して、田公氏の仲介で恭順の意を示して投降し、鳥取城を安堵されます。

〇元亀4年(1573)12月15日

 吉川元春は、山田重直に対し、気多郡内の光本に土地を給付します。

 因州気多郡之内、光本参百六拾貫地之事、被進置候、全可有御知行候、然上者弥御馳走肝要候、猶両人任口上候、恐々謹言、
 元亀四年十二月十五日 山田出雲守(重直)あて吉川元春・口羽通良・福原元俊連署書状写(『新鳥取県史』985)

 12月には再建中だった鹿野城も完成し、12月末には吉川軍は開陣しました。しかし、天正2年正月、いったん因幡から退去していた尼子党は吉川軍と入れ替わって因幡に再侵攻し、私部城を攻撃、3月までには私部へ入城します。

〇天正2年(1574)11月1日

 私部合戦で山田重直の子息が尼子党の城下を焼き崩しています。

 去廿八日、某許各被申談、至(八東郡)私部被相動、彼城下悉焼崩、則及防戦、得勝利、敵数輩討捕由候、御方別而被砕手通、誠無比類儀、本望此事候、委細於趣者、朝枝与三太郎可申条、令省略候、恐々謹言、
 (付箋)天正二年 山田蔵人(信直)あて吉川元春書状写(『新鳥取県史』1003)

〇天正2年(1574)後11月16日

 吉川元春は、山田重直が九州陣から伯州に帰り、小寺氏とともに羽衣石城に入っての数年の労をねぎらっています。

 御方之儀、自九州陣御上以来、至伯州(河村郡)羽衣石小寺同前ニ被差籠、数年有気遣辛労之段、更無申計候、内々此段上へ茂申伺候、於我等不可有疎意候、猶井木工(井上春佳)可申候、恐々謹言、
 (天正二年)後十一月十六日山田出雲守あて吉川元春書状(『新鳥取県史』1005)

〇天正3年(1575)2月22日

 吉川元春は、川本の陣所を訪れていた大坪氏と山田重直を因幡国衆と相談させるため因州表へ向かわせます。

 一筆申候、御方之儀、大坪(一之)江相添申之、御上辛労至候、因州表之儀、彼是方角衆中為可申談之、渡左(渡辺長)差上申候、􁖽山左事同前候、毎事因州面之儀、諸事有心遣之儀、可然之様気遣可為祝着候、猶重畳期来音候間、閣筆候、恐々謹言、
  (天正三年)二月廿二日 山田出雲守あて吉川元春書状(『新鳥取県史』1018)

 吉川軍は天正2年12月に石見の川本に着陣していました。後に山田重直は徳吉城へ在番を命じられます。

〇天正3年(1575)3月27日

 吉川元春は、山田重直に徳吉城と鵯尾城の在番を命じます。元春は重直に対し、山名豊国へ徳吉・鵯尾城への毛利軍在陣衆の派遣についての了解をとらせます。

 就(巨濃郡)岩井之儀、従大甚(大坪一之)以飛脚被申越候、旧冬取分難堪之節被相届、如此出張之砌、不慮之覚悟、不及是非候、此方之儀迚罷出事候之条、鳥執さへ堅固候者、可仕返事案中候、(高草郡)徳吉・(同)鵯尾之儀、(山名)豊国被申伺、可被心付事肝要候、(杉原)盛重・(南条)宗勝へも追々申遣候之間、不可有油断候、趣至(出雲国)平田弥可被申越候、恐々謹言
(天正三年)三月廿七日 山田出雲守あて吉川元春書状(『新鳥取県史』1032)

〇天正3年(1575)卯月15日

 ※『新鳥取県史』は永禄9年から元亀4年の間との推定ですが、前後の情勢などから天正3年と考えられます。

 気多郡が鳥取城の山名豊国に返上されると、山田重直の所領が失われることになるので、伯州に代替地を差し上げるとしています。

 因州気多郡之儀、鳥執へ被返進候ニ付而、御方御裁判之地相違候、其代所之儀、於伯州御望之地被進置候、雖然右之在所□□〔唯今ヵ〕指合之儀候者、御理可被申候条、其時者御分別肝要候、此由能々可申之旨候、恐々謹言、
 卯月十五日 山田出雲守あて二宮春次書状写(『新鳥取県史』958)

 芸但和睦交渉に際して、山名豊国が毛利氏に突き付けた条件は領土の割譲でした。

 永禄末年の北九州進出以降、毛利氏は豊後大友氏、備前・播磨の浦上氏、因幡・但馬などの尼子勝久・山中鹿介ら旧尼子氏勢力、美作の三浦氏、備中の三村氏らの反毛利同盟の包囲網の中で苦境に立っていました。このため、毛利氏は鳥取城主に収まった山名豊国ら旧尼子勢力を許容し、背後で支える但馬山名氏や山名豊国が毛利氏と天正3年に和睦したものです。なお、このことで毛利氏側の反転攻勢が軌道に乗り、翌天正4年に旧尼子勢力など反毛利勢力が一掃されることになります。(『織豊期研究』2「戦国大名毛利氏とその戦争」山本浩樹)

〇天正3年(1575)5月17日

 吉川元春は、春以来検使として徳吉・鵯尾城に在番中の山田重直の労をねぎらっています。

 其方之儀、従(石見国)河本大坪上之時相副申御辛労候、打続(高草郡)徳吉為験〔検〕使在番之儀申候処、則有同心之、被罷籠鳥執人質被付心候、誠祝着候、今度(高草郡)鵯尾へ之儀申候処、是又被請付候段大慶無申計候、おりこめ之儀と申、老足雖可為大儀候、此節之気遣分別候而被罷上事、喜悦候、以連々之、吉田(毛利輝元)被成御分別候様、我等可令気遣候、猶渡左(渡辺長)任御演説候、恐々謹言、 (天正三年)五月十七日 山田出雲守あて吉川元春書状(『新鳥取県史』1037)

 山田重直は、因幡・山名豊国の監視役として、徳吉入城と同時に鳥取城から人質を徴していました。武田高信を因幡から追放した山名豊国は、武田氏の拠点である徳吉・鵯尾城を占拠しますが、事態を重く見た毛利氏は、山田重直を検視とし、豊国から人質を取り、両城への毛利軍の駐屯を豊国に同意させていました。そして、豊国の行動を監視するため山田重直を派遣するとともに、豊国から鵯尾城を返還させ山田氏に管掌させていました。



