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木簡~板に書かれた古代の文字記録(鳥取市青谷町青谷横木遺跡)

 
木簡とは、おもに古代において、紙より入手がしやすく割れにくい木の板に墨で文章などを書いたものです。

 

青谷横木遺跡では81点の木簡が出土しました。
鳥取県内では最多の出土点数で、都城(藤原京や平城京などの古代の都)や大宰府、多賀城を除く地方の古代遺跡からの出土点数としても、栃木県の下野(しもつけ)国府跡や山口県の長登(ながのぼり)銅山跡など10の遺跡に続く点数を誇ります。
いずれの遺跡でも、木簡が水に浸かり空気を遮断した、いわば、真空パックの状態にあったので、現在まで残っていたのです。

 

このうち、今回ご紹介する41号木簡(画像1枚目と2枚目)と43号木簡(画像3枚目と4枚目)は、7世紀末か8世紀初めまでさかのぼるもので、誰か(個人)を何かの理由、事情があって、公の施設に呼び出すことを目的とした「召文木簡」と呼ばれるものです。
呼び出された人が、青谷横木遺跡にあった公的な施設までこの木簡を持参して、廃棄したので出土したというわけです。

 

すなわち、これらの木簡の出土から、この地における地方支配の拠点施設が、律令期以前の「評」から以後の「郡」に至るまで継続的に存続していたことがうかがわれます。

 

他方、22号木簡(画像5枚目と6枚目)は、8世紀ないし9世紀のもので、こちらも同じく「召文木簡」です。

 

つまり、この3枚の木簡の出土により、7世紀末から9世紀頃まで100年以上に渡り、青谷横木遺跡に地方支配の拠点となる施設が存続し続けたことが推定できるという意味でも、また貴重な木簡と言えるのです。

 

〈発掘調査報告書に寄稿いただいた国立文化財機構奈良文化財研究所の渡辺晃宏さん「出土文字資料からみた青谷横木遺跡」に多くを依拠させていただきました。〉

41号木簡(青谷横木遺跡出土)41号木簡裏面(青谷横木遺跡出土)43号木簡(青谷横木遺跡)
43号木簡裏面(青谷横木遺跡)22号木簡(青谷横木遺跡)22号木簡(青谷横木遺跡)

圧巻!古代の祭祀具(鳥取市青谷町青谷横木遺跡)

 
今年春以降に発刊する発掘調査報告書から。

今回は青谷横木遺跡で出土した古代の木製祭祀具をご紹介します。

7世紀末から8世紀初めに中央集権的な国家制度が整う中で、「大宝令」と「延喜式」で定められたのが律令的祭祀とよばれる祀りごとです。
古代に行われたこの祭祀は、藤原京や平城京、長岡京、平安京などで執り行われた国家的なものと、地方へ波及して各地で行われたものがありますが、青谷横木遺跡では、地方としてはかなり大規模な祭祀が行われていたようです。
それは、兵庫県豊岡市の袴狭(はかざ)遺跡群とならぶ、約22,500点もの膨大にして各種の木製の祭祀具の出土が物語っています。

出土した木製祭祀具は、人形(ひとがた)のほか、馬形、牛形、鳥形といった動物形、舟形、刀形、剣形、鏃(やじり)形などの武器形、刀子(とうす)形や斧形の工具形、鎌柄形、エブリ形の農具形、琴柱(ことじ)形、勾玉形、斎串(いぐし)で構成されていて、律令祭祀具のほぼすべての道具立てがそろっています。

こうした律令祭祀具は、悪霊や穢(けが)れを払う祭祀のほか、土地の神へのお供えなども目的として使われたようです。
青谷横木遺跡(鳥取市青谷町)で出土した古代の木製祭祀具。

平安時代の鍛冶屋さん(大山町殿河内ウルミ谷遺跡)

