当サイトではIE10未満のブラウザがご利用いただけません。Browsers with IE10 less can not be used on this site.
埋蔵文化財センターのホームページ
 サーバのメンテナンスのため、9月21日(土) 0時~23日(月)18時の間、とりネットの一部コンテンツがご利用いただけません。詳細は、お知らせをご覧ください。

不思議なかたちの甑(こしき)形土器~鳥取市大桷遺跡

 

「山陰型甑(こしき)形土器」は弥生時代後期前半(1世紀頃)に鳥取県西部から島根県東部の地域で出現し、弥生時代後期後半以降古墳時代中期(5世紀頃)にかけて、山陰地方の集落遺跡を中心に北陸、近畿、瀬戸内地域など幅広く分布する土器です。

多くは上に向かってすぼまる円筒形で、把手(とって)が一対または二対付き、その把手の内側部分に擦れた痕跡をとどめているものがあるので、縄のようなもので吊るして使われたのではないかとも推測されています。大きさには大小があり、大小ふたつの土器が上下に連なって出土する例もありました。
ただ、「甑形土器」とは言いながら、実際の用途はよく分かっていません。

大桷遺跡でも竪穴建物跡と土坑からそれぞれ出土しました。

土坑で見つかった甑形土器は、真ん中あたりがふっくらとしたちょっと珍しいかたちをしています。高さが73cmあり、二対の把手が上はヨコ向き、下はタテ向きに付いています。古墳時代中期前半(5世紀)のものです。

具体的な使い方はいまだに分かりませんが、弥生時代後期後半の例では、竪穴建物5棟程度で構成されるグループに1個、しかも、この土器を持つグループと持たないグループがあることが想定できるので、少なくとも日常的に使う土器ではなかったのではないかと思います。

                               大桷遺跡から出土した甑形土器

元祖。土のう(鳥取市本高弓ノ木遺跡)

 

「本高弓ノ木(もとだかゆみのき)遺跡」では、縄文時代から古墳時代まで実に多彩な遺構や遺物が見つかりました。

今回、ご紹介するのは、調査区の南側で見つかった「4落ち込み」と呼んでいる遺構で出土した古墳時代初め頃(3世紀後半頃)に積まれた「土のう」。「発掘!因幡の遺跡展」でも展示します。

この「4落ち込み」は、弥生時代後期から古墳時代前期にかけて約100年以上にわたって機能していたようですが、有富川の大水によって、何度も大規模な改修工事が行われていることが分かりました。「土のう」は、その土木工事の際に積まれているものです。

「土のう」は、粘質の土をイネ科の植物の茎や葉を素材にした網組製品にくるみ、ひもで横に縛って固定されていて、ひもの結び目もはっきり残っていました。

遺跡出土の「土のう」は、古墳の盛り土を中心に全国で10例あまりが知られていますが、そのほとんどが6世紀以降のもの。3世紀中頃までさかのぼるこの「本高弓ノ木遺跡」出土の「土のう」は、「元祖、土のう」とでも言えそうな国内で最古のものです。

なんて便利な「かまど」なのかしら!(鳥取市高住牛輪谷遺跡ほか)

 
 
「山陰道」の一部となる「鳥取西道路」(鳥取道鳥取ICから山陰道青谷ICまでの19.3km)の建設に伴う発掘調査では、これまで知られなかった原始古代の因幡地方の特色がさまざまな出土品で分かってきました。

今回ご紹介するのは、ふた口かまど。「発掘!因幡の遺跡展」でも展示します。
古墳時代後期(6・7世紀)の移動式のかまどなのですが、本体のかまどにやや小型のかまどが付属する全国的にも他に例がないかまどです。

日本海の入海が潟湖化した湖山池の南岸にある、東から東桂見遺跡、高住牛輪谷遺跡、高住平田遺跡、高住宮ノ谷遺跡そして良田平田遺跡から出土したので「湖山池南岸型移動式かまど」と呼んでいます。

つくり方の手順は、
・まず本体のかまどを粘土紐を積み上げていって成形
・本体のかまどをつくったのち、付属するやや小型のかまどを貼り付ける部分をくり抜く
・小型かまどを取り付ける外面の左右に断面が楕円形の粘土棒を縦に貼り付け
・粘土棒に取り付けるように粘土紐を積み上げて付属するかまどを作成
・附属するかまどにつく庇(ひさし)は、最上段まで粘土紐を積み上げて成形するときにあわせて成形、というものです。

