第96回県史だより

目次

明治2年 軍務官判事河田左久馬の書簡

はじめに

 東京都立中央図書館所蔵資料に『渡辺刀水旧蔵 諸家書簡』があります。この資料はもと軍人であり、人物研究家としても活躍した渡辺金造(刀水)氏(1874-1965)が現役中から退役後にかけて収集した、近世末期から近代の各分野にわたる人物の書簡類です。この中に鳥取にゆかりのある河田左久馬(かわたさくま)(注1)の手による『河田景与 半九郞宛書簡』という一通の手紙があります。この書簡の文面は以下の通りです。

河合縫殿介御召捕ニ相成候由、速ニ御成功珎重至ニ候。依而多事ヘ早々手ヲ付ケ候様被仰聞承知仕候。然ルニ夜陰兵ヲ動シ候而ハ、却而人心動揺大害生し可申哉難計再考仕候ニ付、過刻海吉両氏江及示談、先ツ兵隊ハ動不申其御手ニテ御手ヲ下 サレ、彼之挙動ニより後報知次第、出兵ニ仕段約束仕置候義ニ付、左様御承知被下此度之模様也。再御報知被下度存候也(後略)
(大意)
 河合縫之介を捕らえたことは、まことに迅速で喜ばしい限りです。これを受けた諸般の対処へ速やかにかかるようおっしゃる のも理解します。しかし、夜陰にまぎれて兵隊を動かすことは一般の人を驚かせよろしくない影響を及ぼすというのも否定しがたく、よく検討を要します。したがって、先ほど海(海江田信義・かいえだのぶよし)(注2)吉(吉井友実・よしいともざね)(注3)の両氏と、まずは兵隊を動かすのではなくてあなた方の手によって処置をされ、そののち相手の動きに応じては出兵をするという約束をしたので、それを御承知頂きたいのが現状といったところです。また続報をいただきたく思っています。

 河田は河合縫之介なる人物が捕らえられたことに関する手紙を半九郞(槇村正直・まきむらまさなお)(注4)に書いています。これはいつの手紙なのでしょうか?また「兵ヲ動シ」とありますが、この事件にはたして鳥取の兵が関わっていたのでしょうか?慶応4(1868)年には英公使パークスが宿泊した京都知恩院方面に鳥取藩の人員が動員された事例もあるので(注5)、この時に鳥取藩の兵が関わっていた可能性も全くないわけではないかもしれません。しかし一見したところ、これだけでは詳しい物事の前後関係が見えず、疑問を解消するためには広く周辺を調べてみる必要がありそうです。今回は、この書簡に関して行った追調査のことを紹介しようと思います。

河合縫之介のプロフィールと手紙の時期について

 「河合縫之介」という人物は、高校の教科書や資料集・用語集に出てくるような著名な人物ではありません。まずこの人物は何者なのか、いつ、何故「召捕」られたかを探る必要があります。東京大学史料編纂所のホームページにある「維新史料綱要データベース」(注6)によれば、旧宮内省図書寮が所蔵した明治2年5月11日付「風説書」(旧宮内省図書寮所蔵、作成者不明)の中に河合縫之介と思われる人物や事件の経過についての記述があります。

河合縫之丞(注7) モト遠州濱松ヲ脱藩、先年長州へ行、近比京師江來リ多田隊ニ入込候

 また、同データベースの他の資料中(注8)には、「八条家家來 河合縫殿介」との記載があり、さらにこの資料には、

右之者共即今攘夷杯と種々之虚説を申立、多人數を申語らひ不容易企有之趣相聞候付、過ル十日刑法 官申合不殘召捕(中略)近々浪花兵庫江下リ夷人館ヲ焼拂蝦人を撃殺シ(後略)

ともあります。つまり、浜松藩を脱藩して公家の八条家家臣となっていた河合縫之介は、京都で多田隊(ただたい)(注9)のメンバーに入り込み、攘夷を唱え事件を企て実行にうつそうとしていたが、明治2年5月10日に逮捕された、という状況のようです。河合の出身地については、「議政官日録」では「元三州郷士」(注10)となっており若干不審がありますが、この河田の手紙は明治2年5月10日以降の数日内のもの、と推定出来ます。同「風説書」は、この逮捕事件のあと、京都府当局は多田隊を名乗る者約80人を不穏な分子として一斉に取調べを実行していることも記しています。

河合縫之介逮捕後の河田らの動き

 次に、河合逮捕に関係した当局側の人物について調べてみます。まず、手紙の差出人の河田左久馬ですが、同「風説書」によると当時は軍務官(注11)判事の肩書きでした。また、宛人の槇村正直は京都府の官員ですから、京都府の槇村がこの後の対応、特に未逮捕の多田隊士に対応する際の兵の出動に関して軍務官の河田に問い合わせを行い、上記の書簡はそれに対する回答の手紙であると推定できます。ともに薩摩出身である海江田信義、吉井友実も当時はそれぞれ刑法官(注12)判事、権判事で、河田は関係官と連絡をとりながら、残った多田党への対処に関して「みだりに兵を動かすのはまずいから、まずは御手(京都府)で動いてくれ」と指示したのでしょう。

