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手仕事探査隊

第20回 「因幡紙元祖碑」の謎とロマンvol.4
 ~謎3 果たして弥助は青谷日置の紙祖なのか?~

 和紙作りと言って頭に浮かぶのは、漉き船の中に両腕を差入れて紙を漉く職人の姿でしょう。しかし、言うまでもなく紙漉きは紙作りの工程の1場面でしかありません。紙を作るには、先ず原料となる各種植物を入手し、これをパルプ状の紙料に処理するまでの複雑で多労な工程が続き、抄紙(しょうし)(=紙を漉くこと)の後にも湿紙の圧搾、乾燥から選別を経てサイズに合わせた断裁、そして一定の枚数を独特の方法で結束し、ようやく出荷できる状態になるのです。これは昔も現代も変わらぬ、どれ一つ欠かせない手順です。これだけのことが、どこかの旅人からちょっと手ほどきを受けただけで出来るようになるものでしょうか。
 そればかりではありません。それぞれの生産工程では専用の道具類が必要です。原料を煮熟(しゃじゅく)するための大きな煮釜(にかま)や繊細な竹ひご細工の漉き簀(す)、簀を固定するための簀桁(すげた)などは鋳物師(いものし)や竹細工師、指物師(さしものし)など専門の職人に注文して調達します。原料供給者も含めて紙漉き業以外の業種の力が不可欠なのです。求めてすぐに得られるとも思われません。
 その上これら生産設備には多額の費用がかかります。時代は下って文久3(1863)年に山根、河原両村が藩へ提出した試算によると、新規開業の施設・設備費に563匁を要すると言っています。前鳥取県産業技術センターの浜谷康郎(やすお)さんは、これを今日の貨幣価値にしておよそ168万9千円と見積もります。もちろん初期の道具類がかなり幼稚なもので、さほど高額でなかったであろうことは十分考えられるにしても、ほとんどが貧しい水飲み百姓だったはずの日置の住民に、短期間で設備一式整えるほどの資本の蓄積があったとはとても考えられません。美濃の技術が伝わったとき、それが寛永5年であれ10年であれ、日置では既に一定の設備を持った製紙が行われていたと見るべきです。弥助の伝承は新技術の導入話と見るべきでしょう。
 では日置での紙作りの真の起源はいつのことで、どんな紙を漉いていたのでしょう。


煮釜
煮釜
 

簀桁
簀桁


 >>「謎4 日置の紙作りの真の起源は?(上)」へ続く
    
※この連載に掲載されているコンテンツの著作権は筆者の若木剛氏に帰属します。権利者の許可なく複製、転用等することは法律で禁止されています。
   
更新日:2009年1月5日

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