大きさは、本体かまどの底部の直径が40cm前後、小型かまどの口径が25cm前後、高さが35cm程度あります。小型かまどの位置は、本体かまどの左右どちらかに決まっていたわけではないようです。

本体のかまどと付属するかまどでどのような使い分けをしていたのかは分かりませんが、付属するかまど部分も本体かまどほどではありませんが、熱をうけ、煤も付着しています。
今では、ふた口コンロなんて当たり前。IHクッキングヒーターなどでは三口もあってそれは便利です。
同じように、当時の湖山池南岸地域に暮らしていた人々にとっては、一度に二種類の煮炊きができるこのかまどは、調理革命ともいうべき「画期的」なかまどだったのではないでしょうか。
にもかかわらず、この地域でのみ多く使われ、その他の地域では見つかっていない、というのもなぜなのか興味があるナゾですね。

どんなひとが座ったのかな?(鳥取市青谷町青谷横木遺跡)

 
今回は、青谷横木遺跡(鳥取市青谷町)で出土した「腰掛(こしかけ)」をご紹介します。「発掘!因幡の遺跡展」でも展示の予定です。

青谷横木遺跡では、2脚の「腰掛」が出土しています。
上の画像の「腰掛」は、スギ材を横木取りしてつくっていて、ゆるく弯曲した長方形の座面の両端には、把手(とって)がつくり出されています。古墳時代中期(5世紀)以前のものです。

大きさは、座面の長さが40.2cm、幅が17.3cm、そして高さが11.8cmありますが、脚台となる部分は底が平らではないので、本来の底は欠損している可能性もあります。

下の画像の「腰掛」は、モミ属の材を横木取りしてつくられた精製品です。古墳時代前期(3世紀後半から4世紀)のもの。
弯曲する座面は、長さ34.8cmの楕円形をしていて、高さが17.2cmある脚がつくり出されています。両側の脚の間は、断面が菱形(ひしがた)の横棒でつながっています。

こちらの「腰掛」は、座面の中央2ヶ所に四角い穴が開けられ、そこには樺の樹皮によるひもが残っていました。
半分に割れてしまった「腰掛」を樺の樹皮でしばることで修理しようとしたのでしょう。

そうすると、本来、脚は4つあったことになりますが、ほぼ同じかたちの「腰掛」が、弥生時代終り頃から古墳時代初め頃(3世紀)の遺跡である鳥取市鹿野町の乙亥正屋敷廻(おつがせやしきまわり)遺跡からも出土していることが注目されます(乙亥正屋敷廻遺跡は発掘調査報告書を作成中)。

当時の人々は、地べたに座るかしゃがむのが習慣でした。
そのため、こうした「腰掛」は特別な地位や役割をもっていた人が、「まつりごと(政・祭事)」など特別な行事の際に使用したのではないか、と考えています。

青谷横木遺跡(鳥取市青谷町)で出土した「腰掛」青谷横木遺跡(鳥取市青谷町)で出土した「腰掛」

海を渡ってきた鉄の斧(大山町殿河内ウルミ谷遺跡)

 
  • 遺跡の場所 西伯郡大山町殿河内
  • 遺跡の時代 古墳時代中期から飛鳥時代(5世紀から7世紀)
  • 発掘調査した機関 鳥取県埋蔵文化財センター
  • 「お宝」の保管場所 鳥取県埋蔵文化財センター
  • この遺跡は、中国地方最高峰「大山」の裾野がもっとも日本海に張り出した位置にあり、裾野が長い年月の水流で削られてできた谷間に遺跡が広がっていました。その低地部分と谷の西側斜面に飛鳥時代に造成されていた平坦面を中心とした場所から、鍛冶に関する遺物のほか鉄製品が30点近く出土。その中には、朝鮮半島製とみられる鍛造(熱した鉄素材をつちで打ちながら形を整えて製品化していく方法)の鉄斧(刃の部分が左右に張り出すかたちから「有肩鉄斧」と呼びます)が2点(画像左側の下から二点目とその右斜め上)と、鍛造品の素材と考えられる棒状の鉄製品(画像中央、有肩鉄斧の右隣り)が含まれています。いずれも錆の進行は進んでいるものの、鉄本来がとても良好に残っていました。谷の水分が酸素をさえぎるいわば「真空パック」の環境にあったため、と思います。有肩鉄斧は古墳時代中頃(5世紀)のもので、当時、朝鮮半島からもたらされたと考えています。山陰地方で弥生時代以来続く、朝鮮半島との交易を物語る貴重な「お宝」です。                     殿河内ウルミ谷遺跡で出土した鉄製品