 
  • 遺跡の場所 西伯郡大山町殿河内
  • 遺跡の時代 平安時代中頃(10世紀から11世紀初め頃)
  • 発掘調査した機関 鳥取県埋蔵文化財センター
  • 「お宝」の保管場所 鳥取県埋蔵文化財センター
  • この遺跡は、中国地方最高峰「大山」の裾野がもっとも日本海に張り出した、丘陵と丘陵にはさまれた谷部にありました。この遺跡からは飛鳥時代(7世紀)と平安時代の鉄鍛冶に関連する遺物が出土しましたが、うち平安時代のものは総量が約821kgもの量があります。こうした出土量から近くに精錬鍛冶炉があるものと考えています。おもな遺物は炉壁(精錬炉、鍛治炉)、羽口(鍛冶炉への送風管の一部)、鍛冶滓(砂鉄中に含まれる不純物)などがありますが、特徴的なのは「板屋型羽口」というすだれ巻きづくり(図)の大型羽口と、径が30cm前後、重さが25kg程度もあるハート型をした「板屋型椀形鍛冶滓」です。これら遺物の特徴から、この遺跡で行われた鍛冶はそもそも滓を多く含む軟鉄を原料に、滓を取り除くことに特化した精錬鍛冶だった可能性が高いようです。古代伯耆国は鉄の生産国として知られます。この遺跡がある地域は、伯耆国での大規模な鉄生産を支えた中心だった、そのことを物語る「お宝」が今回の出土品です。(画像は1枚目が「板屋型羽口」と「椀形鍛冶滓」、2枚目が「板屋型羽口」、3枚目がそのほかの鍛冶関連遺物、4枚目が「板屋型羽口」の製作工程イラスト)
  • 殿河内ウルミ谷遺跡で出土した製鉄関連遺物
    殿河内ウルミ谷遺跡で出土した製鉄関連遺物


    殿河内ウルミ谷遺跡で出土した製鉄関連遺物板屋型羽口の作り方

烏帽子をかぶったあなたはどなた?(鳥取市高住平田遺跡)

 
  • 遺跡の場所 鳥取市高住
  • 遺跡の時代 平安時代末から鎌倉時代(12~13世紀頃)
  • 発掘調査した機関(年度) (財)鳥取県教育文化財団(2010-2011)
  • 「お宝」の保管機関 鳥取県埋蔵文化財センター
  • この遺跡は日本海の入海が砂丘の形成で閉ざされてできた潟湖(せきこ)「湖山池」の南側にある遺跡です。縄文時代以降、連綿と人々がこの地を生活や生業の場として使ってきたことが分かりました。古代から中世の遺物を含む層からは、全国的にもほとんど例がない立烏帽子をかぶった人物の横顔を表現した「人形代(ひとかたしろ)」が出土しました。眉と呼ばれる前面のへこみや後頭部側に通気のためのすき間(風口)があるなどとても具象的です。でも、立烏帽子は清涼殿(平安京の内裏で天皇が儀式を行う場所)へ上がることができる殿乗人(てんじょうびと)と呼ばれる高貴な人しかかぶることが許されていません。因幡国で該当するのは国守だけ。この地でそんな高貴な人物を見る機会があったとはなかなか考えにくい。烏帽子の特徴を絵巻物と比較して見ると、どうも平安時代の終り頃から鎌倉時代のもののようなので、当時の京の文化に関する情報だけがもたらされたということでしょうか。ナゾの多い「お宝」です。       鳥取市高住平田遺跡から出土した人形代(ひとかたしろ)鳥取市高住平田遺跡で出土した人形代(ひとかたしろ)

はんこ、お持ちですか?(鳥取市高住平田遺跡)

 
  • 遺跡の場所 鳥取市高住
  • 遺跡の時代 平安時代(9世紀頃)
  • 発掘調査した機関(年度) (財)鳥取県教育文化財団(2010-2011)
  • 「お宝」の保管機関 鳥取県埋蔵文化財センター
  • この遺跡は日本海の入海が砂丘の形成で閉ざされてできた潟湖(せきこ)「湖山池」の南側にある遺跡です。縄文時代以降、連綿と人々がこの地を生活や生業の場として使ってきたことが分かりました。今回ご紹介する銅印は水田をつくるため整地した層の中から出土しました。「有孔莟鈕(ゆうこうがんちゅう)」というひもを通す穴があるつまみの型式で、印面が一寸四方で「木」という一文字である特徴から平安時代に使われた私印です。銅印では、西伯郡伯耆町で見つかったものなどに続く県内5例目ですが、発掘調査での出土は初めて。印は、律令体制下では公文書の官印としてしか使用が認められていなかったのですが、その後、寺社や貴族階層に使用が広がり、貞観10(868)年の「太政官符」で私印の使用が正式に認められるようになりました。さて、因幡の地で水運と陸路の接点でもある「湖山池」南側のこの地で、印がいったい誰のものでどのような使われ方をしたのか、あなたならどう推理しますか?            鳥取市高住平田遺跡で出土した平安時代の銅印鳥取市高住平田遺跡で出土した平安時代の銅印

夕焼け小焼けで日が暮れて~山のお寺の鐘を造った?(日南町霞要害跡)