ある戦国武将の生き様から因伯の戦国時代をみる(第3回)

 【前回のまでのあらすじ】天文12年(1543)から永禄9年(1566)

 東伯耆の国人領主山田重直は、出雲尼子氏の伯耆侵攻により本貫地を追われましたが、但馬山名氏の庇護のもとで因幡侵攻により戦功を重ね、出雲侵攻で伯耆を手にした安芸毛利氏の配下になり本貫地に帰還しました。

 山田重直は毛利氏の直臣として、因幡の国人武田高信を通した毛利氏による因幡制圧に合力し、毛利氏による出雲尼子攻めにも加わりました。

 【今回のあらすじ】永禄11年(1568)から元亀3年(1572)

 毛利氏は尼子氏を滅亡させると九州大友攻めをはじめますが、山田重直は九州に参陣しました。その隙を突いて尼子旧臣などが動き出すと、山田重直は伯耆に帰還し伯耆や因幡で尼子党と戦い、美作の浦上氏との対応にも派遣されます。

〇永禄11年(1568)12月16日

 吉川・小早川氏が、羽衣石城番山田又五郎を労っています。

 一筆申入候、其城之儀、旁堅固被相拘候事、無比類候、(南条)宗勝上之事候之間、弥御馳走肝要候、猶此者可申候、恐々謹言、(付箋)永禄十一年 十二月十六日 山田又五郎あて吉川元春・小早川隆景連署書状写(『新鳥取県史』832)

山田氏の子又五郎は九州陣に参戦した南条氏の留守を預かっていました。

永禄9年11月に尼子氏を降伏させた毛利氏は、永禄11年6月に九州に出陣し大友氏との交戦に入ります。
『森脇覚書』や『陰徳記』によれば南条、杉原、山田氏ら伯耆衆も吉川・小早川氏の傘下で参陣しています。

〇永禄12年(1569)7月5日

 毛利元就は、九州表での対大友戦に参陣していた山田氏を伯耆へ帰そうとしますが、吉川・小早川は九州で今一働きの後でと要求しています。

今度其表御出、御辛労之至、畏入候、然上ニ重而如此之申事、誠雖口惜候、從小早川(隆景)・吉川(元春)所指上使者、今一動申付候ハて不叶儀候条、其企候、然間人数之儀、急度〳〵可差下由追々申越候間、不顧御心中申候、此時頓御下向重々可為本望候、併御扶助此時候、猶両人可申入候、御心得所仰候、恐々謹言、
永禄十二年七月五日 山田出雲守(重直)あて毛利元就書状写(『新鳥取県史』838)

 毛利氏が九州に出陣したその隙を狙って、富田城合戦の戦後処理で毛利氏に助命、解放された尼子旧臣が大友氏らの毛利包囲網と連携して、永禄12年6月に出雲に上陸し、尼子家再興戦を各地で展開しはじめます。

 8月には伯耆への作戦も併行されるようになり、岩倉城は元亀元年3月以降に尼子方に落とされ、羽衣石城は維持されていましたが、八橋城は苦戦していました。 
 この各地の混乱に対して毛利氏は、永禄12年7月に石見へ森脇、次いで出雲へ米原、伯耆へ南条・山田、因幡へ久芳を下向させ、掃討に当たらせようとしました。

〇永禄12年(1569)9月5日

 山田氏は伯耆への下向に際して、先年の武田氏の違約を訴え、伯耆下向を渋っています。

 御方之儀、今度(河村郡)羽衣石為御拘御上国之由候、誠路次等彼是御辛労之至、不及申候、頓被成御上之、羽衣石堅固之儀者不及申、国中一揆等涯分可被討果事干要候、連々御馳走可為首尾候、先年鳥取表(武田)高信気遣之節、御方木森木工(小森久綱)、於因州千貫之地約諾候哉、然者其以後違目之趣、慥承知候、雖然木森方者(八橋郡)八橋面引合之、千貫之辻所勘候哉、御方之御事于今不足付而、御存分無余儀候、内々対芸州無二御馳走之事候間、御本意候段、必可申聞候、於拙者聊不可有疎意候、猶口上ニ申入候、恐々謹言、 (永禄十二年)九月五日 山田出雲守(重直)あて吉川元春書状写(『新鳥取県史』844))
 毛利氏が和睦を仲介した際、山田氏は日置村に千石地給付を要求した上で武田氏と和談していましたが、元就の独断で、半分に切り下げられてしまい、結果的に要求が満たされていませんでした。

〇永禄12年(1569)9月8日

 毛利氏は山田氏に対して、伯州での戦功と引き換えに一所を給付することを誓い、山田氏の下向を促します。

 伯州御上御辛労之儀候、於彼表諸事可有御入魂之由肝要候、弥於馳走者一所之事承候、不可有疎略候、猶渡辺(長)左エ門大夫可申候、恐々謹言、 (永禄十二年)九月八日 山田出雲守(重直)あて毛利元就・同輝元連署書状写(『新鳥取県史』845)

〇永禄13年(1570)2月10日 ※『新鳥取県史』は年未詳としていますが、高橋説をとり永禄13年としています。

南条氏は、山田氏の長々御在身に対して八橋郡内に30石の対価契約をしています。

 今度長々御在身誠御頼敷次第候、就其八橋郡下郷之内三十石令契約候、於向後全可有御知行候、恐々謹言、二月十日 山田出雲守あて南条宗勝書状(『新鳥取県史』1014)

〇元亀元年(1570)卯月9日

 南条氏に副えて山田氏を伯耆表に差し向けた吉川・小早川氏は、その労苦をねぎらい、万一討死するようなことがあれば跡目人についても取立てを約束していました。

 今度其方事、(南条)宗勝ニ相副伯州表差上候、然者別而辛労気遣之由、令承知候、自然被立御用候者、跡目之儀無疎意取立可申候、少茂不可有別儀候、可心安候、弥可被抽忠儀事肝要候、猶兼重左衛門尉(元宣)・児玉三郎右衛門尉(元良)所より可申候、恐々謹言、 (元亀元年)卯月九日 山田出雲守あて吉川元春・小早川隆景連署書状(『新鳥取県史』863)