須恵器を焼いていた窯の痕跡(大山町殿河内ウルミ谷遺跡)

 
  • 遺跡の場所 西伯郡大山町殿河内
  • 遺跡の時代 古墳時代終末期から平安時代(7世紀から9世紀)
  • 発掘調査した機関 鳥取県埋蔵文化財センター
  • 「お宝」の保管場所 鳥取県埋蔵文化財センター
  • 中国地方最高峰「大山」から延びる丘陵と丘陵の間にできた谷間にある遺跡です。ほ場整備が行われたときに造成した土の中から、溶着したり変形した須恵器や窯滓(高温によって溶けた粘土の塊で須恵器の破片が付着)などの須恵器を焼いた窯に関連する遺物が大量に出土しました。須恵器の大半は古墳時代終末期(7世紀)のもので、この100年近い期間は前半期を中心に継続して須恵器を窯で焼いていたようです。また、その後も、断続的に奈良・平安時代にかけて須恵器を焼いていました。伯耆地域では、これまでに東伯耆で鳥越山窯跡群(倉吉市/6世紀後半~7世紀前半、8世紀)、西伯耆ではこの遺跡の西0.4kmにある下市築地ノ峯東通第2遺跡(大山町/9世紀後半)などが発掘調査されています。今回の調査成果から、西伯耆では、この遺跡や下市築地ノ峯東通第2遺跡がある大山山ろく一帯で、古墳時代終末期から平安時代中期にかけて須恵器づくりが行われていたのでは、ということが分かってきました。             殿河内ウルミ谷遺跡で見つかった須恵器の窯跡関連資料 

山陽へ越える要路を見下ろす前方後円墳(日南町霞17号墳)

 
  • 遺跡の場所 日野郡日南町霞
  • 遺跡の時代 古墳時代前期末から中期前半(4世紀から5世紀)
  • 発掘調査した機関 (財)鳥取県教育文化財団(2000)
  • 「お宝」の保管機関 日南町教育委員会
  • 眼下に日野川を見下ろし、山陽地方へと越える中国山地の峰を望む尾根に造られた日野郡域では最古の前方後円墳です。全長は20m。葺石が葺かれ、尾根の先端(西)側に後円部を向け、後円部に竪穴式石室、その南隣とくびれ部に箱式石棺がそれぞれ1基ありました。このうち、竪穴式石室からは倭で造られた鏡(内行花文鏡)が1枚、ヒスイ製の勾玉3個とガラス製の勾玉1個、鉄刀1本、鉄剣1本、鉄鏃(やじり)2本、土師器の高杯1個などが出土。死者とともに副葬された遺物です。また、竪穴式石室の隣にある箱式石棺からは、ヒスイ製の勾玉1個と刀子と思しき鉄製品の破片が、もうひとつの箱式石棺からも鉄製の刀子1本が出土しています。竪穴式石室に副葬されていた鏡は、何度も何度も人の手で触られたらしくすっかり文様が磨り減っていました。古墳は町の希望で移築され、出土品も町で大切に保管されています。                                       霞17号墳霞17号墳の竪穴式石室霞17号墳出土勾玉霞17号墳出土の青銅鏡霞17号墳出土の鉄刀と鉄剣

古墳時代の「大山さん」信仰?(伯耆町越敷山古墳群金廻地区)

