第81回県史だより

目次

戦後初の震災―昭和南海地震と鳥取県―

『震災関係綴』との出会い

 県史編さん室は、昨年の秋から年末にかけて境港市史編さん室が所蔵する旧町村役場資料を調査しました。中でも約2000点近い旧外江(とのえ)村(現境港市)役場(注1)資料は、外江公民館から市史編さん室に移管されたもので、明治から昭和後期までの様々な内容を含む資料群です。1点ずつ資料の表題を確認していくうち、1冊の綴が目に止まりました(写真)。

震災関係書綴の写真
『震災関係書綴』(境港市史編さん室所蔵)

 「震災」という言葉から最初は、1943(昭和18)年9月10日、鳥取市街地を中心に甚大な被害を出した鳥取大震災関係のものかと思い、綴をめくっていきました。ところが、これは鳥取大震災のものではなく、表題が示すように1946(昭和21)年12月に発生した昭和南海地震の被害報告書であることがわかってきました。また、この資料の内容から、意外にもこの地震は本県西部の弓浜半島、とりわけ現在の境港市を構成する町村に大きな被害を与えていたことが明らかになりました。

昭和南海地震

 戦後の混乱がまだ続く昭和21年12月21日午前4時19分過ぎ、和歌山県潮岬(しおのみさき)南方沖を震源とするマグニチュード8.0の巨大地震が発生しました。地震による災害に加え、静岡県から九州にかけて4~6メートルの津波が襲来し、高知県、和歌山県、徳島県を中心に約1300人を超す死者を出す大災害となりました。

 昭和18年9月の鳥取大震災、翌年12月7日の東南海地震、更にその翌年1月13日の三河地震のいずれもが死者千人を超えたことから、敗戦前後を通して4年連続で死者千人を超す震災が続いたことになります。加えて、これら震災は戦中、戦後に起こったことからその復興にも時間がかかりました。

新聞が伝える本県の状況

 この昭和南海地震は、気象庁の報告では、境町(現境港市)が震度5と最も激しく、次いで鳥取、米子両市が震度4とされており(注2)、本県でもかなりの揺れを感じたはずです。余震も27日まで続きました(注3)。鳥取県立公文書館には、昭和南海地震に関する本県下の状況を記録した資料がないため、先ずは当時の新聞から本県の状況を確認してみましょう(注4)

 『日本海新聞』は翌22日付けで、県下の状況を大きく取り上げています。見出しには、「昨曉(さくぎょう)・県下各地に地震 弓浜部に激震」、「死傷者5名 全半壊27戸 境署管内被害」、「米子は強震 18年鳥取地方大震災より強い」などとあります(注5)。同じ紙面には、「被害者救恤(きゅうじゅつ)対策 西伯地方事務所」との見出しが出ているように、県は地震発生当日には、西伯地方事務所を拠点として災害対策に乗り出します。この記事によれば、弓浜半島の被害状況の把握のため事務官を視察に派遣したこと、余子(あまりこ)村(現境港市)の災害が最も大きかったことが報じられています。この地震による県内の犠牲者は余子村内の幼い兄妹2人でした。

 同年12月30日付けの『日本海新聞』には、「本県の震災被害家屋調」との見出しで、弓浜半島が被害の中心であったことを述べた上で、「全壊住宅が17、納屋その他が11、半壊は住宅29その他32」、「修理を要する家屋は住宅388、その他77」と報じています。

 年が明けると、本県下の被害状況に関する報道は減り、本県からの四国、近畿南部各県への救援の様子を伝える内容が中心となっていきます。

公文書が伝える震災の状況と復興状況

 

 新聞からは、現在の境港市を中心とする町村での被害が大きかったことは分かるのですが、より詳細な状況は不明です。全貌解明とまではいきませんが、現在の境港市内の被害状況をある程度詳細に知る格好の資料が、冒頭紹介した外江村役場作成の『震災関係書綴』です。この中には、昭和21年12月27日段階での町村ごとの家屋被害状況が綴られています(表参照)。

震災被害家屋数の表
(表)震災被害家屋調査『震災関係書綴』(境港市史編さん室所蔵)より作成

 

