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平安時代の鍛冶屋さん(大山町殿河内ウルミ谷遺跡)

 
  • 遺跡の場所 西伯郡大山町殿河内
  • 遺跡の時代 平安時代中頃(10世紀から11世紀初め頃)
  • 発掘調査した機関 鳥取県埋蔵文化財センター
  • 「お宝」の保管場所 鳥取県埋蔵文化財センター
  • この遺跡は、中国地方最高峰「大山」の裾野がもっとも日本海に張り出した、丘陵と丘陵にはさまれた谷部にありました。この遺跡からは飛鳥時代(7世紀)と平安時代の鉄鍛冶に関連する遺物が出土しましたが、うち平安時代のものは総量が約821kgもの量があります。こうした出土量から近くに精錬鍛冶炉があるものと考えています。おもな遺物は炉壁(精錬炉、鍛治炉)、羽口(鍛冶炉への送風管の一部)、鍛冶滓(砂鉄中に含まれる不純物)などがありますが、特徴的なのは「板屋型羽口」というすだれ巻きづくり(図)の大型羽口と、径が30cm前後、重さが25kg程度もあるハート型をした「板屋型椀形鍛冶滓」です。これら遺物の特徴から、この遺跡で行われた鍛冶はそもそも滓を多く含む軟鉄を原料に、滓を取り除くことに特化した精錬鍛冶だった可能性が高いようです。古代伯耆国は鉄の生産国として知られます。この遺跡がある地域は、伯耆国での大規模な鉄生産を支えた中心だった、そのことを物語る「お宝」が今回の出土品です。(画像は1枚目が「板屋型羽口」と「椀形鍛冶滓」、2枚目が「板屋型羽口」、3枚目がそのほかの鍛冶関連遺物、4枚目が「板屋型羽口」の製作工程イラスト)
  • 殿河内ウルミ谷遺跡で出土した製鉄関連遺物
    殿河内ウルミ谷遺跡で出土した製鉄関連遺物


    殿河内ウルミ谷遺跡で出土した製鉄関連遺物板屋型羽口の作り方

烏帽子をかぶったあなたはどなた?(鳥取市高住平田遺跡)

 
  • 遺跡の場所 鳥取市高住
  • 遺跡の時代 平安時代末から鎌倉時代(12~13世紀頃)
  • 発掘調査した機関(年度) (財)鳥取県教育文化財団(2010-2011)
  • 「お宝」の保管機関 鳥取県埋蔵文化財センター
  • この遺跡は日本海の入海が砂丘の形成で閉ざされてできた潟湖(せきこ)「湖山池」の南側にある遺跡です。縄文時代以降、連綿と人々がこの地を生活や生業の場として使ってきたことが分かりました。古代から中世の遺物を含む層からは、全国的にもほとんど例がない立烏帽子をかぶった人物の横顔を表現した「人形代(ひとかたしろ)」が出土しました。眉と呼ばれる前面のへこみや後頭部側に通気のためのすき間(風口)があるなどとても具象的です。でも、立烏帽子は清涼殿(平安京の内裏で天皇が儀式を行う場所)へ上がることができる殿乗人(てんじょうびと)と呼ばれる高貴な人しかかぶることが許されていません。因幡国で該当するのは国守だけ。この地でそんな高貴な人物を見る機会があったとはなかなか考えにくい。烏帽子の特徴を絵巻物と比較して見ると、どうも平安時代の終り頃から鎌倉時代のもののようなので、当時の京の文化に関する情報だけがもたらされたということでしょうか。ナゾの多い「お宝」です。       鳥取市高住平田遺跡から出土した人形代(ひとかたしろ)鳥取市高住平田遺跡で出土した人形代(ひとかたしろ)

はんこ、お持ちですか?(鳥取市高住平田遺跡)