 
    • 遺跡の場所 西伯郡伯耆町金廻
  • 遺跡の時代 古墳時代中期(5世紀)、後期(6世紀)
  • 発掘調査した機関 (財)鳥取県教育文化財団(2011-2012)
  • 「お宝」の保管機関 鳥取県埋蔵文化財センター
  • 越敷山古墳群は、鳥取県西部にある越敷山丘陵に分布する古墳群で125基の古墳が見つかっていますが、発掘調査されたのは今回が初めてです。金廻地区は越敷山丘陵から枝分かれした尾根の上にあり、このうち10基が発掘調査されました。その結果、中期前葉頃に造られた121号墳を端緒に、その後、尾根頂部の51号墳から後期前葉の75号墳まで尾根を下方に向かって順序良く造られ、再び尾根頂部に戻って99号墳が築造されました。埋葬施設は1基を除き箱式石棺で、概ね東向きに頭を置いて埋葬されていたことが分かります。この古墳群から東の方向には中国地方最高峰の大山(標高1729m)が望めるので、大山をかなり意識して埋葬されたことが伺えるのが大きな特徴です。副葬品で注目されるのは、51号墳の埋葬施設1(画像中段右、左は49号墳の埋葬施設)からのもの。鉄剣、鉄刀、鉄鉾、鉄斧の他、管玉、勾玉、櫛と豊富な副葬品が出土しました。中でも鉄鉾は朝鮮半島(百済・伽耶)系のものとみられ、この石棺に葬られた人物が地域の有力者だったことを物語ります。越敷山古墳群(金廻地区)から望む大山49号墳人骨出土のようす51号墳埋葬施設1出土の人骨51号墳埋葬施設1出土副葬品51号墳埋葬施設1出土の副葬品

いつまでたっても「ナゾ」の土器(北栄町中浜遺跡)

 
  • 遺跡の場所 東伯郡北栄町弓原
  • 遺跡の時代 古墳時代前期(4世紀)
  • 発掘調査した機関 (財)鳥取県教育文化財団(2004)
  • 「お宝」の保管機関 鳥取県埋蔵文化財センター
  • この土器は一般的に「山陰型甑(こしき)形土器」と呼ばれる円筒形をした土器です。弥生時代後期後半(1800年前頃)に西伯耆(鳥取県西部)または出雲 (島根県東部)で出現し、その後、山陰地方を中心に四国、近畿、北陸地方などに分布が広がり、おもに集落遺跡の竪穴住居跡から出土することが特徴です。円筒の外側には取っ手がつくものが多いですが、その取っ手も円筒がすぼまった方に一対だったり、広がった方にもついたり、さらに、取っ手の向きも縦だったり横だったりとバラエティーがあります。すべての集落遺跡、竪穴住居跡で出土するわけではないので、日常的に使われた土器ではないことはまず間違いないのですが、では何のための土器なのか?というナゾは最初の発見から半世紀近く経つ今も分かりません。中浜遺跡の竪穴住居跡からは3個出土し、これはひとつの住居跡からの出土数としては最多です。ナゾを解く鍵はどこにあるのか、この遺跡での出土の仕方や数にもヒントがあるのか、興味が尽きない「お宝」です。
    山陰型甑(こしき)形土器(北栄町中林遺跡出土)

箆津乳母ヶ谷第2遺跡~古代びとの玉飾り~

 
  • 遺跡の場所 東伯郡琴浦町大字箆津(のつ)
  • 遺跡の時代 古墳時代終末期(7世紀)
  • 発掘調査した機関 鳥取県埋蔵文化財センター(2007)
  • 「お宝」の保管機関 鳥取県埋蔵文化財センター
  • 箆津乳母ヶ谷第2遺跡は、中国地方最高峰「大山」から延びる丘陵の先端近くにある遺跡です。斜面をテラスや段のように掘削、盛土して平坦地をつくり、そこに竪穴建物などを建てていました。このうち、竪穴建物6(b)の床から首飾りのように身につけていたかのまとまり方で29点の玉類が見つかりました。内訳は、めのう製の勾玉4点、碧玉製の勾玉1点、管玉4点、丸玉2点、緑色凝灰岩製の管玉1点、水晶製の丸玉4点、濃い紺色をしたガラス小玉4点、スカイブルーのガラス小玉9点。このうち、めのうと碧玉は島根県松江市の花仙山産と考えています。古墳時代の終り頃、県内でこれまで出土した玉類の多くは古墳からのもので、竪穴建物跡からの出土はこれで3例目です。この時代は、地方でも古代寺院が作られ始める時期。まさに時代の分かれ目です。そうした時代に生きた人々の玉飾りにはどのような想いや意味がこめられていたのかを考えるうえで貴重な「お宝」です。  
                                                                                箆津乳母ヶ谷遺跡出土の玉類(東伯郡琴浦町)箆津乳母ヶ谷遺跡出土の玉類(東伯郡琴浦町)                         

