第73回県史だより

目次

幕府の役人も食べた「とうふちくわ」

『新鳥取県史 資料編 近世1 東伯耆』の刊行

 県史編さん室ではこのたび、新鳥取県史資料編『近世1 東伯耆』、同『近代2 鳥取県史料2』、同『近代3 鳥取県史料3』を3冊同時刊行しました。

 このうち『近世1 東伯耆』には鳥取県中部地域に関わる藩政資料、大庄屋文書、町方文書など、幅広い重要史料を収録・翻刻(ほんこく)しています。今回御紹介する資料は、その内のひとつ「御巡見様御用書留控」です。

「御巡見様御用書留控」

 宝暦11(1761)年3月「御巡見様御用書留控」は倉吉の町年寄等をつとめた中村家に残された文書で、現在は倉吉博物館に所蔵されています。「御巡見様」とは、幕府が将軍の代替わりごとに諸国に送った巡見使のことで、在地の民衆を監察し、政治の善悪や物価、治安などの調査を行いました(注1)。因幡・伯耆(現在の鳥取県域)には寛文7(1667)年、天和元(1681)年、宝永7(1710)年、享保2(1717)年、延享3(1746)年、宝暦11年、寛政元(1789)年、天保9(1838)年と都合8回派遣されています(注2)。宝暦11年には阿部内記(あべないき)、杉原七十郎(すぎはらしちじゅうろう)、弓気多源七郎(ゆげたげんしちろう)の3名が訪れました。

 巡見先の町や村では、巡見使に対して休憩・宿泊の場、食事、移動に必要な人馬などを提供し、巡見使の問いに対する回答を入念に準備し、粗相のないよう対応することが求められました。これらの準備の内容、巡見使に関する藩からの通達、徴発された人馬の数など、巡見使に関する様々な事項を記録したのがこの「御巡見様御用書留控」です。

巡見使の通行ルート

 宝暦11年の巡見使は美作国(みまさかのくに:現在の岡山県北東部)方面から因幡国に入り、野原村(現智頭町野原)、下船岡村(現八頭町船岡)、鳥取城下町、岩井郡湯村(現岩美町岩井)、湖山村(現鳥取市湖山町)、潮津村(うしおづむら:現鳥取市青谷町)に宿泊した後、倉吉に入ります。当初の予定では3月27日に倉吉に到着するはずでしたが、雨天により鳥取町を出立するのが一日延びたため(注3)、3月28日に倉吉に到着しました。

巡検使の休憩、宿泊予定ルートの図

巡検使の休憩、宿泊予定ルートの図。

巡見使に供されたとうふちくわ

 倉吉に到着した3人の巡見使とその家来は、阿部内記が遠藤善兵衛宅、杉原七十郎が見田半右衛門宅、弓気多源七郎が中村世平宅にそれぞれ宿泊しました。「御巡見様御用書留控」は、巡見使が滞在する部屋のしつらえや食事の内容を詳細に伝えています。なかでも興味深いのは、阿部内記の3月28日晩の献立です(注4)


敷あん          ふくさ

  御平皿 すゝの子     御汁 豆腐竹わ

        うと        ふき

        切麩        ちさ

        山のいも

  御腰高           御飯

   御香の物  大こんあさつけ

         ならつけうり

         みそつけ瓜

    御茶

      御くわし 大鳥居柿

 現在、鳥取県東部地域で親しまれている食材「とうふちくわ」が、味噌汁(注5)の具として使われています。江戸時代から作られていたと言われるとうふちくわですが、年代のはっきりした史料の中では鳥取県内で最も古い事例ではないかと思われます(注6)

 この時にとうふちくわが提供されたことには訳があるようで、上記の献立に続き「右之献立、先達而御精進日御書付相廻り候ニ付、魚類之献立ニ仕、用意仕候処、御着後、御上御壱人様、御精進ニ仕候様ニ、御家来青嶋茂七申渡、御精進ニ致指上ル。」という記述があります。もともと宿の方では魚類を入れた献立を準備していたようですが、巡見使の倉吉到着後に阿部内記の分だけ精進料理とするよう申し入れがあったため、このような献立となったようです。ちなみに同日晩の阿部の家来の献立を確認すると、鯛や塩鴨が使われており、とうふちくわは入っていません。また、翌日の朝食も阿部内記のみ精進料理とするよう希望があり、吸い物には「豆腐はんぺん」が入っています。