 これによると新聞報道同様、余子村の被害が最も大きかったことがわかります。表の合計は、昭和21年12月30日付け『日本海新聞』が伝える数字と合いませんが、これは中浜村(現境港市)の数字が空欄になっていることや和田、大篠津(おおしのづ)村(ともに現米子市)より南の村々の被害状況が合算されていないためと思われます(注6)

 『震災関係書綴』によれば、復旧は12月22日、避難所(借家)を提供することから始まります(注7)。28日、県の西伯地方事務所を通じて、「他に流用することなく」という絶対条件を付した上、全半壊の住宅を対象に「洋釘(ようくぎ)」の配給が行われます。戦前、戦中と鉄不足に悩まされた日本にとって、「洋釘」は当時大変貴重だったはずです。

 翌年1月6日付、西伯地方事務所長から外江村長宛の文書(注8)によれば、罹災救助基金法により、罹災救助支出を行うことが決定されました。詳細は省きますが、これは全半壊住宅居住者を対象にしたもので、避難所費、衣服住費、治療費、埋葬費、就業支援費、学業支援費などを支援期間と金額の限度を設けて支援するものでした。もっとも、無条件に支出したのではなく、県が指定した費目ごとの調書に記入の上、村役場を通じて知事宛に提出する様式となっています。外江村の場合、罹災救助支出は、7390円でした(注9)

 ただ、罹災救助費はその後も必要だったようで、1947(昭和22)年1月16日、外江村長名で県知事宛に罹災救助費が追加申請されており、同月3月13日付けで3355円の追加給与が決定しています(注10)

 この他、1月13日、西伯地方事務所長から外江村長宛に、内閣総理大臣(吉田茂)名で外江村内の全半壊罹災者に対し、計175円の見舞金が贈呈されました(注11)

 この間、東京に日本赤十字社や恩賜財団同胞援護会、各種宗教団体等からなる「南海地震救援中央連絡委員会」が組織され、1月10日、本県も鳥取市と協力する形で「南海地震救援鳥取県地方連絡委員会」を県厚生課内に設置します。この地方連絡委員会は、1月15日から2月13日までの期間限定で設置され、主に義捐金と繊維品の各被災地への提供が目的とされました。

 『震災関係書綴』は、昭和22年4月2日の文書を最後に終わります。このため、地方委員会の活動がどの程度機能したのか不明です。また、同地域の復興がいつ頃完了したのかも不明です。

おわりに

 

 今回は、『震災関係書綴』を中心に外江村の状況を見てきました。国や県からの弓浜半島の各町村に対する罹災救助の流れは外江村に対するものとほぼ同様だったと思われます。

 ただ、昭和南海地震が本県に及ぼした被害の全貌は、西部を中心とした各自治体史もほとんど取り上げておらず(注12)、現在もよくわかっていません。

 一昨年の東日本大震災の発生以降、昭和南海地震等を引き起こした南海トラフの動向や南海地震が発生した場合の被害状況のシミュレーションなどを紙面で目にする機会が多くなりました。

 一方、南海トラフは、駿河湾から四国沖の太平洋下にかけて横たわることから、四国、瀬戸内海、中国山地を隔てた本県に直接影響を及ぼすイメージがわきにくいかもしれません。しかしながら、60年以上前に生じた昭和南海地震の際には、本県にも甚大な被害をもたらしています。外江村役場が作成した1冊の公文書綴は、埋もれかけている過去の災害を教訓として我々に伝えようとしているように思えてなりません。

(注1)西伯郡外江村は昭和22年11月3日に、町制施行され外江町となる。

(注2)昭和21年12月22日付『日本海新聞』によれば、鳥取市内や千代水村(現鳥取市)内でも家屋倒壊や傾斜があったことが報道されている。

(注3)昭和21年12月30日付『日本海新聞』。

(注4)この時期、米子市では『山陰日日新聞』が発行されているが、この時期のものは原本が存在せず、どのような報道がなされたかは不明である(米子市立図書館・大野秀氏の御教示による)。