 毛利軍は九州陣を退却し、元亀元年1月から出雲へ進撃してきます。

〇元亀元年(1570)8月2日 ※『通史編』では元亀元年又は2年としています。

 吉川氏は、山田氏が九州陣から伯耆への下向に際し要求していた一所給地のことは忘れてないとして、ますます奔走するよう求めています。

 (山田)重直従九州陳下向之時、一所被進置候様、可申聞之通申候キ、其辻今以無忘却候、弓箭以一途之上、礑可被進置候条、弥御馳走肝要候、猶口上ニ申候、恐々謹言、 八月二日 山田出雲守(重直)あて吉川元春書状写(『新鳥取県史』885)

〇元亀元年(1570)8月27日 ※『新鳥取県史』は元亀2年との推定ですが、情勢などから元亀元年と考えられます。

 吉川氏は、山田氏の去年からの伯州での労苦をねぎらい、殊に此度の八橋城での働きに満足しています。

 去年已来伯州在国候て、長々御辛労申茂疎候、殊今度(八橋郡)八橋之儀、以旁気遣被引成候、誠祝着之至候、於彼表御辛労之段、至吉田(毛利輝元)披露可申候之間、可被加御詞候、恐々謹言、 (元亀二年)八月廿七日 山田出雲守あて吉川元春書状(『新鳥取県史』917)

 山田氏は、永禄12年9月に九州陣から伯州に帰還し、羽衣石・八橋に入っていました。しかし、その後八橋城は尼子党に押さえられ、山田氏は八橋城から撤収します。

〇元亀元年(1570)11月17日

 ※『新鳥取県史』は永禄9年から元亀3年の間と推定されていますが、山田氏の行動や当時の情勢から元亀元年と考えられます。

 鹿野・小畑合戦において、山田氏の家来衆が敵軍と正面からぶつかり合い敵を多く捕らえたことに、武田氏は満足しています。

 去十五日従(気多郡)鹿野新山至(同)小畑罷出候処、御家来衆則時被懸合、敵数多被討捕之段、寔連々御心遣之故、於我等本望候、何茂自是以使者可申入候、委細(武田)同名丹後守可申候、恐々謹言、

 十一月十七日 山田出雲守(重直)あて武田高信書状写(『新鳥取県史』950)
 山田氏は、因伯境の鹿野において尼子党と戦っていて、戦功をあげています。

〇元亀2年(1571)5月15日

 因伯境にある荒神山城番の矢田氏が尼子方へ通じましたが、山田氏は荒神山城を攻略して後、4月24日には岩倉向城の淀山城に入城しています。 

 (端裏書)山田出雲守殿 御返報 駿河守元春 御折紙拝見候

 一 先日□□『荒神ヵ』山へ従備前兵粮差籠候処、□□□御方□□□□至中途被差出、堅固ニ依被相支、彼兵粮不得差籠□□『荒神ヵ』山之儀、頓落去候事、旁御才覚之故候、誠無比類候、殊荒神山内之計略之子細候つる、我本丸ニ火を懸、焼崩候て、則時ニ落去之由候、其表之儀者不及申候、此表迄之競候、矢田事被討洩候て無曲之由、自(武田)高信も被申越候、尤之儀候、雖然要害被仕取候事、太利迄候、数人被討果候条、可然候、殊御方息(山田信直)又五郎□敵四兵衛と申者被討捕之由候、御心懸無比類候、其外御方手へ頸四□被討取之由候、御粉骨之至候、追々山をさかさせられ候由候間、可被討捕候、今度荒神山儀ニ付而ハ、取分□□□ハ不能候、旁御勢を被入故候、

 一 従(尼子)勝久備前へ被差上候三輪入道事、□□以御調略被呼抜之由候、さ候て(出雲国)新山・(八橋郡)八橋・備前之内證具被聞召之由候、肝要候、弥御尋候て此方にも承可成心得儀者、可被仰越候、
 一(久米郡)岩倉為向城、去月廿四日、淀山被取付候、岩倉切岸迄日々被差寄被得勝利之由候、誠心地能被仰付様候、三頭・岩倉何も雖御同前之儀候、八橋事一日片時も頓一着候様ニ御行肝要候、御賢慮此節候、何様自是可申入候間、令省略候、恐々謹言、
 (元亀二年)五月十五日 山田出雲守(重直)あて吉川元春書状写(『新鳥取県史』900)
 元亀元年8月に八橋を退いていた山田氏は、荒神山城以下への備えに気多郡に派遣されていたようです。

〇元亀2年(1571)5月16日

 吉川氏は、荒神山城合戦での山田氏の労をねぎらっています。

 今度(気多郡ヵ)荒神山落去之時、於退口敵一人被討取之由候、誠御心懸無比類候、御粉骨之至候、至(安芸国)吉田遂注進候之条、必自是賀可令申候、恐々謹言、 (元亀二年)五月十六日 山田出雲守あて吉川元春書状(『新鳥取県史』902)

〇元亀2年(1571)7月3日

 ※『新鳥取県史』は吉川元春の花押の形から天正3年頃との推定ですが、前後の状況から元亀2年と考えられます。

吉川氏は武田氏へ伯耆出陣を求め、武田氏は山田氏らに協力を求めています。

 至其表武田又五郎殿御下向付而、旁別而心付被申候之由、(武田)丹後守方罷下被申聞候、於我等祝着之儀、弥付心可被申事肝要候、猶従是可申候、恐々謹言、 (天正三年ヵ)七月三日 山田出雲守あて吉川元春書状(『新鳥取県史』1045)

〇元亀2年(1571)7月9日

 吉川氏は山田氏に対して、出雲新山のことは程なく一着するだろうし、そうなると伯耆も静謐になるだろうから、一層奔走することが肝要だとしています。一昨年のことは山田氏が下向し羽衣石を守り抜いてくれたからこそ現在の状況にあるとの認識を示しています。

