第145回県史だより

目次

  • 記事名:謎のかまど~「湖山池南岸型」移動式かまどを考える~
  • 活動日誌:平成30年4月

謎のかまど~「湖山池南岸型」移動式かまどを考える~

「かまど」とは?

 最近、目にすることが少なくなった「かまど(注1)」(図1)。造り付けかまどがある家は、よほど古い家でない限り、現在ではほとんどみかけなくなりました。金属製の移動式かまどが使われる場面であれば、炊き出しや餅つきなどたまに見かけますが、日常的に使用することはありません。

図1  古代のかまど
図1  古代のかまど

 かまどには、薪を入れる「焚口(たきぐち)」と、鍋釜をかける「掛口(かけぐち)」が必ずあり、造り付けの場合は「煙道(えんどう)」が家の外へ延びています。焚口から薪を入れて火を焚き、鍋釜を真下から熱することができ、周囲が囲われているため熱も外部に逃げず、効率的に熱を利用することができます。

かまどの歴史

 縄文時代から弥生時代まで、日本列島に住んだ人々は煮炊きをする際に「炉(ろ)」を用いていました。床面に穴を掘り石を組む(石囲炉)あるいは土器を埋める(土器埋設炉)、地面をわずかに掘りくぼめる(地床炉)などの形態があります。時代や地域によって形は様々ですが、いずれにしても開放的で熱が周囲に逃げるため、熱利用の面からは非効率的と言えます。

 弥生時代の終わり頃、九州北部に朝鮮半島から造り付けかまどが伝わります。これは竪穴建物の壁面に粘土などで構築して造り付けるもので、古墳時代前期(3世紀後半)には近畿地方でも見られるようになります。古墳時代中期後半(5世紀後半)には東日本まで広がり、その後長きにわたり、形は変わるものの煮炊きの場として使われました。それとともに、焼き物の移動式かまども、同じく朝鮮半島から古墳時代中期には日本列島に伝わります。しかし、多くの地域では移動式かまどの出土数は多くなく、日常用と言うより祭祀時の煮炊きなど限られた使用状況が想定されています(稲田、1978)。

 鳥取県内でも、5世紀後半の倉吉市不入岡(ふにおか)遺跡で見つかった竪穴建物で、造り付けかまどが確認されています(倉吉市教育委員会1996、図2)。建物内からは他地域から搬入された土器が見つかっており、他所からやってきた人々が住んでいたと推定できます。

図2  不入岡遺跡のかまど
図2  不入岡遺跡のかまど

 しかし、不入岡遺跡以外では県内では造り付けかまどは確認されていません。それは古墳時代のみならず、飛鳥時代以降になっても変わりません。鳥取県、加えて島根県東部は、全国的に珍しい、造り付けかまどが見られない地域となります。その代わりに多く見られるのが移動式かまどで、古墳時代中期後半には使われていたようです。煮炊きする「甕(かめ)」、蒸し器である「甑(こしき)」、土器を支えたと考えられる「土製支脚(しきゃく)」とともに、山陰の炊事セットを構成しています。

謎の移動式かまど

 平成23年に行われた鳥取市高住牛輪谷(たかずみうしわだに)遺跡の調査で、変わった移動式かまどが発見されました(図3-1)。

図3 『湖山池南岸型』 移動式かまど
図3 『湖山池南岸型』 移動式かまど

 これは、かまど側面を一部切り抜き半筒形の付属部を付けたもので、掛口が2個あるのですが、付属部の掛口には突起がつけられています。しかも、当遺跡からは1個だけではなく、多数の付属かまど付移動式かまどが見つかりました。この後、良田平田遺跡、高住宮ノ谷遺跡、東桂見遺跡など、湖山池南岸地域で同形態の移動式かまどの発見が相次ぎましたが、不思議なことにこの地域以外では全く見つかっていません。この分布から「湖山池南岸型」とも呼ばれています(注2)。また、平成26・27年の高住牛輪谷遺跡の調査では、付属部が右につくものとともに左につくものも見つかりました(図3-2)。調査ではさらに多数の湖山池南岸型移動式かまどが見つかっており、当遺跡を含む高住地区が分布の中心になるようです。

 この移動式かまど最大の特徴である付属部は、かまど本体より一回り小型ですが、内面には煤が付着しているほか本体に近い部分を中心に熱を受けた痕跡が見られます。また、付属部の掛口に突起が付けられたもの以外に、内側に棒状の突起がつけられたもの、両方があるものなど、バラエティに富むこともわかりました。こうした突起は上にかけた土器を支えるものと考えられます。

 ここで問題になるのは、なぜ掛口が2個あるのか、という点です。掛口が2個の移動式かまどは静岡県西部や群馬県などにも分布するのですが(神谷、2016)、これは本体上面に掛口を2個作ったもので、付属部を付けた湖山池南岸型とは造りが根本的に異なります。全国各地を探しても、湖山池南岸型と同形態のかまどは見当たりません。

独自のアイデアはどこから?