 
  • 遺跡の場所 鳥取市高住
  • 遺跡の時代 平安時代(9世紀頃)
  • 発掘調査した機関(年度) (財)鳥取県教育文化財団(2010-2011)
  • 「お宝」の保管機関 鳥取県埋蔵文化財センター
  • この遺跡は日本海の入海が砂丘の形成で閉ざされてできた潟湖(せきこ)「湖山池」の南側にある遺跡です。縄文時代以降、連綿と人々がこの地を生活や生業の場として使ってきたことが分かりました。今回ご紹介する銅印は水田をつくるため整地した層の中から出土しました。「有孔莟鈕(ゆうこうがんちゅう)」というひもを通す穴があるつまみの型式で、印面が一寸四方で「木」という一文字である特徴から平安時代に使われた私印です。銅印では、西伯郡伯耆町で見つかったものなどに続く県内5例目ですが、発掘調査での出土は初めて。印は、律令体制下では公文書の官印としてしか使用が認められていなかったのですが、その後、寺社や貴族階層に使用が広がり、貞観10(868)年の「太政官符」で私印の使用が正式に認められるようになりました。さて、因幡の地で水運と陸路の接点でもある「湖山池」南側のこの地で、印がいったい誰のものでどのような使われ方をしたのか、あなたならどう推理しますか?            鳥取市高住平田遺跡で出土した平安時代の銅印鳥取市高住平田遺跡で出土した平安時代の銅印

夕焼け小焼けで日が暮れて~山のお寺の鐘を造った?(日南町霞要害跡)

 
  • 遺跡の場所 日野郡日南町霞
  • 遺跡の時代 室町時代(15世紀前半)
  • 発掘調査した機関(年度) (財)鳥取県教育文化財団(1999-2000)
  • 「お宝」の保管機関 日南町教育委員会
  • 中国山地の山間地にあるこの遺跡は、ふもとから40mの高さがある急斜面の山腹を広い平坦地に造成し、かつ日野川を一望のもとに見下ろせる場所であることから、江戸時代の地誌「伯耆誌」に記された「霞の要害」に当る可能性がありました。発掘調査の結果、15世紀前半と16世紀前半の二時期に分かれる遺跡であることが分かり、「要害」とされたのは16世紀代のことのようです。15世紀前半の遺構の中に「土坑7」と呼ぶ一辺2mほどの四角い穴が掘られているのが見つかり、中から梵鐘の鋳型、炉壁、青銅の破片などが見つかり、この時期に梵鐘の鋳造を行った遺構であることが分かりました。出土した竜頭、衝座が島根県安来市の清水寺の梵鐘ととてもよく似ていることから、同じ鋳物師(いもじ、工人の名は友光)が同じ鋳型を修理、再利用しながら清水寺の梵鐘を含む複数個の梵鐘をこの場で造った可能性があります。出土した鋳型と現存する梵鐘との関係が分かる全国でもまれな「お宝」なのです。霞要害跡の梵鐘鋳造遺構霞要害跡の梵鐘鋳造遺構から出土した鋳型など

溝の中に捨てられた古代の坏(伯耆町坂長第7遺跡)

 
  • 遺跡の場所 西伯郡伯耆町坂長
  • 遺跡の時代 飛鳥・奈良時代(7世紀末から8世紀前半)
  • 発掘調査した機関(年度) (財)鳥取県教育文化財団(2006)
  • 「お宝」の保管機関 鳥取県埋蔵文化財センター
  • 遺跡は鳥取県西部、日野川左岸の長者原台地の南端と越敷山丘陵の北端を東西に境する谷にあります。坏(つき)は溝の中、東西7mの範囲から破片で出土していて、そのようすから、8世紀後半から10世紀前半(奈良・平安時代)まで継続して壊し(れ)たものを捨てたか、投げ捨てる際に打ち欠かれたようです。なぜこのような捨て方が100年以上にも渡り行われ続けたのかは不明です。坏は土師器がほとんどで須恵器はわずかな点も特徴です。坏の内外面は基本的にベンガラ(赤い色の顔料)が塗られ、色合いに違いがあることから、複数の産地のベンガラが用いられたこともわかります。さらに、長期間に坏のつくり方に徐々に変化が見られ、底の部分をロクロから切り離すとき、古い時期では「ヘラ切り」、中間の時期では「ヘラ切り→なで」、最も新しい時期ではロクロから切り離す際に糸を使う「糸切り」という手法へと変わっていきます。西伯耆地域における古代の坏の特徴を知ることができる「お宝」です。坂長第7遺跡出土の古代の坏

