第56回県史だより

目次

因幡における広峯御師の活動

はじめに

 中世~近世の寺社の活動において「御師(おし)」が重要な役割を果たしていたことは言うまでもありません。

 「御師」というのは特定の寺社に属し、参詣者をその社寺に誘導し、祈祷・宿泊などの世話をする者をいいます。代表的な「御師」として熊野社、伊勢神宮、石清水八幡宮、賀茂社、日吉社などの「御師」が挙げられます。御師は全国各地の信者を「檀那(だんな)」として組織し、神札を配布したり社参を代行するほか、檀那が参詣する際には宿坊を提供したりしました。

 一方、地方の檀那たちは御師が自分たちの地域にやってくると、伝馬や宿舎を提供したり、財物を与えて歓待しました。そのため、檀那は一種の財産として譲渡や売買がしばしば行われました。

 ここでは、中世の因幡を舞台に活動した御師の事例として、播磨国の広峯(ひろみね)社の御師について取り上げてみたいと思います。

広峯社と御師

 播磨国の広峯社(現広峯神社:兵庫県姫路市)は素戔嗚尊(スサノヲノミコト)を主祭神とする神社です。鎌倉時代には素戔嗚尊と同体とされる牛頭天王(ごずてんのう)を祀(まつ)っていました。

 京都の祇園社(現在の八坂神社)との関係も深く、鎌倉時代には広峯社を祇園社の本社とする説が流布しました。南北朝期には祇園社が広峯社の領家となったため、両社の間で確執が生じますが、朝廷・幕府の働きかけにより室町期以降は祇園社の支配下に置かれていきます。

 関係史料によれば、鎌倉~南北朝期の広峯社には、広峯氏を筆頭に肥塚(こいづか)・林・芝・粟野など約三十家の社家がありました。彼らは御師として全国を回り、各地で信者を集めて檀那を組織していきました。

 広峯社の檀那は主に播磨・但馬・丹後・備前・備中・備後・美作・因幡・摂津・丹波といった諸国で確認できます。中国地方東部から近畿地方にかけてのこれらの地域が中世の広峯社の信仰圏であったと考えられます。

因幡における広峯御師の活動

 広峯御師の1つである肥塚家には、因幡の檀那に関する中世史料が数点残されています。これらをもとに中世の因幡と広峯御師の関わりについてみていきたいと思います。

(1)因幡における広峯社の信仰圏

 表は「肥塚文書」で確認できる檀那の所在地を一覧にしたものです。これをみると、肥塚家の場合は高草・邑美・八上・八東・智頭の各郡内に檀那が確認でき、御師の活動が広範囲に及んでいたことがわかります。

「肥塚文書」にみえる広峯社の檀那所在地の表
因幡国内の広峯社檀那所在地の図
図:因幡国内の広峯社檀那所在地

 特に播磨と因幡中心部を結ぶルート上に位置する若桜や、美作との国境付近に位置する智頭、また高草郡の有富(ありどめ)川流域には多くの檀那があったことがわかります。この中には「わかさいちは」のように市場の存在を示すものも見受けられ、御師と地域経済と関わりを窺わせるものもあります。

 とりわけ、有富川流域については特定の檀那名ではなく多くが「一円」と記されていることから、村単位で多数の信者を集めていたことが推察されます。近世以降の因幡における広峯御師の活動は不明ですが、江戸時代中期に編纂された『因幡志』によれば、有富川流域の神社の多くが祭神として牛頭天王を祀っており、中世以来の広峯信仰とのつながりが指摘できます。

(2)御師の宿について

 先述したように、御師がやってくると檀那の村では宿泊施設や伝馬を提供しました。「肥塚文書」をみても各地に宿(やど)があったことがわかります。

 では、どのような人々が御師に宿を提供していたのでしょうか。

 「肥塚文書」によれば、宿の提供者として「河田殿」「八郎衛門殿」「中助左衛門殿」「岡村殿」「岡殿」など「殿」のつく人たちが多くみられます。『智頭町史』は彼らについて「地侍クラスの人物」と述べています。