 果たして、この一連の逮捕劇は槇村の心配とは裏腹に、「案外容易ニ取押」えられたようです(注13)

 因みに、多田隊への取調べについては当初難航したようで、京都府は同年5月19日付で「多田隊の屯集実態についてよく把握できずよろしく取り計らってほしい」(注14)との助力を願う上申書を提出しています。これは、当初河合等が虚言で捜査を惑わせていたことや(注15)、多田隊も「御用相勤候者」「御用不相勤」(注16)者の複数グループが存在し、河合等のグループが多田隊を半ば乗っ取る形で活動していたため(注17)、もともとの多田隊員とどう区別し扱うかなど問題があったこと、さらに軍務官はこの時すでに多田隊そのものの解散方針をもっていたこと(注18)など、京都府のみでの対応がかなり難しい状況があったためと考えられます。

 さらに「風説書」を読んでいくと、この時に動いた兵について以下の記述もあります。

本月十日夜、不明門通下珠數屋町多田隊旅宿軍務官河田左久馬刑法官海江田武次其他多人數并長州加 州等之壯士出役、右隊宿儀取圍ミ召捕候

 これによると、河合逮捕に出動していたのは1.河田、海江田ほか多人数、2.長州加州等の兵、となります。軍務官・刑法官の人間と長州藩・加賀藩の人間というほかは詳しく知ることはできませんでした。

多田隊をめぐる事件と鳥取とのかかわり

 さて、『贈従一位池田慶徳公御伝記』(注19)中にある明治2年の書簡資料に、以下のような記述があります。

去ル十日八条家ニ来、河合縫之助と申者六条辺ニて召捕ニ相成、其他同族七十人程度浪人刑官え被召 捕候由ニ御座候、先は御礼貴答傍、如此候也  
 五月廿七日                      茂政       
   慶徳公 机下

 これによると、河合逮捕の情報は岡山藩主の池田茂政(もちまさ)から実兄である鳥取藩主の池田慶徳(よしのり)にもたらされていることがわかります。おそらく、鳥取藩として兵を動員した可能性は低いと考えられます。

 一方で、前出「維新史料綱要データベース」には「明治二年六月十五日 鳥取藩京都日記」および「鳥取藩廰記録」という資料があり、以下の記述がみられます。

内田刑部ト申者外ニ附属之者五人、於兵庫表御召捕相成候、因州藩を申立
多田隊ト申立                 内田刑部
同人家来                   和田左衛門
元因州領民 澤田政次郎事           内田政次郎
因州鳥取花屋武平倅 愛次郎事         萬里千次郎
因幡浪人                   谷村松蔵
同藩菅隼里家来 筒井八十次郎事        筒井常七

 これによると、「多田隊内田刑部と名乗るもの他5名が兵庫において逮捕されたが、因州藩の者であると話している」といったことがわかります。あるいは兵庫の辺りに潜伏していたということは、河合グループとして多田隊に入り込み攘夷実行を計画していた過激派メンバーだったのでしょうか?これらの人物はその後身柄を鳥取藩へ移され、それぞれ藩から処罰を受けています。5人とも旅行中宿駅で人馬の用立のため不正に権威を濫用したことを罪状にあげられていますが、うち内田政次郎は百姓平兵衛の倅であるにもかかわらず「百姓之身をして名字を名乗り帯刀」したいうことも特に問責されています。

 この河合事件に関しては、当初想像した藩による対応とは対蹠的な立場からかかわった鳥取関連の人物が浮かび上がってきました。この時期にさまざまな鳥取に関わる人物が各々の立場や思想にもとづきいろいろな場所でめいめいの行動をしているさまをうかがえることは、実に興味を引く限りです。因みに「復古記」によれば、この前年の戊辰戦争緒戦で新政府軍が桑名城を攻略する際、援軍として鳥取藩兵300人が送られますが、このうち100人が雑兵であったとの記録があります(注20)。鳥取に関わっているさほど身分が高くない数多の人の動きはあまりクローズアップされることはないでしょうが、個人的には、ドラマや小説にも出てくるような主要有名人物のこともさながら、こうした「名も無き人たち」が(このあとの明治前半の動向も含めて)いかに動いていたか、も気になったりしてしまうところです(注21)

おわりに

 今回は日々行っているたくさんの調査の中から、一つの事例を紹介しました。一通の手紙を手がかりに、この手紙の時期、内容をめぐる状況、そして鳥取との関わりについて辿っていくことができました。このように、ある一つの資料からいろいろな資料を芋蔓式に辿っていき、その事案の背景や前後の状況が明るくなっていくことに、大変面白さを感じる次第です。こうした活動の積み重ねがよりよいよい県史づくりにつながっていけば、と日々思っているところです。

