本会議で決定した議員派遣について、その概要等を掲載します。(結果報告については、派遣終了後に掲載いたします。

  

議員の派遣状況(20年度)

ブラジル訪問団

1 派遣期間

平成20年6月19日~28日 6泊10日(機内3泊)

2 主な日程

 6月20日
6月21日
6月22日

6月24日
6月25日
6月26日
ブラジル鳥取県人会との意見交換
ブラジル日本移民百周年記念式祭典へ参加
ブラジル鳥取県人会主催 ブラジル日本移民百周年記念祝賀会へ参加
元技術研修員・県費留学生との意見交換
第二アリアンサ鳥取村との意見交換
リオデジャネイロの県人との意見交換
サンパウロからニューヨーク経由で成田空港へ(6月28日帰国)

3 派遣議員

鉄永議長、前田宏議員、鍵谷議員、米井議員、初田議員、野田議員

4 随行者

議会事務局 岡田主幹、山口副主幹

5 報告

鳥取しゃんしゃん傘踊りを披露
【ブラジル日本移民百周年記念式祭典で鳥取しゃんしゃん傘踊りを披露】

ブラジル日本移民百周年記念祝賀会(ブラジル鳥取県人会主催)
【ブラジル日本移民百周年記念祝賀会(ブラジル鳥取県人会主催)】


第二アリアンサ鳥取村地域住民と交流
【第二アリアンサ鳥取村地域住民と交流】


「日本展・日伯融合100年」を視察
【「日本展・日伯融合100年」を視察】


ウニヴァレムアルコール工場視察
【ウニヴァレムアルコール工場視察】

 まず初めに、ブラジル日本移民100周年についてであります。
1908年、781人の日本人が笠戸丸でブラジルに渡って100年が過ぎました。当時の日本は人口増加に悩まされた時代であり人口増加に対応する経済力は国内には無く、国外に仕事を求めざるを得ませんでした。このような時代背景の下、日本人のブラジル移民が始まり、大方の人が5年か10年したら一儲けして帰ってくることを考えておられたということです。
しかし、コーヒー園での労働は奴隷が行っていた仕事と大差なく過酷なもので、コーヒー豆を摘む指には血が滲み、「働けど働けど暮らし楽にならず」だったようです。
けれども、日本人の持ち前の勤勉さと教育力の高さで徐々にその苦境を克服していかれました。鳥取県からは、その18年後、単なる労働力ではなく、第二アリアンサに土地を購入し自作農として入植されたのですが、開墾したコーヒー園は霜によって壊滅的な打撃を受け、夜逃げ同然でこの地を後にされた人も多かったとのことです。ブラジル移民は、このような悲惨な生活から始まっていることを肝に銘じておく必要があります。
ブラジル日本移民100周年記念式祭典では、皇太子殿下の前で200人によるしゃんしゃん傘踊りを披露いたしました。何と200人のうち8人だけが鳥取県人会のメンバーでありました。もはやブラジルでの傘踊りは、鳥取県の文化ではなく、日本の文化として定着しておりました。
翌日、ブラジル鳥取交流センターを訪問いたしましたが、鳥取県人会は他県と比べてしっかりした組織運営がなされており、実際の活動は、ブラジル鳥取交流センターを活動拠点として、日系人だけでなく多種多様な人種も巻き込んで密度の濃い日本文化の普及がなされていました。その結果、ブラジル鳥取交流センターは、付近の住民からまるで地域の自治会館のように親しみのある会館となっておりました。
今後、ブラジルの鳥取県人会との交流は、ただ単なる鳥取県人との交流という意識ではなく、ブラジル人ともっと大きく捉えて交流する必要があると思いました。
次に、元技術研修員、元県費留学生等との意見交換会では、留学や技術研修によってブラジル帰国後に有利な職業に就いたり、技術を生かして起業し成功している人が多いことが分かりました。一方で、日本で留学や研修を受けるためには日本語の勉強が欠かせず、1~2ケ月の期間延長をしてもらいたいとか、さらに高度の技術を身に付けるために二度目の留学の年齢制限を引き上げて欲しいなど、この制度に対する要望も多くありました。
次に、第二アリアンサ鳥取村の訪問についてであります。
第二アリアンサ鳥取村には、大正13年、信濃海外協会、現在の長野県がサンパウロ市の奥地に土地を購入し、第一アリアンサと名づけたのに引き続き、隣接地に長野県と鳥取県とが共同で3,000haの土地を求め、鳥取県では大岩村長、現在の岩美町の橋浦昌雄氏をはじめとする5家族26名の方が移住されました。当時の第二アリアンサ鳥取村は一面原生林だったのですが、今や見渡す限りの農場となっておりました。
第二アリアンサの自治会館に到着しますと、鳥取村総出の出迎えを受けました。そして、祝賀会では婦人会の皆様の地元産による手料理、果物がうず高く積まれました。見栄えは質素ですが、心のこもった暖かい手料理が振舞われました。また、子供たちの日本語による歓迎の言葉はとても印象的でした。
第二アリアンサ鳥取村には、未だ世界の穀物市場の急騰による潤いが波及しておらず、むしろ諸物価の高騰が生活に影響を与えているのではないかと思いました。しかし、早晩世界の穀物市場の逼迫で、この地にも大きな富がやってくるのではないか、農業の産業としての見直しがなされていくのではないかと思いました。そのためには、現在鳥取県が行っている技術研修生の受け入れ事業の継続が第二アリアンサ鳥取村にとって最も効果があるのではないかと思いました。
第二アリアンサ鳥取村を離れようとした時、佐藤勲自治会長が「子供が20人あまりに減っているがぜひ教師の派遣を続けて欲しい。これからは子供たちだけでなく日本語が話せない大人も学校に行って日本語の勉強をしたい。」との強い要請を受けました。
確かに、日本の教育のやり方を根付かせることも鳥取村には必要なことだと考えましたし、その教育を受けた人が将来ブラジルを背負って立つ有用な人材に育っていけば鳥取県にもメリットがあるのではとも考えました。
また、ブラジルを訪れる前、第二アリアンサ鳥取村の住人のうち、鳥取県人会のメンバーといえるのは3世帯だとお伺いし奇妙に思いました。しかし、第二アリアンサ鳥取村に行って見れば、鳥取県人会のメンバーであるかどうかより、歴史のある鳥取村の住人であるかどうかで括ったほうが適切だと思いました。なぜなら、他県出身者であっても、鳥取県を第二アリアンサ鳥取村の母県として尊敬していることが分かりましたし、鳥取村は、もはや1世の世代ではなく2世以降の世代で運営されており、日本を知らない世代が中心ですから日本=鳥取県という感覚になっているのではないかと思いました。
最後に、ブラジル訪問中、鳥取県人会の加藤会長、本橋副会長、末永理事をはじめとして多くの県人会の方々に、早朝より夜遅くまで大変なご支援を頂いたことに感謝し、今後のブラジル鳥取県人会や第二アリアンサ鳥取村との交流の新しいステージを模索していきたいと思います。
 

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