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妻木晩田遺跡とは?

中国地方の最高峰・大山の麓に甦った弥生時代の国邑、それが妻木晩田遺跡です。
 遺跡のひろがりは鳥取県米子市・西伯郡大山町にまたがる晩田山丘陵全域におよび、弥生時代に大山山麓に存在したであろうクニの中心的な大集落であったと考えられます。
 現在、全体のおよそ1/10が発掘調査されています。その結果、弥生時代中期末(西暦1世紀前半)~古墳時代前期(3世紀前半)にかけての、竪穴住居跡420棟以上、掘立柱建物跡500棟以上、山陰地方特有の形をした四隅突出型墳丘墓などの墳墓34基や、環壕など、山陰地方の弥生時代像に見直しをせまる貴重な資料がたくさん発見されました。

妻木晩田のムラの移り変わり

 妻木晩田遺跡に人々が住みはじめるのは、弥生時代中期末頃(西暦1世紀前半)です。
 弥生時代後期初頭(1世紀中頃)になると、洞ノ原西側丘陵に環壕が掘られ、洞ノ原東側丘陵に四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)がつくられます。このとき、妻木晩田遺跡に住んだ人々は、ここから東に700mほど離れた妻木新山地区、妻木山地区、松尾頭地区に住まいを構えました(図1)。
 その後、ムラの人口が増えるにつれて住まいの範囲は広がっていき、妻木晩田遺跡が最盛期を迎える弥生時代後期後葉(2世紀後半)には、住まいの範囲が遺跡全体に広がります(図2)。この時期をさかいに、妻木晩田のムラは少しずつ衰えていき、古墳時代の初め頃には住まいがほとんど見られなくなるのです。

図1:後期前葉(1世紀中頃)

図2:後期後葉(2世紀前半) 弥生のムラのかたち