第60回県史だより

目次

災害対策の民俗―経世済民の学として―

 2011(平成23)年3月11日、東日本大震災が発生しました。お亡くなりになった多くの方々のご冥福を祈ると共に、今も避難所などで大変苦しい生活を耐えしのいでいる方々には、心よりお見舞い申し上げます。

 私事ですが、鳥取県の災害派遣の一員として宮城県石巻市にて平成23年3月24日から27日という僅か4日ですが、避難所運営の応援活動をさせていただきました。

 まだ雪が舞う寒さの中、避難所は暖房も十分でなく、食料も朝は配給された賞味期限切れのおにぎりや菓子パン、夜は避難されている方々が自ら炊き出ししたおにぎりとわずかな惣菜という1日2食の状態でした。避難所での経験は、災害の恐ろしさと同時に普段は当然のように存在している衣食住というものがいかに大切であるか痛感させるものでした。

石巻市の避難所の様子の写真
石巻市の避難所の様子

柳田國男の民俗学-経世済民の学-

 民俗学と聞くと、不思議な習慣や祭り、伝説、昔話の謎解きをする学問とイメージする人が多いと思います。そのような一面をもっているのも確かです。しかし日本における民俗学の創始者である柳田國男(やなぎたくにお)(注1) は、民俗学を娯楽や趣味的な学問とは考えていませんでした。

 柳田國男によれば民俗学の最大の課題は「何ゆえに農民は貧なりや」ということであり(注2) 、貧困の中にある農民達を救うための民俗学であり、「経世済民(けいせいさいみん)の学」(注3)でなければならないと考えていました。また、飢饉(ききん)という惨事の「経験が、私を民俗学の研究に導いた一つの動機ともいえるのであって、飢饉を絶滅しなければならないという気持ちが、私をこの学問にかり立て、かつ農商務省に入らせる動機にもなった」としています(注4)。それは柳田が卒業論文で常平倉(じょうへいそう)(注5) 、義倉(ぎそう)(注6)、社倉(しゃそう)(注7)という「三倉」つまり飢饉等の厄災に備え穀物を貯蔵する倉と制度の沿革研究であったことにも現れています。

 しかし柳田は、民俗学成立以前に注目されることのなかった常民の生活の研究を進めることにより、結果的に「経世済民」を目指したのであって、直接貧しさの原因、民俗社会における飢饉について研究する方向に進まなかった事実もあります(注8)

災害と民俗学研究

 1993(平成5)年に東北地方を中心に冷害凶作が起り米不足となったことが契機となり、歴史学では菊池勇夫(きくちいさお)(注9)による近世の飢饉研究が進められました(注10)

 しかし1993年の凶作に対しても民俗学の反応は非常に鈍いものでした。凶作の翌年の雑誌『フォークロア』(注11)「特集 コメが作った日本」では1993年の凶作についてその事実に多少触れていますが、凶作や飢饉自体を直接問題とする論文や報告はなく、凶作から十年後の2003年になり、赤坂憲雄(あかさかのりお)(注12)が雑誌『東北学』で特集「飢えの記憶」として凶作・飢饉を取り上げたのが目立つ程度です。

 この特集では「飢饉をめぐる歴史と民俗」と題する赤坂憲雄、野本寛一(のもとかんいち)(注13)、菊地勇夫による座談会が行われました(注14)。野本は民俗学が飢饉をとりあげる動きがほとんど無かった理由を次のように述べています。

(前略)民俗学の大方は自分の住む地域や、同年代を生きる人間からの聞き書きをその手段としているわけです。近代以降、飢饉では人は死ななくなりました。私も歩いていて、飢饉や凶作で人が死んだと聞き及んだ経験はありません。もちろん、だからと言って、飢饉の問題を扱わずともいいという理由になりませんし、私もそのことに無関心ではありません。しかし、人が飢えて死ななくなったという現実は、予想以上に大きな力で民俗学を牽制したと思います。この場でも、私は飢饉の実態やその結果に関しては、ほとんど発言できないと思います。(後略)