 
  • 遺跡の場所 日野郡日南町霞
  • 遺跡の時代 室町時代(15世紀前半)
  • 発掘調査した機関(年度) (財)鳥取県教育文化財団(1999-2000)
  • 「お宝」の保管機関 日南町教育委員会
  • 中国山地の山間地にあるこの遺跡は、ふもとから40mの高さがある急斜面の山腹を広い平坦地に造成し、かつ日野川を一望のもとに見下ろせる場所であることから、江戸時代の地誌「伯耆誌」に記された「霞の要害」に当る可能性がありました。発掘調査の結果、15世紀前半と16世紀前半の二時期に分かれる遺跡であることが分かり、「要害」とされたのは16世紀代のことのようです。15世紀前半の遺構の中に「土坑7」と呼ぶ一辺2mほどの四角い穴が掘られているのが見つかり、中から梵鐘の鋳型、炉壁、青銅の破片などが見つかり、この時期に梵鐘の鋳造を行った遺構であることが分かりました。出土した竜頭、衝座が島根県安来市の清水寺の梵鐘ととてもよく似ていることから、同じ鋳物師(いもじ、工人の名は友光)が同じ鋳型を修理、再利用しながら清水寺の梵鐘を含む複数個の梵鐘をこの場で造った可能性があります。出土した鋳型と現存する梵鐘との関係が分かる全国でもまれな「お宝」なのです。霞要害跡の梵鐘鋳造遺構霞要害跡の梵鐘鋳造遺構から出土した鋳型など

溝の中に捨てられた古代の坏(伯耆町坂長第7遺跡)

 
  • 遺跡の場所 西伯郡伯耆町坂長
  • 遺跡の時代 飛鳥・奈良時代(7世紀末から8世紀前半)
  • 発掘調査した機関(年度) (財)鳥取県教育文化財団(2006)
  • 「お宝」の保管機関 鳥取県埋蔵文化財センター
  • 遺跡は鳥取県西部、日野川左岸の長者原台地の南端と越敷山丘陵の北端を東西に境する谷にあります。坏(つき)は溝の中、東西7mの範囲から破片で出土していて、そのようすから、8世紀後半から10世紀前半(奈良・平安時代)まで継続して壊し(れ)たものを捨てたか、投げ捨てる際に打ち欠かれたようです。なぜこのような捨て方が100年以上にも渡り行われ続けたのかは不明です。坏は土師器がほとんどで須恵器はわずかな点も特徴です。坏の内外面は基本的にベンガラ(赤い色の顔料)が塗られ、色合いに違いがあることから、複数の産地のベンガラが用いられたこともわかります。さらに、長期間に坏のつくり方に徐々に変化が見られ、底の部分をロクロから切り離すとき、古い時期では「ヘラ切り」、中間の時期では「ヘラ切り→なで」、最も新しい時期ではロクロから切り離す際に糸を使う「糸切り」という手法へと変わっていきます。西伯耆地域における古代の坏の特徴を知ることができる「お宝」です。坂長第7遺跡出土の古代の坏

会見郡衙の官営鍛冶工房(伯耆町坂長第6遺跡)

 
  • 遺跡の場所 西伯郡伯耆町坂長
  • 遺跡の時代 平安時代(7世紀末から8世紀前半)
  • 発掘調査した機関(年度) (財)鳥取県教育文化財団(2007)
  • 「お宝」の保管機関 鳥取県埋蔵文化財センター
  • 坂長第6遺跡は鳥取県西部、日野川左岸の「長者原台地」の上にあります。古代律令制下では「伯耆国会見郡」に属し、この遺跡周辺 が郡衙(郡の中心となる役所)推定地です。調査区南斜面から15の建物跡が見つかり、鍛冶工房以外の鍛冶炉をもたない建物跡からも鍛冶に関係する遺物が見つかりました。北側の台地上には大型の掘立柱建物も見つかったことから、ここが会見郡衙に附属する官営の鍛冶工房であることが分かりました。出土した鍛冶、鋳造関連の遺物は、椀型鍛冶滓、鍛造剥片、鉄製品(釘、小刀、鎌、鍬・鋤先など)、炉壁、羽口、金床石、砥石など580kg、3000点以上。官営の鍛冶工房内で、砂鉄精錬で得られた鋼(はがね)を原材料に、精錬から鍛錬まで一貫した鍛冶を集約的に行っていたことがうかがえる貴重な「お宝」です。
    ふいごの羽口(伯耆町坂長第6遺跡)るつぼ(伯耆町坂長第6遺跡)坂長第6遺跡の鍛冶工房出土の鉄滓

