地域には、長い時を経て形づくられた固有の歴史的環境があります。歴史的環境とはいかにも抽象的ですが、地域の風土に育まれてきた暮らしや、そこで起こった出来事、受け継がれてきた有形・無形の伝統などが幾重にも重なり合った姿といえるでしょう。城下町として発展してきた都市、古くからの港町や農漁村にはそれぞれに特有の歴史的環境があります。

さて、気候が温暖だった縄文時代には、海水面が今よりも高い位置にあり、現在の鳥取市青谷町の中心をなす平野には海が入り込み、内湾が形成されていました。この海辺に暮らした人たちは、山や海で狩猟・漁労・採集活動を行い、日々の糧を得ていたことでしょう。そして、気候が寒冷化すると、海面の低下とともに、日置川と勝部川に運ばれた土砂が海を埋め、潟湖が形成されました。

弥生時代、この潟湖のほとりに村が営まれていました。人々は村の周囲に水田を耕し、コメをつくり、農作業の合間には狩猟や漁猟も行いました。海水と淡水が入り交じる潟湖は魚介類の宝庫だったに違いありません。村の中では土器、石器、鉄器、木製品、装飾品などの生産も盛んに行われていたようです。また、この村は日本海を往来する船舶の寄港地だったのでしょうか。朝鮮半島に由来する土器や金属製品などが、時折、持ち込まれました。戦争も経験しました。2世紀、中国の歴史書に「倭国乱れる」と記された時代のことです。その原因は定かではありませんが、たくさんの人が死傷しました。この村に集積される貴重な品々を巡る争いだったのかもしれません。

この水辺の村跡はいま青谷上寺地遺跡と呼ばれています。この遺跡を通じて、縄文時代や弥生時代にさかのぼる青谷の歴史を知ることができるようになりました。しかし、青谷の歴史の多くは、沖積平野の発達とともに、今は地中の奥深くに封入されてしまいました。現在は、過去を覆うように整然と区画された水田が広がっています。

しかし、青谷の歴史を語り継ぐ記念碑や伝承は今も各所に点在しています。例えば、海岸近くにある湊神社に寄進された石灯籠。これは北前船の船主たちが航海安全を祈願したものです。因幡国の西の玄関口にある青谷が、近世においては日本海航路の中継地点であったことを語っています。また、夏泊の港は、朱印船貿易で知られる鹿野城主亀井茲矩の配下で、朝鮮出兵の折りには水先案内人として活躍した助右衛門によって開かれたといいます。その妻が伝えたという潜水漁の技術は今も夏泊の海女漁として伝承されています。いずれも青谷の歴史の断片にすぎませんが、これらの背景には共通して「海」の存在があることを教えてくれます。

青谷上寺地遺跡の発見は「海」にまつわる青谷の歴史的環境を有史以前にさかのぼって見直すきっかけを与えてくれたと私は感じています。

なお、鳥取県教育委員会と鳥取大学地域学部では「私たちを取り巻く歴史的環境」と題し、地域と暮らしの背景にある歴史を考えるシンポジウムを6月2日午後、県民文化会館小ホールで開催します。問い合わせは0857-26-7932、鳥取県教育委員会文化課歴史遺産室まで。


        (鳥取県教育委員会文化課歴史遺産室 濵田竜彦)

船団線刻板 
【青谷と海の歴史を物語る船団線刻板】