 民俗学者きってのフィールドワーカーで生業研究の重鎮である野本においても、飢饉とはなかなか手の届かない遠い過去であり、これを機会に暮らしや生業の深さを見つめるべきという方向性を提言するに留まっています。

 民俗学者で飢饉を経験したのは、1885(明治18)年に兵庫県南部の北条町において「日本における最後の飢饉」(注15)に遭遇した民俗学の創始者柳田國男が最初で最後ということになります。

 民俗学が柳田の飢饉の経験が発端としながらも、時間の経過とともに飢饉を語る経験者を喪失し、また調査者自身も戦中、戦後の食糧難すら実感できない者がほとんどとになり、災害とそれに伴う飢饉の問題は放置されることになりました。

民俗学として暮らしや生業の深さを見つめる

 江戸時代、全国的に享保・天明・天保年間などに大きな飢饉が発生しました。鳥取藩領も例外ではなく、天保の飢饉について『因府年表』天保8年6月15日条は、死者2万人と推定しています(注16)

 このような飢饉に対して、人々も無防備ではありませんでした。東伯郡三朝町にて調査をした時に、農家の食料管理について次ぎのようなお話を伺いました。

かつて農家がその年にとれた新米を食べるのは、収穫祝いである亥の子さん(旧暦10月の初亥の日)や、正月など特別な日だけであった。普段は麦や古米または古々米など古い米から食べた。昔の農業は今よりも天候に左右されやすく、不作が数年続くようなこともあった。もし米などが不作で全く収穫がなかったとしても、1年間ぐらいは家族が食べるくらいの食料を備蓄しているのは農家として当然の心得だった。

 このようにかつては家々で凶年に対する対策をするのは当然であったようです。

 隠岐島では、飢饉俵というものがあり、明治末頃まで、地区ごとに籾倉(もみぐら)を置いて、そこに稗(ひえ)、粟(あわ)を入れた飢饉俵(ききんだわら)を備えたといいます(注17) 。また個人宅にも飢饉俵を屋根裏に吊るす習慣があったようです。稗を貯蔵した理由は虫がつきにくく、貯蔵に耐えたからです。稗であれば60年は貯蔵できるという話も聞いたことがあります。

 
隠岐(島根県)の飢饉俵の写真
隠岐(島根県)の飢饉俵(『山陰の民具』70頁より引用)

 このような暮らしの中に残る災害や飢饉に対する先人からの心得や習俗を、民俗学は収集し研究しなければならないのですが、その成果が少ない点については十分反省すべきことと思います。

おわりに

 今回は、主に災害による飢饉対策としての食料備蓄について述べましたが、近代化以前も日本人は長雨や台風、地震、火山の噴火など様々な災害と戦ってきました。その経験から様々な備えや先祖代々に伝える伝承や教えがありました。三朝町に残る農家の心得などはその一部でしょう。

 最近では公園や公民館の近くに非常用の食料や道具を収める防災倉庫などを見かけることがありますが、江戸時代にも村単位で郷倉(ごうぐら)などと呼ばれる非常用の備蓄食糧を保管する倉をもっている場所もありました。また遠い茨城県の事例ですが、この郷倉は、家が火事でなくなったとき仮の住まいとする習慣があったそうです。これは現代の公民館や仮設住宅の役割と同じです。 今回の東日本大地震の被災地でも、自治組織の活躍が目覚しいようですが、かつてのムラの結びつき、「結(ゆい)」が見直されているともいえます。

 このような中、民俗学は柳田國男が目指した「経世済民の学」として、さらに社会に貢献できるよう努力しなければならないと感じています。

(注1)兵庫の生まれ。農商務省の農政官僚。日本の民俗学の確立に尽力した思想家でもある。

(注2)柳田國男「郷土生活の研究法」(1935;1998『柳田國男全集』28,261頁)

(注3)世のため人のための学問ということ。柳田自身は著書の中で、「経世済民」という言葉を使用しておらず、後続研究者が柳田の思想を定義した。

(注4) 柳田國男「故郷七十年」(1959;1997『柳田國男全集』21,筑摩書房,37頁)