漆を運んだ古代の壺(伯耆町坂長第6遺跡)

 
  • 遺跡の場所 西伯郡伯耆町坂長
  • 遺跡の時代 平安時代(7世紀末から8世紀前半)
  • 発掘調査した機関(年度) (財)鳥取県教育文化財団(2007)
  • 「お宝」の保管機関 鳥取県埋蔵文化財センター
  • 坂長第6遺跡は鳥取県西部、日野川左岸に南北に延びる「長者原台地」にあります。古代の律令制のもとでは「伯耆国会見郡」に属し、この遺跡周辺が郡衙(郡の中心となる役所)推定地です。今回の発掘調査でこの遺跡が郡衙に附属する工房跡だったことが分かりました。そんな坂長第6遺跡からは 「漆(うるし)」が付着した土器が55点出土したのですが、そのうちの8割が長頸瓶(細長い首をもつ瓶)。長頸瓶は生産地から公的な消費地へ「漆」を運ぶ容器だったことがうかがわれます。長頸瓶は1点を除きすべてわざと割られていて、そうすることで中に満たされた「漆」をかき出したことが分かります。「漆」には精製工程の違いから「生漆」「透漆」「黒漆」などがありますが、長頸瓶に入っていたのは「生漆」「透漆」でした。貴重な「漆」は大切に会見郡衙 の附属工房へ運ばれ、そこで甕に入れ替えられて貯蔵、精製され、それが土師器や須恵器の坏をパレットにして刷毛で塗られたのでしょう。古代の漆工芸を知る上で貴重な「お宝」です。
    長頸瓶(坂長第6遺跡)うるしが厚く付着した長頸瓶うるしが付着した長頸瓶

古代のムラの鍛冶屋さん(琴浦町中道東山西山遺跡)

 
  • 遺跡の場所 東伯郡琴浦町大字笠見
  • 遺跡の時代 平安時代(9世紀)
  • 発掘調査した機関(年度) (財)鳥取県教育文化財団(2004)
  • 「お宝」の保管機関 鳥取県埋蔵文化財センター
  • この遺跡は、中国地方最高峰「大山」から延びる尾根にありますが、谷をはさんで東側の尾根には「笠見第3遺跡」、西側の尾根には「久蔵谷遺跡」と近辺には尾根ごとに遺跡があります。中道東山西山遺跡は尾根の先端に向かって遺跡の中にさらに谷が入り、この谷の東側(東山)から鍛冶炉をもつ9世紀の鍛冶遺構2棟が見つかりました。出土した鉄関連遺物から、別の精錬遺跡から鉄の塊が鍛冶の原料として持ち込まれ、2棟の鍛冶場で精錬と熱く熱した鉄をトッテンカッテンとたたき延ばしながら製品に仕立てていく作業が一貫して行われたことが分かりました。ただ、出土した鉄関連遺物の総量はさほど多くなく、東山西山のムラのなかで使われる鉄製品をまかなう程度の「村方鍛冶」と考えています。平安時代のムラの鍛冶屋さんがどのように操業していたかを再現できる貴重な「お宝」となりました。
    平安時代(9世紀)の鍛冶場から出土した鍛冶関連遺物(中道東山西山遺跡)

門前鎮守山城跡出土の室町時代の墨書土器(大山町)

 
  • 遺跡の場所 西伯郡大山町門前
  • 遺跡の時代 鎌倉時代(13世紀後半)
  • 発掘調査した機関(年度) 鳥取県埋蔵文化財センター(2005)
  • 「お宝」の保管機関 鳥取県埋蔵文化財センター
  • 「門前鎮守山城跡」は、中国地方最高峰の「大山」からその裾野へのびる尾根の端にあり、城跡としての遺構(「土塁」「堀切」)は16世紀以前に築かれたものです。城を構えるときに約1mの盛り土による整地を行っていますが、整地後の表面から掘り込まれた「地下式横穴」から、15世紀代の多量の土師器の「杯(つき)」が出土しました。これらの土器の多くには墨で「普」「土」「佛」「祖」などの文字が書かれていたのですが、一文字ずつに意味があるのではなく組み合わせて経典の一文などを示しているようで、例えば「普天率土、佛祖普・・」の文章が考えられるところです。また、この「地下式横穴」以外の場所からも「普庵」「智光」と墨書された土師器の「杯」も出土しているので、総合すると寺院のような仏教的施設が付近に存在していたようです。15世紀(室町時代中頃)の地方寺院がどのようなあり方だったのかは、よく分からない点がまだ多いので、その一端を明らかにしたという面でこれらの墨書土器は「お宝」なのです。
    門前鎮守山城跡出土の室町時代の墨書土器(大山町)門前鎮守山城跡出土の室町時代の墨書土器(大山町)