 対小佐(小寺元武)御状披見候、御書中之趣尤候、於我等不可有疎意候、芸州へ茂具可申聞候、当国之儀(出雲国)新山能程可為一着候間、左候者其表之儀も勿論可為静謐候、雖不及申候、弥御馳走肝要存候、誠去々年之儀ハ御方頓御下候而、(河村郡)羽衣石之事被持抜種々御行付而、於于今如此某許被任存分由旁御馳走之故候、其段淵底令存候、猶巨曲小佐へ申入候間可有演説候、恐々謹言、 元亀二年七月九日 山田出雲守(重直)あて吉川元春書状写(『新鳥取県史』907)
 元亀2年8月に新山城は落城します。

〇元亀2年(1571)7月10日

 武田氏は八橋表出陣を命じられます。

 就(汗入郡)寺内御動之儀、(武田)高信事、南豊(南条宗勝)被申談、(八橋郡)八橋表手合之儀被憑思召之由、自吉田(毛利輝元)以直書被仰遣候、乍辛労其方為使者被罷越、懇ニ被申分候て、(南条)宗勝被申談、高信出張候之様、裁判肝要候、猶委細口上ニ申候、恐々謹言、 (元亀二年)七月十日 山田出雲守あて吉川元春書状(『新鳥取県史』908)

 吉川氏は、山田氏を通じて武田・南条氏の伯耆出陣を求めていました。このため、当時武田・南条間には和睦斡旋を講じる必要があったことが分かります。

〇元亀2年(1571)9月15日 ※『新鳥取県史』は永禄9年との推定ですが、給地、情勢などから元亀2年と考えられます。

 毛利家直臣の山田氏に対して八橋郡内にある200石の土地を給付する打渡状が奉行人から出されています。

 八橋郡以東之内百七十五石、同下郷之内弐拾五石、山田出雲守(重直)方江被進之候、御打渡肝要候、恐々謹言、九月十五日 小寺佐渡守(元武)・多根因幡寺(元房)・中原善左ヱ門尉あて毛利氏奉行人(桂上総介元忠・児玉周防守就方・井上但馬守就重・児玉三郎右エ門尉元良)連署打渡状写(『新鳥取県史』825)
 伯耆も巻き込んだ第一次尼子家再興戦でしたが、尼子方に占拠されていた八橋城も8月に陥落し、尼子党も出雲新山城から退去し、出雲伯耆が平定されました。この戦での山田氏の戦功に対して給地され、奪還した八橋城には山田氏が再び入城します。なお、山田氏は翌3年閏1月まで八橋に在番していたと考えられます。

〇元亀3年(1572)閏正月22日

 毛利氏は、直近の九州出陣、八橋在番などでの山田氏の労をねぎらいつつ、美作へ動員しようとしています。

 御方之儀、最前以来別而御入魂之儀候、九州表(南条)宗勝同前御辛労之儀者不及申、上国候て其表無緩御短息之故、早速静謐候事大慶候、殊去年(八橋郡)八橋在番之儀、(吉川)元春被申候処于今被相届候、寔祝着候、仍太刀一腰進之候、表慶儀候、将亦草苅(景継)・後藤事此方一味候、其元方角之儀候条、□□可被副御心之由申入候、旁以可被成其心事所仰候、猶小寺佐渡守(元武)可申候、恐々謹言、 元亀三年閏正月廿二日 山田出雲守(重直)あて毛利輝元書状写(『新鳥取県史』929)

 元亀2年の尼子党家再興戦の敗北をみて、美作では矢筈城の草苅氏、三星城の後藤氏が毛利陣営に復帰しますが、これに収まらない浦上氏が急遽出兵し、三星城を占拠していました。

〇元亀3年(1572)壬正月25日

 毛利氏は、山田氏が年賀に太刀や銭を送ってくれたことに満足しています。

 為改年之儀、太刀一腰・青銅百疋送給候、御懇意之段祝着之至候、猶自是慶賀可申述候、恐々謹言、(元亀三年)壬正月廿五日 山田出雲守(重直)あて毛利輝元書状写(『新鳥取県史』930)

〇元亀3年(1572)3月7日

 山田氏は作州に出陣します。小早川氏は、浦上氏に奪われた三星城への対策を山田氏に要請します。

 御折紙到来披見候、作州三星儀、最前敵及行候刻、手前堅固候て勝利之処、其以後(備前国)天神之衆以武略三丸仕取、難儀之由不及是非候、此方出張少延引之故、諸口覚相替如此候、然者其元之儀ハ方角之事候間、別而此節被成御短息、三星堅固候様、御才覚頼存候、至備中内郡諸勢打出之、作州堺一行相催半候、於趣者先度蔵田与三右ヱ門尉(元貞)差上候間、具申入候、不日可致上着之条、毎事者御分別、弥御馳走此時候、重畳可申承候、恐々謹言、

 元亀三年三月七日 小早川隆景書状写(『新鳥取県史』931)

〇元亀3年(1572)3月11日

 毛利氏は、山田氏の在番に当たって作州の300貫を給地を約束します。

 内々承候愁訴之事、於作州三百貫地進之候、委細従(吉川)元春可被申候、恐々謹言、元亀三 三月十一日 山田出雲守(重直)あて毛利輝元宛行状写(『新鳥取県史』932)

〇元亀3年(1572)3月13日

 吉川氏は、後藤、草苅支援のため、武田・南条間の和睦を急がせようとします。

 後藤・草苅(景継)就加勢之儀、(南条)宗勝御出勢之儀令申入候、雖不及申候、旁御馳走別而憑申候、先様及迷惑候ヘハ、翌日伯州御気遣之事候、能々不可有御由断事肝要候、

 一 宗勝・(武田)高信御和合之儀候、半少茂御存分相残候ヘハ、作州辺へ之御行も可為遅々候、何と様にも御異見候而、時儀相澄候之様御故実専一候、委細小佐(小寺元武)任口上候之間、不能詳候、恐々謹言、
 (元亀三年)三月十三日 山田出雲守(重直)あて吉川元春書状写(『新鳥取県史』933)
 当時武田・南条間には和睦斡旋を講じる必要があったことが分かります。

ある戦国武将の生き様から因伯の戦国時代をみる(第2回)

【前回のあらすじ】天文12年(1543)から永禄5年(1562)

 東伯耆の国人領主である山田重直は、出雲尼子氏の伯耆侵攻により本貫地を追われましたが、但馬山名氏の庇護のもとで因幡侵攻により戦功を重ね、出雲侵攻で伯耆を手にした安芸毛利氏の配下になり本貫地に帰還しました。