(注5)奈良時代、穀物の価格の変動を防ぐために、穀類を貯蔵した官営の倉。豊年で安価のときに買い入れ、凶年で高価のときに放出して価格の調節を図った。

(注6)飢饉に備えて穀類を蓄えておく制度。また、そのための倉。

(注7)凶作・端境期に備えて、官民共同管理で社(集落)に設けた穀物倉庫。

(注8)そうした中で宮本常一らによる『日本残酷物語』(1972,平凡社)は貴重で特異な存在である。

(注9)宮城学院女子大学教授(日本近世史)

(注10)『飢饉の社会史』(1994,校倉書房)、『近世の飢饉』(1997,吉川弘文館)、『飢饉』(2000,集英社)、『飢饉から読む近世社会』(2003,校倉書房)など。

(注11)小堀邦夫「遷宮と米の備蓄」(1994,『フォークロア』4,本阿弥書店)

(注12)元東北芸術工科大学教授。現学習院大学教授。東北学を提唱したことで有名。

(注13)近畿大学名誉教授。主な研究テーマは環境民俗学。フィールドワーク重視の研究手法に忠実なことで知られる。

(注14)赤坂憲雄・菊地勇夫・野本寛一「飢饉をめぐる歴史と民俗―救荒以前の作物構造と市場経済の間で―」(2003,東北芸術工科大学東北文化研究センター『東北学』8)

(注15)前掲(注4)に同じ。

(注16) 鳥取県『鳥取県史 第4巻』(1981,420~422頁)

(注17) 勝部正郊『山陰の民具』(1990,名著出版,70頁)

(樫村賢二)

県史編さん室のスタッフ紹介

 2011(平成23)年4月1日、これまで現代担当だった西村副主幹が公文書担当になり、県史編さん室には、公文書担当だった清水専門員が現代分野の担当として着任、また古文書解読員として青目非常勤、整理作業員として新林非常勤が着任しました。

 また紹介が遅れていた整理作業員の山内非常勤についても紹介します。

専門員 清水 太郎(しみず たろう)

担当:現代

 この度、館内異動に伴い、公文書担当から新鳥取県史・現代編に関する仕事を担当することになりました。戦前、戦後から高度経済成長など激動する本県の歩みをわかりやすく皆様に提供できるよう頑張ります。よろしくお願いいたします。


非常勤 青目 佐保子(あおめ さほこ)

担当:古文書解読

 この度、資料編に掲載する、近世資料の解読をお手伝いさせていただくことになりました。

 日々資料と向き合い、精一杯業務に当たりたいと思います。よろしくお願いします。


非常勤 山内 淳子(やまうち じゅんこ)

担当:遺跡出土品の実測図及びトレース図作成

 遺物整理作業に携わって3年目になります。

 主に出土品を図化する業務を担当し、貴重な資料を正確に表現できるよう、日々取り組んでいます。


非常勤 新林 えり(しんばやし えり)

担当:遺跡出土品の実測図及びトレース図作成

 この度、遺跡出土品の土器などの実測図作成に携わることになりました。

 土器のあたたかみに触れながら、立体を図に変える難しさを感じつつ日々取り組んでいます。

 どうぞよろしくお願いします。

活動日誌:2010(平成22)年3月

5日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(県立博物館、坂本)。
6日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、坂本)。
7日
資料調査(智頭町誌編さん室、西村・大川・足田)。
9日
資料調査(県立博物館、湯村)。
12日
13日
民俗(ゆら市)調査(琴浦町由良宿、樫村)。
14日
新鳥取県史編さん専門部会(考古)開催。
16日
資料調査(鳥取市あおや郷土館、湯村)。
21日
民俗(相田市)調査(湯梨浜町長瀬、樫村)。
24日
新鳥取県史編さん専門部会(古代中世)。
25日
史料調査(米子八幡神社、坂本・岡村)。
30日
資料返却(県立博物館、湯村)。

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編集後記

 平成23年度に入り、新鳥取編さん事業も6年目となり、県史編さん室は新たなスタッフ3人を迎えました。気持ちも新たに、より良い県史の編さんを進めていきたいと思います。

 今年度もよろしくお願いします。

(樫村)

  

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