門前鎮守山城跡出土の鎌倉時代の土師器(大山町)

 
  • 遺跡の場所 西伯郡大山町門前
  • 遺跡の時代 鎌倉時代(13世紀後半)
  • 発掘調査した機関(年度) 鳥取県埋蔵文化財センター(2005)
  • 「お宝」の保管機関 鳥取県埋蔵文化財センター
  • 「門前鎮守山城跡」は、中国地方最高峰の「大山」からその裾野へのびる尾根の北端にあり、城跡としての遺構(「土塁」「堀切」)は16世紀以前に築かれたものです。城を構えるときに約1mの盛り土を行っていますが、その下の旧表土から直径50cmの円形の「土坑10」が見つかりました。この土坑の中には鉄鍋が伏せて置かれ、その中に6個の「杯(つき)」と1枚の中国・宋の銅銭(聖宋元寶)が収められていましたが、「杯」は3枚ずつに重ねされたうえ、南北に隣り合わせて伏せて納められていました。「杯」は(1)底部から縁に向かってまっすぐ開くものと(2)少し湾曲して開くものの2タイプがありますが、3枚に重ねられたふたつのグループの「杯」も(1)と(2)のタイプ別でした。この「土坑10」に埋納されていた鉄鍋、土師器、宋銭は城(とりで)を築くに当たっての「地鎮具」と考えていて、当時の城(とりで)を構築するに当たっての祭祀のようすを知ることができる「お宝」です。
    門前鎮守山遺跡出土の鎌倉時代の土師器(大山町)門前鎮守山遺跡出土の鎌倉時代の土師器(大山町)

古市宮ノ谷山遺跡出土の鎌倉時代の土師器(米子市)

 
  • 遺跡の場所 米子市古市
  • 遺跡の時代 鎌倉時代(13世紀後半)
  • 発掘調査した機関(年度) (財)鳥取県教育文化財団(1997)
  • 「お宝」の保管機関 鳥取県埋蔵文化財センター
  • 「古市宮ノ谷遺跡」は、米子市の南部、古代山陰道の推定地ともなっている東西に広がる小平野に近い尾根の中腹にありました。遺跡からは弥生時代や平安時代から鎌倉時代のムラのあと、古墳群などが見つかっています。このうち「土坑16」から完形品を主体とする100個近い土師器の「埦(わん)」がまとまって出土しました。土師器のまとまりは東西2群に分かれていて、単なる土器を廃棄した行為のあととは考えにくい出土のしかたです。この時期の土師器の「埦」は、縁が直線的に外に傾くのに対して、出雲(島根県)や西伯耆(鳥取県西部)のものは、湾曲しながら傾くという特徴があり、「土坑16」出土の土師器もその特徴をよく示しています。また、単に捨てたのではないような出土の仕方をするのも、この時期のこの地域での特徴で、近くの青木遺跡では勝間田焼の「かめ」に「埦」や「皿」がまとまって入れられた状態で出土したり、という例もあります。このように、この地域での土師器のかたちや埋納の特徴をよくうかがうことができる「お宝」です。
    古市宮ノ谷山遺跡出土の鎌倉時代の土師器(米子市)

古市宮ノ谷山遺跡出土の平安時代の土師器(米子市)

 
  • 遺跡の場所 米子市古市
  • 遺跡の時代 平安時代前半(8世紀末から10世紀)
  • 発掘調査した機関(年度) (財)鳥取県教育文化財団(1997)
  • 「お宝」の保管機関 鳥取県埋蔵文化財センター
  • 「古市宮ノ谷遺跡」は、米子市の南部、古代山陰道の推定地にもなっている東西に広がる小平野に近い尾根の中腹にありました。遺跡からは弥生時代や平安時代から鎌倉時代のムラのあと、古墳群などが見つかっています。このうち、製鉄を行っていた「テラス15」という遺構や「土器溜(だまり)」などから大量の土師器が出土したのです。「土器溜」には焼けた粘土や「高台(こうだい、杯や皿の底につける台)」がつぶれたような不良品なども含まれることから、すぐ近くに土器を焼成する場所があったようです。これまで、鳥取県西部ではこの時期に須恵器と土師器のどちらが主体を占めるのかや、土師器のかたちの特徴がはっきりしませんでした。この遺跡の調査で平安時代前期ではおもに土師器が製作されていたらしいことや、9世紀代には土師器製作に回転台を用いるようになったことなどが明らかになりました。県西部の古代の土師器について知ることができる「お宝」です。
    古市宮ノ谷山遺跡出土の土師器(米子市)