「御巡見様御用書留控」(倉吉博物館蔵)の写真
「御巡見様御用書留控」(倉吉博物館蔵)。赤い丸の部分が「豆腐竹わ」。

『豆腐百珍』にあらわれる「ちくわとうふ」

 ところで、天明4年(1784)に大坂の本屋から出版された『豆腐百珍(とうふひゃくちん)余録』という本があります。これはその名のとおり100の豆腐料理を紹介したレシピ本『豆腐百珍』(天明2年刊)の続編です。

 この『豆腐百珍余録』には「竹輪豆腐」の製法が記されていますが、「是ハ豆腐をすり、細き竹に付、紙にてつつミ、塩湯にて煮也」とあり、豆腐をすりつぶして竹串に付け、紙に包んで塩湯で煮たものであったようです。現在流通しているとうふちくわは豆腐と魚のすり身を加えたものですので、倉吉で供されたとうふちくわが『豆腐百珍余録』で紹介されている「竹輪豆腐」と同じものであったとすれば、現在流通している「とうふちくわ」とは若干異なります。

 それでは、急な献立変更にあわせてとうふちくわが供されたのはなぜでしょうか。 『豆腐百珍』の本編では、豆腐料理を「尋常品」「通品」「佳品」「奇品」「妙品」「絶品」の6つのカテゴリーに分けて紹介していますが、このうち「通品」の中に「竹輪豆腐」が入っています。

 同書の凡例には、「通品ハ(中略)世の人皆よくしる所なれバ調製を記すにおよはず、其名而巳(ばかり)を出すものなり」とあります。皆によく知られているものなので調理法を詳しく記していない、ということです。少なくとも『豆腐百珍』の出版地の大坂では、「ちくわとうふ」は珍しい食品ではなかったと言えるでしょう。倉吉でも、身近にあったとうふちくわを巡見使の要望に合わせて料理に利用したのかもしれません。

おわりに

 今回、新鳥取県史資料編『近世1 東伯耆』から「御巡見様御用書留控」を、特に「とうふちくわ」に関する記事を中心に取り上げましたが、この史料からは食文化の他にも当時の倉吉に関する様々な情報が読み取れます。また、これ以外にも興味深い史料を数多く収録しています。是非一度ご覧ください。

(注1)半田隆夫「幕府巡見使体制と西国経営」(藤野保先生還暦記念会編『近世日本の政治と外交』、雄山閣、1993)166頁。

(注2)半田前掲論文167~179頁、「因府年表」(『鳥取県史 第7巻 近世資料』鳥取県、1976)。

(注3)「御目付日記」(鳥取県立博物館蔵 鳥取藩政資料)宝暦11年3月24日条。

(注4)「御巡見様御用書留控」(『新鳥取県史 資料編 近世1 東伯耆』鳥取県、2012)759頁。資料中の「敷あん」は折敷と案(机)と思われる。「すゝの子」は「すずのこ」、「うと」は「うど」、「ちさ」は「チシャ」のこと。

(注5)「ふくさ」とは味噌汁のこと。 松下幸子『図説 江戸料理事典 新装版』(柏書房、2009)90頁。

(注6)前鳥取県史編さん室長坂本敬司氏の御教示による。

(渡邉仁美)

活動日誌:2012(平成24)年4月

1日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、渡邉)。
4日
県史編さんに関する協議(鳥取大学・鳥取市歴史博物館、岡村・渡邉・岡)。
7日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(県立博物館、坂本)。
16日
資料調査(倉吉市大谷地区公民館、清水・岡)。
17日
民俗(両墓制)調査に関する協議(大山町教育委員会、樫村)。
19日
古文書解読ボランティアに関する協議(県立博物館、渡邉)。
借用遺物返却(鳥取市埋蔵文化財センター、岡村)。
23日
24日
民俗調査に関する協議(米子市・境港市、樫村)。
27日
民具調査及び民具調査に関する協議(日南町立郷土資料館・日野町立図書館、樫村)。
29日
民俗(賀露神社祭礼)調査(鳥取市賀露町、樫村)。

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編集後記

 今回は、4月に県史編さん室に着任したばかりの渡邉専門員に鳥取東部の特産品「とうふちくわ」に関する記事を執筆いただきました。江戸時代から食べられてきたと言われてきましたが、具体的な史料が現れて「県史資料編」として活字で公開されたことは意義あることと思います。また現在、鳥取で一般的なとうふちくわは、豆腐に魚のすり身を混ぜてつくりますが、資料にあるとうふちくわは精進料理で、魚のすり身は入っていないようです。鳥取のとうふちくわの詳しい変遷についても興味がわきます。

(樫村)

  

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