【今回のあらすじ】永禄6年(1563)から永禄9年(1566)

 山田重直は毛利氏の直臣として、因幡の国人武田高信を通した毛利氏による因幡制圧に合力します。   

  また、毛利氏による出雲尼子攻めにも加わりました。そして、毛利元就から出雲守の受領名を与えられます。

〇永禄6年(1563)9月2日 ※『新鳥取県史』は永禄7年との推定ですが、和睦の成立時から永禄6年と考えられます。

 毛利元就は、小森氏の勝部郷内、山田氏の日置郷内の所領を押収した上で、武田氏と山田氏・小森氏を和睦させようとします。

(気多郡)日置・勝部当務之事、先以百姓等ニ可抱置之由可申付候、鳥執(武田高信)与小森(久綱)・山田(重直)半、急度可相澄候条、以其上可相調候、此分為両人可申付候、謹言、(永禄七年ヵ)九月二日 久芳兵庫允(賢直)、井上神兵衛尉あて毛利元就書状(『新鳥取県史』766)
 因幡山名家を退け、実質的に因幡守護となっていた但馬山名傍系の山名氏(この当時は豊数)に対して、その配下にあった武田高信(元因幡守護嫡家被官)が毛利氏の支援を受けて、永禄6年に反旗を翻しました。
 高信は因幡制圧の意志を持っていたと考えられます。一方、毛利陣営としては、出雲での尼子氏攻めと因幡での山名攻めとの両面作戦の中で、戦力を振り分けることは厳しかったと考えられます。

〇永禄6年(1563)9月28日 ※『新鳥取県史』は永禄7年との推定ですが、和睦の成立時から永禄6年と考えられます。

 毛利氏は、武田氏と山田氏らの和睦交渉を進める中で、南条氏や山田氏らの心の奥底にある思いを伝えようとしています。

(追而書)猶々、此状ハミつ〳〵の儀候間、他言あるましく候〳〵、
就南豊(南条宗勝)并小木工(小森久綱)・山平(山田重直)心底之儀、委細令申候、此儀肝心之奥意候、能々各可被申談候、猶両人可申候、此儀密々肝要候〳〵、恐々謹言、(永禄七年)九月廿八日 渡辺出雲守(房)・久芳兵庫允(賢直)あて毛利元就・吉川元春・小早川隆景連署書状(『新鳥取県史』780)
 毛利氏は、対但馬山名氏のため因幡武田氏の蜂起を支援するだけでなく、東伯耆を平定し但馬山名の切り崩しを図るため南条氏を戦略の中心に据え、山田氏ら但馬系伯耆衆の再編を図っていましたが、16世紀前半の、国衆を巻き込み伯耆国内を二分した争乱に加担した南条氏(親尼子)と山田氏ら(反尼子)との不和があり、山田氏としては南条家へ取り込まれることに抵抗があったようです。
伯耆国には南条・行松などの国衆の本領が所在しましたが、彼らの多くは尼子氏によって国を追われ、永禄5年頃、毛利氏の援助を得て数十年ぶりに帰国を果たしました。中でも南条宗勝は「芸衆以御威光、入国仕、年来依御引立、当三郡無違儀被仰付」られて、伯耆最大の国衆としての地位を保証されました。毛利氏による伯耆国衆支配の方針は、国衆の本領を安堵し、彼らの経営を通じて支配を強化していくことを基本とし、その上で南条の主体性を認める一方で、これを嫌う山田重直らを毛利の直臣に組み込むなどして東伯耆の安定を図ろうとするものでした。山田氏は、吉川元春を通じて東伯耆における毛利氏の最大の支城である八橋城の在番を命じられるなど毛利直臣としての性格を持ち続けますが、南条氏から長々御在身により30石を与えられたり、南条家の奉行衆にも参画するなどしています。山田氏の南条権力への参画は毛利側の働きかけで実現した可能性が高いとされています。(『史苑』第46巻第1・2号所収「戦国期山陰吉川領の成立と構造」)
〇永禄7年(1564)4月2日  ※『新鳥取県史』は永禄8年との推定ですが、和睦の成立時から永禄7年と考えられます。

 山田氏は武田氏との和談に日置村の千石を要求し、毛利氏は武田氏への説得を約束します。ところが、千石の要求は半額に減らされた上で武田氏へ伝えられていたようです。  

因州(気多郡)日置村千石御知行之事承候、武田高信可被仰談事肝要候、於我等聊不可有余儀候、高信へも可令異見候、猶御使者申候、恐々謹言、 卯月二日 山田平三左エ門尉(重直)あて毛利元就書状写(『新鳥取県史』795)

〇永禄7年(1564)5月8日 ※『新鳥取県史』は永禄8年との推定ですが、和睦の成立時から永禄7年と考えられます。

 山田氏は、小森氏と同じように武田氏への協力を申し出、その見返りの契約地について念押しをします。

 御方事、何篇小木工(小森久綱)同前ニ可被遂御馳走之条、契約地等之儀茂可致其心得之由、従小佐(小寺元武)対久兵(久芳賢直)示預之趣、慥令承知候、於達本意者、今度御入魂之段、不可有忘却候、向後茂弥小木工同意ニ預御馳走、可申談候、恐々謹言、 五月八日 山田平三(重直)あて武田高信書状写(『新鳥取県史』798)

 山田・小森氏にとって武田氏との和睦はその背後にいる毛利氏との提携であり、山名氏との決別を意味しますが、彼らには所領の弱みと、山名氏の毛利対抗策としての尼子支援行動への反感があったようです。

〇永禄7年(1564)7月13日

 小森氏が勝部郷神崎社に神田を寄進しています。

  奉寄進因州気多郡勝部郷神崎大明神田地之事 一壱町 東分 一参段 西分 一弐段 寺分 一弐段 綱嶋分 一壱段大 公文分合壱町捌段大 右、意趣者、武運長久、如意安□〔全〕、子孫繁栄、奉祈加護者也、仍寄進状如件、于時永禄七甲子年七月十三日 小森木工允源久綱寄進状写
  この頃までに武田氏と山田・小森氏間で和睦が成立し、両人の所領が返還されたものと考えられます。
  この和睦の後、同月22日の鹿野麓合戦に山田氏は毛利方として参戦しています。