小浜小谷遺跡出土の胞衣埋納具(東伯郡湯梨浜町)

 
  • 遺跡の場所 東伯郡湯梨浜町小浜
  • 遺跡の時代 奈良時代後期(8世紀後半)
  • 発掘調査した機関(年度) (財)鳥取県教育文化財団(1997)
  • 「お宝」の保管機関 鳥取県埋蔵文化財センター
  • 「小浜小谷遺跡」は東西に長い鳥取県のほぼ中部に位置し、日本海から500mほど内陸に入った丘陵の南向き斜面にありました。埋納具は遺跡のほぼ中央にあった深さ20cmの楕円形をした穴に、須恵器(登り窯により高温で焼いた灰色硬質の土器)の「坏蓋(つきぶた)」が2個ずつ重ねられて4個埋められていました。そして、須恵器が地面に接した部分には大量の炭化物が付着していました。「胞衣」は胎児を包んでいた膜、胎盤(たいばん)、臍帯(へそおび)などの総称で、こうしたものを土の中に埋納する行為は縄文時代までさかのぼることができます。それが8世紀になると中国の道教による医学の手法が導入されて、「胞衣」には須恵器のほか墨、筆、銭などをいっしょに埋納する作法が確立します。ただ、この遺跡の場合は、須恵器以外の埋納具は出土していません。「小浜小谷遺跡」の事例は、中央で確立した「胞衣」の作法が8世紀時点ではまだ地方まで十分に徹底していなかったことをうかがわせる「お宝」なのかもしれません。
    「小浜小谷遺跡」出土の「胞衣(えな)埋納具」(東伯郡湯梨浜町)
  • 「小浜小谷遺跡」で見つかった「胞衣(えな)埋農具」の出土図
これは「はそう」と呼ばれる、お酒などの液体を入れる容器で、土器(須恵器)で作られるのが一般的ですが、今回、木製のものが出土しました。

画像では、脚台部・体部(左側)と口縁部(右側)が分かれていますが、接合可能な1個の木製品です。
なお、口縁部は安定性に欠けるため天地逆に置いて撮影しています。そのため、口に当たる部分が下になっていますので、あたまの中で180度回転してイメージしてくださいね。

 

出土したのは、「女子群像板絵」や、古代山陰道沿いに街路樹が植えてあったことなどで注目されている青谷横木遺跡です。
古代山陰道の盛土最下層となる敷葉層(軟弱な地面の上に樹木を敷いて道路盛り土を安定させる工法がとられた層)から出土しました。年代は7世紀末~8世紀初頭のものと考えています。

 

高さは12cm。外面には仕上げで黒漆が塗られた匠の技が光る優品です。
青谷横木遺跡で出土した木製の「はそう」

この字なんの字?(鳥取市秋里遺跡)

 
この春以降に新刊となる発掘調査報告書から注目の出土品をピックアップしています。
 
画像は、県立中央病院の病棟建築工事に伴って発掘調査を行った秋里遺跡から出土した、須恵器の坏(つき)。

 

鎌倉時代の畑の中にあった土坑(SK102)から出土しましたが、坏はそのかたちの特徴から、畑の時代を500年以上さかのぼる8世紀のものです。
 
その坏を調査事務所に持ち帰って、洗いながら泥を落としてみると、内面に漢字が一文字、線刻されていることに気づきました。
文字はワラのようなもので書かれているようですが、崩し字で書かれているので、そもそもは何という漢字なのかが判然としません。
 
早速、木簡などに書かれた古代の文字を調査研究する部門がある、独立行政法人国立文化財機構奈良文化財研究所に持参して読みを試みてもらいましたが、専門家をもってしても何の字なのか、ついに分かりませんでした。

 

皆さんなら、何の字だと思いますか?