会見郡衙の官営鍛冶工房(伯耆町坂長第6遺跡)

 
  • 遺跡の場所 西伯郡伯耆町坂長
  • 遺跡の時代 平安時代(7世紀末から8世紀前半)
  • 発掘調査した機関(年度) (財)鳥取県教育文化財団(2007)
  • 「お宝」の保管機関 鳥取県埋蔵文化財センター
  • 坂長第6遺跡は鳥取県西部、日野川左岸の「長者原台地」の上にあります。古代律令制下では「伯耆国会見郡」に属し、この遺跡周辺 が郡衙(郡の中心となる役所)推定地です。調査区南斜面から15の建物跡が見つかり、鍛冶工房以外の鍛冶炉をもたない建物跡からも鍛冶に関係する遺物が見つかりました。北側の台地上には大型の掘立柱建物も見つかったことから、ここが会見郡衙に附属する官営の鍛冶工房であることが分かりました。出土した鍛冶、鋳造関連の遺物は、椀型鍛冶滓、鍛造剥片、鉄製品(釘、小刀、鎌、鍬・鋤先など)、炉壁、羽口、金床石、砥石など580kg、3000点以上。官営の鍛冶工房内で、砂鉄精錬で得られた鋼(はがね)を原材料に、精錬から鍛錬まで一貫した鍛冶を集約的に行っていたことがうかがえる貴重な「お宝」です。
    ふいごの羽口(伯耆町坂長第6遺跡)るつぼ(伯耆町坂長第6遺跡)坂長第6遺跡の鍛冶工房出土の鉄滓

漆を運んだ古代の壺(伯耆町坂長第6遺跡)

 
  • 遺跡の場所 西伯郡伯耆町坂長
  • 遺跡の時代 平安時代(7世紀末から8世紀前半)
  • 発掘調査した機関(年度) (財)鳥取県教育文化財団(2007)
  • 「お宝」の保管機関 鳥取県埋蔵文化財センター
  • 坂長第6遺跡は鳥取県西部、日野川左岸に南北に延びる「長者原台地」にあります。古代の律令制のもとでは「伯耆国会見郡」に属し、この遺跡周辺が郡衙(郡の中心となる役所)推定地です。今回の発掘調査でこの遺跡が郡衙に附属する工房跡だったことが分かりました。そんな坂長第6遺跡からは 「漆(うるし)」が付着した土器が55点出土したのですが、そのうちの8割が長頸瓶(細長い首をもつ瓶)。長頸瓶は生産地から公的な消費地へ「漆」を運ぶ容器だったことがうかがわれます。長頸瓶は1点を除きすべてわざと割られていて、そうすることで中に満たされた「漆」をかき出したことが分かります。「漆」には精製工程の違いから「生漆」「透漆」「黒漆」などがありますが、長頸瓶に入っていたのは「生漆」「透漆」でした。貴重な「漆」は大切に会見郡衙 の附属工房へ運ばれ、そこで甕に入れ替えられて貯蔵、精製され、それが土師器や須恵器の坏をパレットにして刷毛で塗られたのでしょう。古代の漆工芸を知る上で貴重な「お宝」です。
    長頸瓶(坂長第6遺跡)うるしが厚く付着した長頸瓶うるしが付着した長頸瓶

古代のムラの鍛冶屋さん(琴浦町中道東山西山遺跡)

 
  • 遺跡の場所 東伯郡琴浦町大字笠見
  • 遺跡の時代 平安時代(9世紀)
  • 発掘調査した機関(年度) (財)鳥取県教育文化財団(2004)
  • 「お宝」の保管機関 鳥取県埋蔵文化財センター
  • この遺跡は、中国地方最高峰「大山」から延びる尾根にありますが、谷をはさんで東側の尾根には「笠見第3遺跡」、西側の尾根には「久蔵谷遺跡」と近辺には尾根ごとに遺跡があります。中道東山西山遺跡は尾根の先端に向かって遺跡の中にさらに谷が入り、この谷の東側(東山)から鍛冶炉をもつ9世紀の鍛冶遺構2棟が見つかりました。出土した鉄関連遺物から、別の精錬遺跡から鉄の塊が鍛冶の原料として持ち込まれ、2棟の鍛冶場で精錬と熱く熱した鉄をトッテンカッテンとたたき延ばしながら製品に仕立てていく作業が一貫して行われたことが分かりました。ただ、出土した鉄関連遺物の総量はさほど多くなく、東山西山のムラのなかで使われる鉄製品をまかなう程度の「村方鍛冶」と考えています。平安時代のムラの鍛冶屋さんがどのように操業していたかを再現できる貴重な「お宝」となりました。
    平安時代(9世紀)の鍛冶場から出土した鍛冶関連遺物(中道東山西山遺跡)