〇永禄7年(1564)7月27日

※『新鳥取県史』は年未詳だが重直の官途から永禄8年以前としていますが、前後の状況から永禄7と考えられます。

 山田氏が毛利氏に鹿野麓合戦の報告をしたのに対して、毛利氏が山田氏の戦功を賞しています。

 (追而書)猶々、委細又田中河内守可申入候、御状昨日到来、委細御返事申候、幾度申候而□今度之合戦無比類段、更不及言語候、我等大慶此事候、御□御粉骨之段、乍案中誠難謝候、不執    申入候、□□□□然間先以巨細不能申候、追々可申入候、恐々謹言、

 七月廿七日 山田平三左衛門尉(重直)あて毛利元就書状写(『新鳥取県史』801)

〇永禄7年(1564)8月2日・3日

 因幡武田氏を支援する毛利氏、因幡武田氏が名目上の守護として戴く山名豊弘そして武田高信が、鹿野表合戦での山田重直らの功を賞しています。

去月廿二日、於(気多郡)鹿野麓、(南条)宗勝被遂合戦候、悉皆以御方御行御粉骨被得大利候、誠無比類候、感悦之至更難謝候、連々可令褒美候、為後証感状如件、 永禄七年八月二日 山田平三左衛門尉(重直)あて毛利元就感状写(『新鳥取県史』756)
今度者於(気多郡)鹿野表合戦之時、無比類動之由候、殊其家中之者数人高名、無其隠候、誠□□儀此事候、弥其表行等肝要候、委細武田(高信)可申候、恐々謹言、 永禄七年八月三日 山田平三左衛門尉(重直)あて山名豊弘書状写(『新鳥取県史』761)

今度於(気多郡)鹿野表被及合戦之刻、別而被付御心、依被廻計策、則被得勝利、随分之者数輩被討取、御家来御高名寔無比類候、併於爰許太慶此事候、就其従源三殿以使札雖被仰越候、尚相□得可申入之旨候、弥御行無御由断様(南条)宗勝被相談候者、可為本望候、兼又比表之事、近日無珍子細候、可御心安候、尚追々可申承候条、不能詳候、恐々謹言、永禄七年八月三日 山田平三(重直)あて武田高信書状写(『新鳥取県史』762)

  但馬山名傍系の山名豊数は因幡武田氏に追われ永禄6年12月には鹿野に退去していましたが、翌永禄7年7月22日に鹿野にいた布施勢を毛利衆や伯耆衆が襲撃します。伯耆衆の中には南条、小森、山田氏がいました。

〇永禄7年(1564)9月3日

 但馬山名軍が徳吉へ進出し、気多郡の大坂、宮吉を窺います。これに対して、毛利氏は小寺氏や伯耆衆山田氏らを宮吉城に入れてこれに備えます。

 尚々、其方気遣辛労之段令推量候、祝着之至候、小木工・山平にも此由能々可申候〳〵、かしく、
 去月廿五日之折紙到来、披見候、
  一 去廿三日、但州(山名祐豊)衆至(高草郡)徳吉陳替候而、(気多郡)大坂・宮吉可被相動之由候、就其小木工(小森久綱)・山平(山田重直)其外其方已下、至宮吉入城之由候、誠無油断堅固之覚悟、尤可然肝要候、定而不可有異儀候条、珍重候,
      一 自爰許加勢之事心得候、人数追々可差上候、一切不可有油断候、可心安候〳〵、一鉄炮二三十、先昨日差上候、定而可為到着候、
  一 為始(南条)宗勝、伯州各無二之覚悟之由、乍勿論尤専要候、
  一 (八橋郡)八橋城衆之儀、先五十六十之間、是も昨日差遣候、可心安候、其許之様躰切々可有注進候、何篇不可有遅滞候、猶期
吉事候、謹言、
(永禄七年)九月三日 小寺佐渡守(元武)あて毛利元就書状(『新鳥取県史』767)
  鹿野勢を救援するため但馬山名氏が因幡に侵攻してきますが、毛利氏は鹿野の防波堤として宮吉城に伯耆衆を入れて但馬勢の来襲に備えます。この中には山田、小森氏がいました。

〇永禄7年(1564)9月21日

毛利氏は、小森・山田氏が奔走してくれていることを称賛し、小森氏には雲伯間に千石給付を約束します。

今度小木工(小森久綱)・山平(山田重直)馳走之段、誠無比類無二之事候、加様之儀は更大切なる心持にて候、祝着之儀我等心底之程不得申候、然間於雲伯之間雖不甲斐候、一所宛可申付心中候、此等之趣内々可申届事肝要候、猶此者可申候、謹言、永禄七年九月廿一日 小寺佐渡守(元武)あて毛利元就・吉川元春・小早川隆景連署状写(『新鳥取県史』777)
武田氏と小森氏との契約は、八橋周辺の地を含め毛利氏が肩代わりして、これ以降に履行されます。

〇永禄8年(1565)1月11日

山田氏は、武田氏への加勢として旧冬以来青谷に在陣中で、武田氏はその労をねぎらっています。また、武田氏は因幡一国を平定した後には山田氏に日置郷内の500石の土地を給付する約束をしています。

(追而書)尚々、御子息之儀、以近年之姿、当国被上置、拙者可有契約之由候間、尤肝要候〳〵、
 為拙者御合力、旧冬以来至(気多郡)相屋御在陣、御辛労難尽紙面候、迚御懇意之上候間、至(同郡)宮吉被成御入城、別而被付御心、預御入魂、当国之事、拙者任存分候者、(同郡)日置之郷五百石可申談候、不可有相違候、被得其心、弥無二之御馳走肝要候、万事憑  (永禄八年ヵ)正月十一  山田平三左衛門尉(重直)あて武田高信書状写(『新鳥取県史』792)
  武田氏は、山田氏らとの和睦後に山田氏から加勢を受けています。鹿野麓の合戦以降も鹿野城の山名勢は健在らしく、山名氏がねらった気多郡海浜部を警戒するため、山田氏に青谷郷への在陣を求めていました。
  また、武田氏の許には山田氏の子息が派遣されていました。