鳥取市秋里遺跡で出土した線刻土器鳥取市秋里遺跡で出土した線刻土器の実測図

仏さまに込めた願いは?(鳥取市青谷横木遺跡)

 
今年春以降に発行される発掘調査報告書から。

今回は、青谷横木遺跡で出土した人形(ひとがた)です。

長さ18cmのこの人形、珍しいことに、右を向いた仏さまの姿を墨書で表現しています。
髪や眉毛、鼻、目、顎、服装を流れるような筆づかいで写実的に描写。顎には如来像の特徴を示す三道(見・修・無学の三つを指したもの)という線が描かれています。
また、衣装は、僧が相手に敬いの気持ちを表す袈裟(けさ)の着方で、右肩を肩脱ぎにし、左肩のみを覆う偏袒右肩(へんたんうけん)を表現しているとみられます。

製作時期、用途ともにはっきりしませんが、仏像の種類とその描き方をよく知っている人物が描いたものと推定していて、青谷横木遺跡では、山岳文様の銅板とともに、仏教的要素をもつ遺物のひとつです。
青谷横木遺跡で出土した仏像が描かれた人形(ひとがた)。

京のみやこからまいりました(鳥取市会下・郡家遺跡)

 
今年春以降に刊行する発掘調査報告書から。

今回は、会下・郡家(えげ・こおげ)遺跡で出土した緑釉(りょくゆう)陶器をご紹介します。
緑釉とは釉(うわぐすり)の一種で、銅の酸化によってあざやかな緑色を発色する釉薬。この緑釉をかけた陶器は、唐三彩の技術を導入して奈良時代に作られた奈良三彩を祖とし、平安時代(9世紀)に京の貴族層が食器として日常的に使いました。

会下・郡家遺跡では、その緑釉陶器が出土しています。
おもには9世紀末から10世紀初め頃の京都産の椀と皿ですが、中には9世紀前半にさかのぼるもの(画像の右下のもの)もあります。

9世紀前半の緑釉陶器は、県内では、因幡と伯耆の国庁跡(鳥取市、倉吉市)のほかは、栃本廃寺跡(鳥取市)など数遺跡からしか出土していません。
このことから、緑釉陶器の出土は、会下・郡家遺跡が古代因幡国の気多(けた)郡域における公的な施設であったことを意味するのかも知れません。
鳥取市気高町の会下・郡家(えげ・こうげ)遺跡で出土した平安時代の緑釉陶器。

古代の機(はた)織り(鳥取市青谷横木遺跡)

 
今年春以降に刊行される発掘調査報告書から。

今回は、青谷横木遺跡(鳥取市青谷町)で出土した古代の機(はた)織り具のひとつ経巻具(いとまきぐ)をご紹介します。

古代の機は地機という織り方で、織り手の体(腰、足、手)のちからを使いながら織っていく方法です(下の画像は福岡県宗像大社に伝わる地機のひな型。出典は、東村純子 2011 「考古学からみた古代日本の紡織」六一書房か。
このうち経巻具は、経糸を巻く織り手からいちばん遠くにある部品で、柱などにくくりつけることで機織り具を固定するパーツです。

青谷横木遺跡で出土した経巻具はスギ材を加工したもので、長さが95cm、厚さは4cmあり、細い棒の両端を幅広(幅15cm)に作っている完品です。

古代の経巻具は、これまでも各地で出土例がありますが、完全なかたちで出土したのは、おそらく青谷横木遺跡のものが初めて。地機具全体の大きさを復元するためにも貴重な資料になりそうです。

青谷横木遺跡で出土した地機の経巻(いとまき)具。
福岡県宗像大社にある地機のひな型。

舳先に旗をたなびかせ(鳥取市青谷町青谷横木遺跡)

 
今年春以降に刊行される発掘調査報告書から。

今回は、青谷横木遺跡で、古代の条里遺構の盛り土の中から出土した舟形木製品をご紹介します。

この舟形木製品は、長さ61.6cm、幅8.5cm、高さ5.5cmの大きさで、スギ材を整形してつくられています。

注目されるのが、船首(舳先)に五ヵ所と船尾に四ヵ所あけられた四角いあな。鉄製の工具を突き刺して規則的な配置であけられています。

舟形の遺物でこうしたあなをあけた事例としては、岐阜県大垣市の荒尾南遺跡で出土した、舳先と中心、そして船尾にそれぞれ二ヵ所ずつあなをあけた木製品や、三重県松坂市宝塚1号墳で出土した大型の埴輪で、中央船底にあなをあけたものなどがこれまで知られています。
また、「常陸(ひたち)国風土記」に「舟を連ね(中略)衣張りの笠を雲と翻し、旗を虹とたなびかせ」という記述が知られているところで、こうした華やかな祭事は、近年まで三重県尾鷲市の仁木島で行われてもいました。

