第129回県史だより

目次

明治後期から大正期にかけての資料にみる県内の小学校

はじめに

 明治27~28(1894~95)年の日清戦争での日本の勝利は、西欧列強の圧力を大きく受ける結果をもたらすこととなり、国内において富国強兵策が強化されていく契機ともなりました。この富国強兵の土台を支えるのは、人づくりすなわち教育であり、明治33(1900)年の小学校令改正をはじめとして、同40(1907)年の就学義務年限の延長等、教育制度の改変とその躍進へ向けた諸策が以降打ち出されていきます。近代部会が準備を進めている次巻の資料編では、このあたりの資料も充実させていきたいと考えています。

 今回は、県内の各小学校の資料から、この時期の様子がうかがえるものとして目についたものをいくつかとりあげ、紹介をさせていただきます。

校訓・校規・教育方針など

 いうまでもなく校訓は、各学校の定める教育の方針や目標を成文化したものです。校歌・校章などとともに大正時代を中心としその前後に各地で整備が進んでいきますが、このことは、すなわち各学校において学校としての理念や計画が確立していくことを示すものです。この例として、以下に、成徳尋常高等小学校(倉吉市)のものを紹介します。また、あわせて大正時代の就将尋常高等小学校(米子市)で教員にむけて示された教育方針も紹介します。

○資料1:成徳校校訓制定の趣旨(奥野校長: 明治40年)
一、我校訓ハ、総テノ徳目ヲ網羅スルコトヲ勉メス。我地方ノ欠点ト見ルヘクシテ、殊ニ簡潔ニシテ成ルヘク広ク応用シ得ラルヽモノ撰定スルコトヽセリ。去レハ、我校規ニ顧ミ、地方ノ欠点ニ鑑ミ、茲ニ二箇ノ中心要目ヲ定メ、而シテ之レカ実践ヲ有効ナラシメンカ為メニ二箇ノ神精綱目ヲ冠セシメタリ。(筆者注:「二箇ノ中心要目」とは、至誠・勇気)
「明治 自四十年七月至同十一月 書類 校訓制定資料 奥野校長」
『本校諸規定 校規』(写) 鳥取県立公文書館蔵
○資料2:就将校の教育方針(大正7年)
一、研究、小学校教育ハ基礎ノ教育ニシテ、之ヲ出発点トシテ終生尚ホ 多クヲ学ハサル可ラス。コレ即チ研究的習慣ヲ養ハントスル所以ナリ。蓋シ研究ハ、積極的学習ニシテ知的方面ノ陶冶ヲナスノミナラス、道徳的方面ニ於テモ自律的人格ノ重要分子タレハナリ
二、自重、児童ヲシテ自律的人格者タラシメントスルニハ、須ク彼等ノ責任感ヲ強大ナラシメサルヘカラス。責任感ノ強大ハ、自重心ノ啓発ニ待ツコト大ナリ。蓋シ自重トハ、自己ノ人格ヲ尊重スルノ義ニシテ、児童カ自己ノ品位ヲ重ンシ、名誉ヲ尊ヒ、責任ヲ感ジテ云為行動スルニ至リ始メテ自ラ道徳的感動ニ充チテ、正シキ行為ヲナスニ至ルヘケレハナリ
三、勤労、勤労ノ大切ナルコトハ、独リ実業的方面ノミナラス心身修養上更ニ其ノ価値ノ大ナルモノアルヲ以テ、努メテ諸種ノ作業ヲ課シ大ニ勤労ノ習慣養成セントス。蓋シ如何ナル信念モ自覚モ、之レヲ行為化スルニアラサレハ真ニ偉大ナル人格者トナリ難ク(ママ)ケレハナリ
「学校沿革誌 就将尋常高等小学校」『学校沿革史』(写) 鳥取県立公文書館蔵

 教育基本方針の決定は、名目上で天皇以外認めないという原則はあったものの、一定の限度内で、学校行事や校内管理について文部省は大綱的指示を下すにとどめて各校・各地域の自主性に委ねられていました(注1)。この裁量の中で各校がいかに自己の教育活動を組立てようとしたか、その動きがわかる興味深い資料です。成徳校は「至誠」「勇気」を、就将校は「研究」「自重」「勤労」をそれぞれ重要目標に掲げていました。後で触れますが、どちらも徳育に意を注いでいる様子がうかがえます。また、特に成徳校の校訓は「地方ノ欠点」を考慮に入れた制定をしており、学校内だけでなく、その地方全体の課題を解決したいという小学校の思いを感じることができます。さらに、こうした校長自身の意図が語られている点において、これら学校の独自性発揮の上での学校長の役割の重要性もうかがわせる資料です。

 しかしながら、各学校史については、研究の遅れを指摘する研究者がいます。今後の研究の発展を期待するとともに、新鳥取県史の資料編がその基礎として資することを願ってやみません。

進級・卒業の認定方法

 以下は、明治34(1901)年の鳥取高等小学校(鳥取市:現久松小学校の前身)の成績考査規定です。

○資料3:鳥取高等小学校学業成績考査規定(明治34年)
第一条 成績ヲ評定スルハ、学期末及ビ学年末トス
第二条 学期末ニ在リテハ其学期間平素ノ成績ヲ考査・評定シ、学年末ニ在リテハ其学年間各学期ノ成績ヲ考査シテ、修業若クハ卒業ヲ認定ス
「内規定 鳥取高等小学校」『鳥取県鳥取市 鳥取高等小学校内規』(写) 鳥取県立公文書館蔵