〇永禄8年(1565)4月24日

武田氏は山田氏へ子息の鳥取籠城の延長を要請しています。

態以書状申候、仍与三左衛門尉方之事、貴所為御名代、今度当要害籠城候て、入魂之段、併御在城同前候、本望此事候、迚之儀ニ彼進退之儀、如近日当城堪忍候様、被成御心得候者、可為本望候、委細之儀、同次左可申候間、不能詳候、恐々謹言、卯月廿四日 山田平三左衛門尉(重直)あて武田高信書状写(『新鳥取県史』797)
  武田氏は挙兵時から軍事力が弱く、鳥取城には毛利氏の加番衆や伯耆衆からの加勢も入っていました。
  永禄5年7月に始まった毛利氏の出雲遠征は周辺部の制圧に費やされていましたが、永禄8年頃から毛利氏は一転して富田城に迫ります。『森脇覚書』や『陰徳記』によれば、4月17日の富田城総攻撃において杉原盛重、南条宗勝、山田重直ら伯耆衆も小早川隆景の下で菅谷口合戦に参陣しています。

〇永禄9年(1566)1月25日

 山田氏は、毛利氏から出雲守の受領名を与えられています。

  受領 出雲守

  永禄九年正月廿五日 山田〔平三左衞門尉〕あて毛利元就受領書出写(『新鳥取県史』809)


ある戦国武将の生き様から因伯の戦国時代をみる(第1回)

 中世城館再調査事業の第1期は、16世紀前半から後半(大永、天文年間から天正年間)の因幡・東伯耆について、国人領主の武田高信・南条宗勝を主役に、外部勢力との関係性や関連城郭を考古学、文献史学の両面から調査研究から明らかにしていこうとする取組みで、令和元年度の因幡から初めて、今年度は因幡と東伯耆に取り組んでいます。

 この間を通じ、武田高信・南条宗勝をはじめ、出雲尼子氏、但馬山名氏、安芸毛利氏とすべての中心人物に関わりがあった人物、武田家・南条家の重大事件の当事者にもなっていた人物、発掘調査で注目を集めている気多郡の狗尸那城のほか鹿野城や荒神山城にも関わりがある人物がいました。

 東伯耆の山田重直です。現在の北栄町、久米郡北条郷山田荘にあった嶋村の堤城が本拠です。

 『新修鳥取市史』に山田重直の一代記ともいうべき「山田氏覚書」が掲載されていますが、『因伯の戦国城郭-通史編』で「史実把握に問題を残している」と指摘されるなど無批判に受け入れることができません。

 今回は『新鳥取県史』の一次史料を中心に、山田重直の居所と行動、その背景を考えながら、この時期の因幡、東伯耆を当事者の視点で通史的に見て行くことで、これまでとは違った歴史が見えてくるのではないかと考えています。

 第1回は、山田重直が初出する天文12年(1543)から永禄5年(1562)まで、出雲尼子氏に本貫地を追われ、但馬山名氏の庇護を受けながらようやく故地に帰還するまでです。

 新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、現地イベンの実施を見合わせざるを得ない状況が続いています。

 こうした中だからこそ、調査研究の進捗をあげる努力をして、紙上・ネット上で少しでもその成果を皆さまにお届けしていきたいと思います。

 〇天文12年(1543)8月10日

 但馬守護の山名祐豊は因州(因幡)で敵対するのは布施天神山(因幡守護所)一城なので、近日中にこれを落着させる予定であり、尼子氏のために伯州を退去させられていた国衆たちを帰国させるとしています。

雲州表大内陣旅退散、不及是非題目候、雖然重可有出張候由、大弐(大内義隆)返札到来候、至芸州被差上、啓勢之由候、如前々相談国中、対義隆(大内)馳走簡要候、次因州之儀、(高草郡)布施一城候間、近日可有一途候、伯州取退候輩令入国候、旁不日可発向候、可得其心候、猶太田垣加賀守可申候、恐々謹言、 (天文十二年)八月十日 上山加賀守(実広)あて山名祐豊書状写(『新鳥取県史』621)
  この当時、因幡を分国化するため約30年にわたり因幡山名氏(当時の因幡守護は山名誠通(久通))と戦っていた但馬山名氏(当時の但馬守護は山名祐豊)と、山名久通から支援を求められ東進をねらう出雲尼子氏(当時の出雲守護は尼子晴久)との間で因幡の覇権争いが行われていましたが、尼子晴久が周防の大内義隆の出雲侵攻で富田城に籠城戦していた隙に乗じ、義隆と結ぶ山名祐豊は因幡に攻勢をかけていました。
 『山田氏覚書』(以下『覚書』)には伯耆国久米郡北条郷堤城主の山田氏は、尼子勢力が伯耆に及ぶと本貫地を離れ、山名祐豊のもとで本領の回復を図り、その間、長田を名乗っていたとあります。「伯州を退去していた輩」の中には、この山田氏(長田氏)も含まれていたと考えられます。

 〇天文13年(1544)11月27日

 「豊延」が長田氏に対し気多郡勝部郷内に所領を宛がっています。

 因幡国気多郡勝部郷□□分之内□□、同郷之内長田因幡名、同郷之内中馬□□等之事、為給分充□〔行〕者也、早守先例可令知行之状、如件、 天文拾三年十一月廿七日 長田又五郎あて豊延書状写(『新鳥取県史』 627)
 『覚書』では尼子氏撃退戦の軍功によって山名家から同所領を与えられたとしています。
 相屋(青谷)郷内には但馬領が認められ、「豊」は但馬山名の通字と考えられるので、但馬山名に属していた長田氏に対して、但馬所縁の人物から同地が宛がわれたものと考えられます。

 〇天文15年(1546)6月28日

 但馬山名氏と出雲尼子氏による橋津川合戦で尼子豊久が討死しています。長田氏も山名方で参陣しています。

 豊久 兵部少輔 新四郎 天文十五年六月廿八日 伯州真野山ニテ討死(『戦国大名尼子氏の伝えた古文書』所収「佐々木系図」)月山源心居士雲州尼子兵部少輔殿 天文十五年六月廿八日」(『出雲尼子史料集 』所収「尼子氏過去帳写」)