こうしたことから、青谷横木遺跡で出土したこの舟形木製品では、あなに旗竿などを差し込んできらびやかに飾ったものではないかと考えています。祓えだけではなく、葬送などの祭事にも用いられたものでしょうか。注目される一品です。

青谷横木遺跡(鳥取市青谷町)で出土した舟形木製品。

青谷横木遺跡で出土した舟形木製品の舳先。

樹皮を剥いで(鳥取市秋里遺跡)

 
今年春以降に刊行される発掘調査報告書から。

今回は、秋里遺跡(鳥取市)で出土した樹皮素材をご紹介します。

左側の大きい方は、幅9.5cmの帯状の樹皮を巻物にした樹皮素材で、SK137と名付けた平安時代中頃(10世紀頃)の土坑(あな)から出土しました。

一方、右側の小さい方は、幅1.0cmにカットした樹皮素材を引き出して曲物の綴じに使用したものです。鎌倉時代頃の土坑SK152出土から出土しています。

これらが何の木の皮なのかを調べましたが、残念ながら特定には至りませんでした。ただ、ヒントはあります。

弥生時代以降の遺跡から出土する曲げ物(スギなどの薄い板を丸く曲げて底板を取付けたうつわ)では、合わせ目を樹皮で綴っていて、県内でこれまでに出土した曲げ物ではおもにサクラ(ヤマザクラ)が使われていると考えています。

ところで、サクラの樹皮は、外樹皮と内樹皮の二層からなっていて、このうち、利用するのは外樹皮です。

サクラの場合、樹皮の採取は、春から秋にかけての時期に行われます。これは、この時期だと、外樹皮が内樹皮から浮き上がっていて剥ぎやすいから、という理由があります。
また、樹皮を剥ぐ方法は、枝や幹の外樹皮を縦方向にまっすぐに刃を入れて、手で引っ張りながら剥いでいきます。そうすると、左側の画像のような素材を得ることができるのです。

サクラの外樹皮には、加熱すると5%ほど縮むという性質があるので、曲げ物の合わせ目をきつく縛る素材として適しています。加熱には、熱した炭や石などを使ったのでしょうか。
なお、こうした樹皮の使い方は現在でも行われていて、熱する道具を「アイロン」と呼んでいるそうです。

秋里遺跡で暮らしていた平安時代や鎌倉時代の人々は、この樹皮を何に、どのように使っていたのでしょうか。興味を引く出土品です。
秋里遺跡(鳥取市)から出土した樹皮。

室町時代の「たんす預金」?(鳥取市気高町下坂本清合遺跡)

 
今年春以降に刊行する発掘調査報告書から。

「鳥取西道路」改築事業に伴って発掘調査を行った下坂本清合(しもさかもとせいごう)遺跡(鳥取市気高町)では、平成27年6月22日に表土を機械掘削中に、備前焼の四耳壺に詰められた室町時代後期(1500年頃)の埋蔵銭が発見されました(下段の画像)。

出土した場所は、東向きの急峻な斜面の中腹。埋蔵銭の発見は、県内では4例目となります。

出土した銭の枚数は15,554枚、銭種は55種類。その全てといっていい枚数が、中国大陸から流通してきた銭です。
内訳は、最古の銭が開元通寳(初鋳621年)で、最新銭は永樂通寳(初鋳1408年)の幅があり、王朝別に見ると北宋銭が14,263枚で圧倒的多数。これだけで全体の92.34%を占めます。その他に、開元通寳などの唐銭(733枚)、南宋銭(123枚)、最新銭の永樂通寳を含む明銭(290枚)を加えると全体の99.75%にも達します。

銭は、渡来銭を本邦で鋳写した「模鋳銭」、摩耗や割れ、欠けが著しい粗悪銭を含まない良質な銭貨である「精銭」ばかり。そこには意識的に良質貨を選択する「撰銭」という行為があった可能性もあります。

埋蔵銭は、その枚数と種類を調べるために、壺からすべて取り出したため、出土した時の状態をとどめていません。
そこで、今年度、出土時のようすを再現するレプリカを作成しました(上段の画像)。
4月から当センターの展示コーナーで、壺や中に入っていた銭とともに展示の予定です。再現された埋蔵銭をぜひご覧ください。
埋蔵銭のレプリカ。埋蔵銭のレプリカ。
埋蔵銭の出土したようす。埋蔵銭の出土したようす。

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