門前鎮守山城跡出土の室町時代の墨書土器(大山町)

 
  • 遺跡の場所 西伯郡大山町門前
  • 遺跡の時代 鎌倉時代(13世紀後半)
  • 発掘調査した機関(年度) 鳥取県埋蔵文化財センター(2005)
  • 「お宝」の保管機関 鳥取県埋蔵文化財センター
  • 「門前鎮守山城跡」は、中国地方最高峰の「大山」からその裾野へのびる尾根の端にあり、城跡としての遺構(「土塁」「堀切」)は16世紀以前に築かれたものです。城を構えるときに約1mの盛り土による整地を行っていますが、整地後の表面から掘り込まれた「地下式横穴」から、15世紀代の多量の土師器の「杯(つき)」が出土しました。これらの土器の多くには墨で「普」「土」「佛」「祖」などの文字が書かれていたのですが、一文字ずつに意味があるのではなく組み合わせて経典の一文などを示しているようで、例えば「普天率土、佛祖普・・」の文章が考えられるところです。また、この「地下式横穴」以外の場所からも「普庵」「智光」と墨書された土師器の「杯」も出土しているので、総合すると寺院のような仏教的施設が付近に存在していたようです。15世紀(室町時代中頃)の地方寺院がどのようなあり方だったのかは、よく分からない点がまだ多いので、その一端を明らかにしたという面でこれらの墨書土器は「お宝」なのです。
    門前鎮守山城跡出土の室町時代の墨書土器(大山町)門前鎮守山城跡出土の室町時代の墨書土器(大山町)

門前鎮守山城跡出土の鎌倉時代の土師器(大山町)

 
  • 遺跡の場所 西伯郡大山町門前
  • 遺跡の時代 鎌倉時代(13世紀後半)
  • 発掘調査した機関(年度) 鳥取県埋蔵文化財センター(2005)
  • 「お宝」の保管機関 鳥取県埋蔵文化財センター
  • 「門前鎮守山城跡」は、中国地方最高峰の「大山」からその裾野へのびる尾根の北端にあり、城跡としての遺構(「土塁」「堀切」)は16世紀以前に築かれたものです。城を構えるときに約1mの盛り土を行っていますが、その下の旧表土から直径50cmの円形の「土坑10」が見つかりました。この土坑の中には鉄鍋が伏せて置かれ、その中に6個の「杯(つき)」と1枚の中国・宋の銅銭(聖宋元寶)が収められていましたが、「杯」は3枚ずつに重ねされたうえ、南北に隣り合わせて伏せて納められていました。「杯」は(1)底部から縁に向かってまっすぐ開くものと(2)少し湾曲して開くものの2タイプがありますが、3枚に重ねられたふたつのグループの「杯」も(1)と(2)のタイプ別でした。この「土坑10」に埋納されていた鉄鍋、土師器、宋銭は城(とりで)を築くに当たっての「地鎮具」と考えていて、当時の城(とりで)を構築するに当たっての祭祀のようすを知ることができる「お宝」です。
    門前鎮守山遺跡出土の鎌倉時代の土師器(大山町)門前鎮守山遺跡出土の鎌倉時代の土師器(大山町)

古市宮ノ谷山遺跡出土の鎌倉時代の土師器(米子市)