 但馬山名氏と出雲尼子氏による最終決戦が天文15年に伯耆の橋津川で行われ、但馬山名氏が勝利します。
 これ以降、但馬山名氏は因幡山名氏を没落させ因幡を傀儡化(実質領国化)します。
 『覚書』、『陰徳記』、『伯耆民談記』などでは、天文9年に伯耆橋津川で伯耆衆を支援する山名氏と尼子氏が戦ったとされ、山名方では武田山城守のほか南条氏や山田(長田)氏ら伯耆衆の名前も見られ、尼子方では尼子国久・豊久父子の名前が見られます。尼子晴久が毛利元就を攻めた郡山合戦が天文9年で、尼子方として伯耆南条(『郡山籠城日記』)や尼子国久(『陰徳記』)も従軍していることや、橋津川合戦に参陣した尼子方の尼子豊久が天文15年6月28日に死没している(『佐々木系図』)ことなどから、橋津川合戦は天文15年のものと考えられます。
 なお、長田氏はこの頃、又五郎から平三左衛門尉に改めています。

 〇天文16年(1547)4月28日

 実質上の因幡守護山名豊定が長田氏に対し気多・法美郡内に所領を宛がっています。

 因幡国気多郡相屋郷内興禅寺分三町、同郷内長田因幡名、法美郡中郷之内栗原分四町但三ケ所共為但州領間可有其次也、・(気多郡)勝美〔見〕郷内道蓮名地利本役共、為給分宛行訖、早守先例可致知行之状如件、 天文十六年卯月廿八日 長田平三左衛門尉(山田重直)あて山名豊定宛行状写(『新鳥取県史』639)
 山名久通の没落後に、因幡支配のために実質的な守護として山名祐豊の弟豊定が派遣されており、知行地給付を通じ長田氏を配下に置いていたことが確かめられます。なお、『因幡民談記』では、豊定は久通の遺児賢明丸の後見として迎えられたとしています。

 〇永禄4年(1561)3月3日 ※永禄3年とする説(『因伯の戦国城郭-通史編』(以下『通史編』))もあります。

 但馬守護の山名宗詮(祐豊の入道号)が私部表合戦での長田氏の功を賞しています。

 □〔去〕月廿六日於(八東郡)私部表合戦之時、無比類之動尤神妙、弥忠節簡要候也、猶乃木・徳丸・福田可申候、謹言、

 三月三日 長田平三左衛門尉(山田重直)あて山名宗詮(祐豊)感状写(『新鳥取県史』670)
 永禄3年3月の山名豊定死没後に、因幡守護を擁立することなく、引き続き山名宗詮の嫡男山名棟豊が因幡に派遣されたことなどから、南因幡は但馬山名勢に敵対する動きをみせます。私部表合戦のほか智頭表合戦や若桜表合戦もその現れだと考えられます。
 これらの合戦に当時但馬山名に属していた長田氏も従軍していました。

 〇永禄4年(1561)9月13日 ※年次不明とする説(『通史編』)もあります。

 「源五郎信実」が智頭表合戦での長田氏の功を賞しています。

 武田家の通字「信」、因幡武田家の五郎に因む通名からも、信実は因幡武田の一族と考えられます。

 『覚書』にも、天文15年から弘治元年の間、山名家武田勢に属して軍功を励み、山名武田両氏から感状数通を与えられたとされています。
 此間疵如何候哉、承度候、寔去三日(智頭郡)智頭表合戦、被突鑓御高名之条、無比類候、数ケ所へ手何も浅疵候、先以可然候、向後弥御粉骨専一候、恐々謹言、 九月十三日 長田平三左衛門尉(山田重直)あて源五郎信実書状写(『新鳥取県史』673)

 〇永禄4年(1561)10月4日

 但馬守護の山名宗詮(祐豊)が若桜表合戦での長田氏の功を賞しています。

 去七月廿五日(八東郡)若桜表合戦之時、突鑓之条、尤神妙、猶乃木・徳丸・福田可申候也、謹言、

 十月四日 長田平三左衛門尉あて山名宗詮(祐豊)感状写(『新鳥取県史』674)

 〇永禄5年(1562)10月19日 ※『新鳥取県史』は宗詮と重直の関係から永禄5~6年と推定、『通史編』は5年に比定。

 但馬守護の山名宗詮(祐豊)は山田氏の伯耆表での苦労をねぎらっています。

 於其表昼夜辛労之由候、弥馳走肝要候、猶徳丸備後入道・宮美濃守可申候、恐々謹言 十月十九日 山田平三左エ門尉(重直)あて山名宗詮(祐豊)書状写(『新鳥取県史』712)

 永禄5年7月に毛利氏は出雲の尼子氏へ侵攻をはじめ、この頃には伯耆の尼子勢力も一層され、毛利氏が制圧する所となり、南条氏や山田氏(長田氏から改称)も伯耆に帰還します。

 〇永禄5年(1562)10月20日

 (毛利氏から東伯耆の経営を任された南条氏から)山田氏に八幡領などが安堵されたこと、事情を但馬山名氏に説明することについて、毛利氏が了承しています。

 伯州東郡(久米郡)八幡領五百石地并(河村郡)福王寺五拾石地之事、如前々可有御裁判之由承候、得其心候、至但州注進申候、不可有疎意候、恐々謹言、 (永禄五年ヵ)十月廿日 山田平三左衛門尉(重直)あて毛利元就書状写(『新鳥取県史』684)

 八幡領は山田氏の太祖が岩清水の八幡を此所に勧請し宮鎮座の地によって八幡と称して来た(『伯耆民談記』)もので、山田氏の本貫地になります。
 山田氏は本貫地への帰還に必要な基盤の安堵と引き換えに、出雲に出陣中の毛利氏に従うことになりますが、伯耆から退去し流浪中に庇護を受け恩のある但馬山名氏からの離反と受け取られることを心配しています。
  

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 久松山地域は戦国時代以降鳥取城が築かれ、鳥取藩32万石の中心地でした。現在でもこの地域は県庁があり、行政の中心地となっています。

 しかし、戦国時代から遡ること約800年前の奈良時代、県庁から4キロほど離れたこの国府町に国史跡因幡国庁(現在の県庁にあたるもの)がありました。今ではひっそりとした田園地帯ですが、因幡三山(甑山(こしきやま)、今木山(いまきやま)、面影山(おもかげやま))に囲まれ、当時の面影を残す万葉の歴史と古代の出土品にあふれた万葉の里となっています。
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