笠見第3遺跡~古墳時代の鍛冶屋さん~(東伯郡琴浦町)

 
  • 遺跡の場所 東伯郡琴浦町大字笠見
  • 遺跡の時代 古墳時代中期(5世紀)
  • 発掘調査した機関 鳥取県埋蔵文化財センター(2006)
  • 「お宝」の保管機関 鳥取県埋蔵文化財センター
  • 笠見第3遺跡は、中国地方最高峰「大山」から延びる丘陵にある集落遺跡です。遺跡の西側から古墳時代中期の鍛冶炉と鍛冶をする工人の「足入れ穴」ではないかと推定する土坑(穴)、それに鍛冶作業の際の「鉄床石の設置穴」の可能性がある土坑が、南北約5m、東西約3mの範囲で見つかりました。ムラからは離れた場所にあるので鍛冶専門の工房跡と考えています。弥生時代の鍛冶は、鑿(のみ)で切ったり折り曲げる加工をするといった低温でもできるものでしたが、この頃には高温での鍛冶作業ができるようになり、高温での鍛接から低温での素延べ成形にいたるまでの作業が一連で行われていたことが分かりました。鍛冶遺構から出土した鍛造品の破片だけで7kgを超える量があるので、笠見第3遺跡のムラの中だけで使われる小型農耕具づくりにとどまらず、より広域に流通する鍛造鉄器を製作していた可能性もあります。古墳時代中期の鉄鍛冶工人の技術を知る上で貴重な「お宝」です。
                                                           笠見第3遺跡で見つかった鍛冶炉(東伯郡琴浦町)笠見第3遺跡から出土した鍛冶関連遺物(東伯郡琴浦町)

里仁32号墳出土の「因幡型」円筒埴輪(鳥取市)

 
  • 遺跡の場所 鳥取市里仁(さとに)
  • 遺跡の時期 古墳時代前期(約1750年前)
  • 発掘調査した機関(年度) (財)鳥取県教育文化財団(1984)
  • 「お宝」の保管機関 鳥取市教育委員会
  • 埴輪は、古墳の上を何段にも囲むように立て並べられるのが一般的な使い方ですが、里仁32号墳では第3号埋葬施設で「棺(ひつぎ)」として使われていました。円筒埴輪を「棺」として使用することもまた珍しいことではありません。この埴輪が特異なのは、ふつうの円筒埴輪であればまさに「筒」のようにまっすぐ立ち上がって大きな口をあけているのですが、この埴輪では上部がドーム状にすぼまって、その上に断面が「く」の字になる口縁部が取り付いている点です。こうしたかたちの円筒埴輪は因幡地域と丹後地域の一部からしか出土しないローカル色豊かなものであることから、「因幡型」円筒埴輪と呼ばれています。本例はその「因幡型」円筒埴輪の初めての発見例です。しかも、両サイドには「鰭(ひれ)」と呼ばれる四角い突起もつきます。数少ない「因幡型」円筒埴輪の中で「鰭」がつくのはこの埴輪だけということで、二重の意味で「お宝」なのです。
     

  • 里仁32号墳出土の「因幡型」円筒埴輪(鳥取市)里仁32号墳出土の「因幡型」円筒埴輪(鳥取市)里仁32号墳出土の「因幡型」円筒埴輪の実測図

センター紹介

県の中心部は、室町時代の後期は湖山池ほとりの天神山に守護所が置かれ、江戸時代の前からは久松山(麓)に城が置かれるようになり、明治時代から現在まで県庁が置かれています。県庁から4キロほど離れた国府町に奈良時代の国史跡の因幡国庁跡があります。今ではひっそりとした田園地帯ですが、因幡三山(甑山(こしきやま)、今木山(いまきやま)、面影山(おもかげやま))に囲まれ、万葉の歴史と古代の出土品にあふれた万葉の里に埋蔵文化財センターはあります。

イベント,講座,施設見学,資料調査等のお申込み


埋文センターの事業


埋文センターについて


目的から探す


関係先へのリンク