 
  • 遺跡の場所 米子市古市
  • 遺跡の時代 鎌倉時代(13世紀後半)
  • 発掘調査した機関(年度) (財)鳥取県教育文化財団(1997)
  • 「お宝」の保管機関 鳥取県埋蔵文化財センター
  • 「古市宮ノ谷遺跡」は、米子市の南部、古代山陰道の推定地ともなっている東西に広がる小平野に近い尾根の中腹にありました。遺跡からは弥生時代や平安時代から鎌倉時代のムラのあと、古墳群などが見つかっています。このうち「土坑16」から完形品を主体とする100個近い土師器の「埦(わん)」がまとまって出土しました。土師器のまとまりは東西2群に分かれていて、単なる土器を廃棄した行為のあととは考えにくい出土のしかたです。この時期の土師器の「埦」は、縁が直線的に外に傾くのに対して、出雲(島根県)や西伯耆(鳥取県西部)のものは、湾曲しながら傾くという特徴があり、「土坑16」出土の土師器もその特徴をよく示しています。また、単に捨てたのではないような出土の仕方をするのも、この時期のこの地域での特徴で、近くの青木遺跡では勝間田焼の「かめ」に「埦」や「皿」がまとまって入れられた状態で出土したり、という例もあります。このように、この地域での土師器のかたちや埋納の特徴をよくうかがうことができる「お宝」です。
    古市宮ノ谷山遺跡出土の鎌倉時代の土師器(米子市)

古市宮ノ谷山遺跡出土の平安時代の土師器(米子市)

 
  • 遺跡の場所 米子市古市
  • 遺跡の時代 平安時代前半(8世紀末から10世紀)
  • 発掘調査した機関(年度) (財)鳥取県教育文化財団(1997)
  • 「お宝」の保管機関 鳥取県埋蔵文化財センター
  • 「古市宮ノ谷遺跡」は、米子市の南部、古代山陰道の推定地にもなっている東西に広がる小平野に近い尾根の中腹にありました。遺跡からは弥生時代や平安時代から鎌倉時代のムラのあと、古墳群などが見つかっています。このうち、製鉄を行っていた「テラス15」という遺構や「土器溜(だまり)」などから大量の土師器が出土したのです。「土器溜」には焼けた粘土や「高台(こうだい、杯や皿の底につける台)」がつぶれたような不良品なども含まれることから、すぐ近くに土器を焼成する場所があったようです。これまで、鳥取県西部ではこの時期に須恵器と土師器のどちらが主体を占めるのかや、土師器のかたちの特徴がはっきりしませんでした。この遺跡の調査で平安時代前期ではおもに土師器が製作されていたらしいことや、9世紀代には土師器製作に回転台を用いるようになったことなどが明らかになりました。県西部の古代の土師器について知ることができる「お宝」です。
    古市宮ノ谷山遺跡出土の土師器(米子市)

小浜小谷遺跡出土の胞衣埋納具(東伯郡湯梨浜町)

 
  • 遺跡の場所 東伯郡湯梨浜町小浜
  • 遺跡の時代 奈良時代後期(8世紀後半)
  • 発掘調査した機関(年度) (財)鳥取県教育文化財団(1997)
  • 「お宝」の保管機関 鳥取県埋蔵文化財センター
  • 「小浜小谷遺跡」は東西に長い鳥取県のほぼ中部に位置し、日本海から500mほど内陸に入った丘陵の南向き斜面にありました。埋納具は遺跡のほぼ中央にあった深さ20cmの楕円形をした穴に、須恵器(登り窯により高温で焼いた灰色硬質の土器)の「坏蓋(つきぶた)」が2個ずつ重ねられて4個埋められていました。そして、須恵器が地面に接した部分には大量の炭化物が付着していました。「胞衣」は胎児を包んでいた膜、胎盤(たいばん)、臍帯(へそおび)などの総称で、こうしたものを土の中に埋納する行為は縄文時代までさかのぼることができます。それが8世紀になると中国の道教による医学の手法が導入されて、「胞衣」には須恵器のほか墨、筆、銭などをいっしょに埋納する作法が確立します。ただ、この遺跡の場合は、須恵器以外の埋納具は出土していません。「小浜小谷遺跡」の事例は、中央で確立した「胞衣」の作法が8世紀時点ではまだ地方まで十分に徹底していなかったことをうかがわせる「お宝」なのかもしれません。
    「小浜小谷遺跡」出土の「胞衣(えな)埋納具」(東伯郡湯梨浜町)
  • 「小浜小谷遺跡」で見つかった「胞衣(えな)埋農具」の出土図