 手がかりになりそうなのは、東日本に造り付けかまどの掛口を2個作る例が多く見られる点です(杉井、1993)。これは、それぞれご飯用とおかず用に土器を使い分けていたと想定されています(小林・外山、2016)。先に挙げた静岡県や群馬県の例も同様の使い分けの可能性があります。類推すれば、湖山池南岸型移動式かまども、上に掛ける土器の用途が異なっていた可能性が考えられます。

 現在は陸地で区切られていますが、湖山池は中世まで日本海とつながった内湾であったと考えられています(錦織、2013)。こうした内湾には港が作られ、交易の拠点としていろいろな地域から人々が往来していたことが想定されます。その中で、どこからか炊事における土器使い分けの情報を入手し、元々造り付けかまどが存在しなかったことから移動式かまどに付属部を付けた、という可能性はありうるかなと思います。

 とはいえ、突起が付属部のみにつけられる点は、単に土器を載せたのではない可能性も示唆します。謎はつきないこの移動式かまど、皆さんはどのように考えますか?

(注1)漢字では「竈」ですが、ここではひらがなで表記します。かまどには、粘土や石などで構築した造り付けかまどと、焼き物や金属製の移動式かまどがあります。

(注2)高住宮ノ谷遺跡の発掘調査報告書(鳥取県教育委員会2017)でこの名称が使用されています。

(参考文献)

稲田孝司1978「忌の竈と王権」『考古学研究』第25巻第1号

神谷佳明2016「竈形土製品 再考」『研究紀要』34 (公財)群馬県埋蔵文化財調査事業団

倉吉市教育委員会1996『不入岡遺跡群発掘調査報告書』倉吉市文化財調査報告書第85 集

小林正史・外山政子2016「東西日本間の竈構造の地域差を生み出した背景」『石川考古学研究会々誌』第59号

杉井 健1993「竈の地域性とその背景」『考古学研究』第40巻第1号

鳥取県教育委員会2014『高住牛輪谷遺跡』

鳥取県教育委員会2017『高住宮ノ谷遺跡』

鳥取県教育委員会2018『高住牛輪谷遺跡2.』

錦織 勤2013『古代中世の因伯の交通』鳥取県史ブックレット12

(東方仁史)

活動日誌:平成30年4月

11日
資料調査(鳥取県立博物館、八幡)。
高教組関係聞き取り(公文書館会議室、西村)。
12日
資料調査(旧古布庄小学校、樫村)。
資料借用(県立博物館、東方)。
15日
資料調査(公文書館会議室、西村)。
21日
東海県人会講演会講師(イーブルなごや、岡村)。
23日
資料編に係る協議(鳥取大学、東方)。
30日
泊漁具資料に関する会議(鳥取市歴史博物館、樫村)。
  

編集後記

 今回の「県史だより」は、東方専門員がはじめて執筆しました。今回は鳥取では「くど」と呼ばれる「かまど」についての記事です。移動式の「湖山池南岸型」は、掛口が主と副ともいうべき二つであり、非対称な形状が特徴的です。
 ところで、遠山郷と呼ばれる長野県飯田市南信濃・上村の神社9社には鎌倉時代から伝わるという国重要無形文化財の遠山の霜月祭りという行事があります。この祭りは神社の中に設けられた「かまど(湯釜)」を中心に、湯立神事や舞が行われます。生命の根源である太陽が弱まる冬至の時期に湯釜に聖なる水と火によって聖なる湯を立て、この湯を神々に捧げる祭りです。この9社で行われる霜月祭りに必要な湯釜ですが、土製で毎年作り直すかまど、煉瓦製で常設のかまど、かまどではなく鉄製の鼎(かなえ)であるものなどがあり、釜数も1~3つなど約20キロメートルの遠山谷の中でも多様です。「湖山池南岸型」が日常用、祭事用なのかもわかりませんが、周囲約18キロメートルの湖山池の南岸だけのかまどがあっても不思議ではないのかもしれません。

(樫村)