 また、若桜においては「おふね(小船)村なぬしやと」「おちおり(落折)村一ゑん やとはなぬし十郎ゑもん」とあります。ここでは「なぬし(名主)」が宿を提供していたことがわかります。

 このようにみると、御師の宿はその地域のいわば指導者クラスの人たちが提供していたものと考えられます。

おわりに

 このように中世の広峯社の御師たちは因幡各地に檀那を組織し、広範に活動を展開していました。今回取り上げたのは広峯御師だけですが、このほかに熊野や伊勢の御師たちも因幡・伯耆を舞台に幅広く活動していました。

  御師たちは村々を回り布教活動に努めました。彼らは神札や文物とともに瀬戸内や畿内方面のさまざまな情報を各地にもたらしたものと思われます。地方の人々にとっては貴重な情報源であったに違いありません。

 このような宗教的なネットワークや交流にも目を向けながら中世の因幡・伯耆の人々の営みを少しずつ明らかにしていきたいと思います。

(岡村吉彦)

最近の活動から1:学習院大学・岡山県との連携講座への講師派遣

 2010(平成22)年12月14日(火)、学習院大学・岡山県・鳥取県の連携講座「鳥取、岡山池田家の歴史と文化」に県史編さん室から坂本室長(近世担当)を講師として派遣しました。

 内容は、岡山県が「池田綱政と徳川将軍家」、鳥取県が 「鳥取池田家の歴代藩主」というテーマとしました。

 今回の講座は、鳥取県東京本部の事業として、首都圏に暮らす県人のみなさんをはじめ鳥取に興味をお持ちの方々に鳥取の魅力を発信し、ファンになっていただく事を目的に実施され、66名に出席いただきました。

連携講座の様子の写真
連携講座の様子

最近の活動から2:智頭町誌編さん室にて資料調査を実施

 2010(平成22)年11月30日(火)、12月14日(火)、智頭町誌編さん室にて近代部会と現代部会が合同で資料調査を実施しました。

資料閲覧の様子の写真
資料閲覧の様子

 智頭町誌編さん室には、『智頭町誌』編さん時に収集された資料を中心に、近世以前から現代までの歴史資料が数多く所蔵されています。そのなかから県史編さんに有用なものを選別、撮影させていただくため、近代部会・現代部会は、これまでにも何度か同室を訪問してきました。今回の調査では、那岐・山形の旧村役場文書を閲覧させていただきました。

活動日誌:2010(平成22)年11月

1日
中世史料調査(~2日、京都大学・慈照院・承天閣美術館・松尾大社・京都府立総合資料館、岡村)。
4日
両墓制調査(大山町豊成、樫村)。
7日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、坂本)。
8日
空山古墳群測量調査(鳥取市久末、湯村)。
民俗調査(~9日、琴浦町山川・三朝町坂本、樫村)
10日
面影山73号墳測量調査(鳥取市面影、湯村)。
11日
空山古墳群測量調査(鳥取市久末、湯村)。
12日
六部山3号墳測量調査(鳥取市久末、湯村)。
13日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(県立博物館、坂本)。
16日
資料調査(鳥取市杉崎、大川)。
17日
資料調査(湯梨浜町宇野尾崎家、坂本)。
資料調査(湯梨浜町宇野地区公民館、樫村・大川)。
18日
人権問題に関する意見交換会(倉吉市上井公民館、西村)。
20日
古郡家1号墳測量調査地元説明会(古郡家地区公民館、湯村)。
25日
両墓制調査(大山町豊成、樫村)。
27日
新鳥取県史シンポジウム開催(米子市文化ホール)。
30日
新鳥取県史編さん専門委員会(近世)開催。
資料調査(智頭町誌編さん室、西村・大川)。

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編集後記

 県史編さん室では、公民館、企業などの教養・人権講座に出前講座として、講師を派遣しています。今回紹介した学習院大学で行われた連携講座にもその一環として講師を派遣しました。2011(平成23)年2月19日(土)には東海大学で岡山県との連携講座「秀吉の中国攻め」を予定しています。関心がある方は、鳥取県東京本部または県史編さん室までお問合せください。

(樫村)

  

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