(注5)昭和21年12月22日付『日本海新聞』。同じ紙面には「▼島根地方 全壊家屋40 傾斜50 死者7名 負傷者5名 行方不明2名」と島根県の被害は本県より大きかったようである。なお引用文内の漢数字は、読みやすさを重視して算用数字に変更した。また引用文内の読み仮名も追加した。これ以降の引用文も同様である。

(注6)昭和22年1月14日付『日本海新聞』には、「麦の生育絶望か―彦名村田畑沈下の影響―」との見出しで、彦名村(現米子市彦名町)内の田畑が地盤沈下や液状化現象を起し、大きな被害を出していたことを報じている。

(注7)ただし、避難所(借家)の提供期間は、昭和21年12月22日から翌年1月4日までとなっていた。当時、社会問題化していた海外からの引揚者や戦災者の大量引受けなどの問題を抱えていたとはいえ、厳冬期や降雪期であることなどを考慮すると極めて短い。

(注8)昭和21年11月から翌年4月まで外江村長は欠員で、助役であった濱田幸吉が村長代理を務めた。

(注9)『震災関係書綴』中に含まれる「震災救助費仕訳書」(昭和22年1月。日付不詳の外江村長欠員中代理濱田幸吉から鳥取県知事林敬三宛)によると、「避難所費」の項目には、罹災者数として28名をあげている。これは昭和21年12月27日付で報告された外江村の数(表参照)とは合わない。報告後、罹災者の認定が追加されたものと思われる。

(注10)この他、1月13日付けで、西伯地方事務所長から外江村長宛に、日本銀行松江支店が発表した金融緊急措置令(前年12月27日付け)が照会されている。これは、全半壊家屋所有者を対象に、市区町村及び警察署長が認めた損害証明書を添付した申請書の提出を行えば、一人当たり500円の支払い(一世帯当たり2000 円まで)を許可するというものであるが、申請があったのかは不明である。

(注11)『震災関係書綴』によれば、住宅全壊1戸当たり50円、住宅半壊1戸当たり25円という基準で、1月15日に手渡されている。

(注12)『新修米子市史 第6巻 自然編』153~154頁にかけて「1946(昭和21)年の南海地震は200キロメートル以上離れたところの紀伊半島・四国沖で発生したM8.0の巨大地震である。米子市の中海沿岸では液状化現象が観測され、倒壊家屋が出ている。」とある(米子市立図書館・大野秀氏の御教示による)。

(清水太郎)

活動日誌:2012(平成24)年12月

1日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(県立博物館、渡邉)。
2日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、渡邉)。
3日
古墳測量現地確認(湯梨浜町等、足田館長・湯村)。 
史料調査(南部町、渡邉)。
6日
資料(倉吉千刃)調査(倉吉博物館、樫村)。
10日
県史編さんに係る協議(鳥取県埋蔵文化財センター、湯村)。
12日
史料調査(米子市立山陰歴史館、渡邉)。
民俗(口承伝承)調査(大山町鈑戸、樫村)。
13日
資料調査(境港市史編さん室、清水・岡・足田)。
民俗(交通交易)調査(~15日、鳥取市用瀬町・湯梨浜町泊、樫村)。
17日
県史編さんに係る協議(鳥取大学、岡村)。
19日
史料調査(米子市立山陰歴史館、渡邉)。
民具調査(日野町歴史民俗資料館、樫村)。
20日
資料調査(大山町役場、清水)。
25日
遺物借用及び協議(米子市埋蔵文化財センター、湯村)。

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編集後記

 今回の記事は、公文書からみる昭和南海地震による弓浜半島の被害と行政の対応についてです。弓浜半島で聞き取り調査をしていて、2000(平成12)年の鳥取県西部地震の被害について聞いたことがあります。昭和南海地震についても経験者から状況を聞き取りし、記録と照合してみたいものです。大正生まれ、昭和一桁の方であれば昭和南海地震について記憶されているかもしれません。今年度、弓浜半島付近が調査地域なので、民俗調査の際、昭和南海地震についても聞き取りし、何か情報が得られれば県史だよりや、ホームページの活動日誌などで報告したいと思います。

(樫村)

  

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