(注1)河田左久馬(1828-97) 明治期の官僚・政治家。景与(かげとも)。元鳥取藩士で、幕末期に尊王攘夷派として活動した。明治維新後は軍務官判事、鳥取県権令、貴族院議員などを歴任した。

(注2)海江田信義 1832-1906 明治期の官僚・政治家。鹿児島出身で元薩摩藩士。途中、官職を離れたりするが、奈良県知事、貴族院議員、枢密院顧問などを歴任した。

(注3)吉井友実(1828-91) 明治期の官僚。鹿児島出身で元薩摩藩士。工部大輔、日本鉄道社長、宮内次官などを歴任した。

(注4)槇村正直(1834-96) 明治期の官僚・政治家。長州藩出身。京都府知事、貴族院議員などを歴任した。

(注5)「復古記」2-4-17-70(東京大学史料編纂所蔵)

(注6)弘化3(1846)年の孝明天皇の践祚から明治4(1871)年の廃藩置県に至る25年間の事件に関する資料を年代順にまとめた『維新史料稿本』から事件の概要を記した綱文と典拠史料名を摘記したもの。

(注7)「河合縫之介」との混同であると思われる。

(注8)「維新史料綱要データベース」明治二年五月十四日「京都府牒 兵庫縣」

(注9)多田隊 幕末維新期に京都の御所を守る衛士の役を勤めた集団。摂津川辺郡にあった多田院(現在の川西市)を警護した人たちを由来とする。

(注10)宮川秀一『戊辰戦争と多田郷士』(川西市編 1984年)251頁

(注11)軍務官 明治元年閏4月に設置された明治新政府の軍事防衛を掌った機関。

(注12)刑法官 慶応4年閏4月に設置された明治新政府の司法を掌った機関。

(注13)宮川秀一 前掲(注10)243頁

(注14)「維新史料綱要データベース」明治二年五月十九日「京都府上申書 軍務官」

(注15)「維新史料綱要データベース」明治二年五月二十日「海江田信義書簡 岩倉具視」

(注16)「維新史料綱要データベース」明治二年五月「京都府上申書」

(注17)宮川秀一 前掲(注10)247頁

(注18)宮川秀一 前掲(注10)248頁

(注19)鳥取県立博物館編 1987年。鳥取藩12代藩主池田慶徳の正伝。膨大な藩政記録をもとに、藩主の動向だけでなく、幕末維新期の藩の政治・経済・社会・文化の動きについても詳細に記している。

(注20)「復古記」2-1-5-92(東京大学史料編纂所蔵)

(注21)例えば『羽合町史 後編』(羽合町編 1976年)は、藩に編成された農兵の一人として長瀬村(湯梨浜町)鳥羽久三郎が書き記した従軍日記「道中心覚帳」の内容を詳しく紹介している(534頁から545頁)。また、『淀江町誌』(淀江町編 1985年)では農民から藩兵として戊辰戦争に参加した松波徹隊の従軍メモというべきものの内容を紹介している(1063頁から1068頁)

(前田孝行)

活動日誌:2014(平成26)年3月

1日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(鳥取県立博物館、渡邉)。
2日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、渡邉)。
6日
民具調査(北栄町歴史民俗資料館亀谷収蔵庫、樫村)。
10日
資料調査(北栄町、前田)。
11日
民俗部会事前協議(米子市、樫村)。
12日
民俗調査(湯梨浜町泊、樫村)。
14日
第2回民俗部会(第2庁舎9階第21会議室)。
史料検討会(近世)(公文書館会議室)。
18日
遺物実測図の検討(むきばんだ史跡公園、湯村)。
19日
ブックレット打合せ(鳥取県立博物館、前田)。
21日
新鳥取県史巡回講座「鳥取県の妖怪」(境港市しおさい会館)。
24日
中世史料調査(~25日、東京大学史料編纂所、岡村)。
資料調査(現代部会合同)(県議会図書室)。
民俗調査(湯梨浜町泊、樫村)。
27日
軍事兵事編調査打合せ(西部総合事務所、前田)。
31日
ブックレット掲載写真現地撮影(県内各地、前田)。

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編集後記

  鳥取城址の桜も散り、新緑がまぶしい季節になりました。歴史好きという方には、歴史上の人物の墓参りを趣味とする方が案外多いようです。私も時々、観光地で歴史上の有名人物の墓参りをしますが、静かな墓地で墓に向かって手を合わせると歴史に近づいたような気がします。今回の河田景与の書簡から歴史を追う記事を読んで、初代の鳥取県権令(知事)である河田景与の墓参りをしてみたい気持ちになりました。東京の多磨霊園にあるそうですが、そこには東郷平八郎をはじめ政治家、文化人のお墓が多数有り、1日歴史に思いを馳せながら墓参りで過ごすこともできそうです。

 なお今月の資料紹介は紙面の関係でお休みします。

(樫村)

  

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