 この規定が出された前年の明治33(1900)年、小学校令が改正されています。この改正にあたっては、「国度民情」に適した最低限の教育普及が最重要視されました(注2)。そのため、特に尋常小学校(注3)を中心に児童に課する教育内容のハードルを低くしつつ、かつ絞り込んだ内容を確実に習得させる合理化策がとられています。資料は高等小学校(注4)のものですが、「進級・卒業認定の方法について、平素の成績によって判定する」という内容が定められているのは、実はこの時の改正点のうちの一つです。従来は、春と秋の二回、所定の試験によって一定以上の成績をおさめた場合に進級ないしは卒業できる、というのが基本でした。このため、特に明治初期は、低級のままで退学するものが多く見受けられ、教育の普及を滞らせる一つの要因になっていました。

 小学校令改正には、この他にも尋常小学校教科目の整理・統合、教授時数の縮減、使用漢字数の制限等が盛り込まれていました。また、加えて義務教育は無償という原則が盛り込まれたことも大きく作用し、これらの結果、3年後の明治37(1904)年には鳥取県の就学率は男女とも90%を超え(注5)、さらには同40(1907)年には、義務教育期間が2年延長され6年となります。一見、何ともなさそうな資料ですが、時代背景をふまえると、この時期の小学校の変化をよく感じることのできる興味深い資料であるように思います。

知育偏重論と徳育・体育の扱い

 「学校は知識だけを多く授け、徳育や体育がおろそかでバランスがとれていない」というような論は、私も学校現場にいるときしばしば耳にしました。ただ、この類いの論がなされるのは昨今の教育のありようのみに対する特有の現象ではなく、古くは明治12(1879)年に明治天皇名で出された「教学聖旨」に遡り、以来100年以上一貫して、教育の問題が悲観的にとりあげられるたび繰り返し行われてきている(注6)、ということのようです。この一例として、大正期に明道小学校(米子市)の教員が書いた記事を、以下紹介します。

○資料4:明道校内誌『明道教育』に寄稿されたある担任教員の文章(大正15年)
   長尾
一、私はこの頃、知識偏重教育の弊にたえかねてゐる。知識に禍せられて実行意志のない者、頭だけ出来て手足の働かない者の次第に多く現れやうとする様な傾向を見て、不愉快でたまらない。それは、社会全体から考へてもそうである。小さく学校や学級から見てもやはりそうである。成績のよい子供程作業をきらひ、こまめに働くことをいとふ。これではこまったものだ、と思ふ。(中略) やヽもすれば児童の知識の方面、しかもその分量の多少だけを見て児童の全体を評価してしまふやうなことがないだらふか。(以下略)
「15年8月1日 明道教育 第二巻 第四号」『大正十五年度 明道教育 Vol2 明道教育研究会発行』(写) 鳥取県立公文書館蔵

 筆者自身鳥取県の教育関係者として、過去の先輩の生の声をうかがえる資料として、個人的には特に感慨深い資料の一つであります。資料はこの部分以外でも多くの示唆に富んでおり、例えば徳育を公教育でどう扱うべきか、受験産業が発達している現代においてなお学校の知育は過分といい切れるかどうか、など直接質問してみたいところだと思いました。それはともかくとして、次巻「資料編 近代5」ではこのような先人教員の思い等も資料で紹介していきたいと思いますので、是非学校の先生方にも直接お手にとっていただきたく思っています。

 関連して、尋常小学校において体育が必須科目として繰り入れられたのは、明治33(1900)年の小学校令からのことでした。その際、「運動場」を向こう5年以内に整備するよう規定されました(整備が進んだのは大正年間)。校舎近隣に必ずグランドが備えられている、日本では当たり前のように見られるこの風景は、かつて日本が手本としたフランス等の学校ではあまりみられないことです。この時期はまさに、日本の学校が徳育と体育をも抱えていくことを方向付けられていく時期でした。

学校行事(運動会・修学旅行)

 また、大正期前後では、小学校で修学旅行・遠足・学芸会・展覧会・運動会などの多彩な学校行事が、その活動の中に織り込まれていった時期でもあります。例えば、運動会などは、学校が自前の運動場を兼ね備えるようになったことで、近隣校と合同して地域の行事として行われた「連合運動会」が、学校単独の運動会行事として次第に変化してきます。また、修学旅行も大きく変わってきますが、以下、大正11(1922)年の勝部尋常高等小学校(鳥取市青谷町)のケースを紹介します。

○資料5:勝部校卒業記念旅行の記録(大正11年3月)
勝部校卒業記念旅行の記録
 十日 雨
午前五時集合、五時半出発、青谷駅ニ向フ途中ヨリ雨トナル。六時五十分到着、七時二十分一行車中ノ人トナル。進行ト共ニ児童ノ喜ブコト限リナシ。九時四十分米子駅着、直ニ境線乗換、九時五十分米子発十時四十分境着。此ヨリ美保ノ関行汽船ニ移ルベク波止場ニ向フ。物珍ラシキ波止場・小蒸汽船・内海何レモ一同ノ目ヲ楽シマシムルニ十分ナリ。只、降雨盛ナルタメ行動ノ自由ヲ欠キタルハ遺感ナリ。二十分余延着ニテ児童ヨリ不平ヲ受ク。漸クニシテ汽船来ル。喜ビノ声ト共ニ波止場ヲ離ル船中ヨリ見タル沿岸ノ佳景、此レ又児童ノ目ヲ楽シマシムルコト一方ナラズ。(中略)一同入浴、一日ノ疲労ヲ洗ヒ流シ、夕食ノ膳ニ座ル快此ノ上ナシ。其レヨリ自由行動ヲ頂ク。夜ノ町ヲ見物ス。帰館就寝十一時頃。夕方ヨリ止ミタル雨、明日ヲ気遣ヒタルモ、星サエ輝キテ愉快サ此ノ上ナシ。
 十一日 晴
起床五時頃。日本晴ノ心地ヨサ、児童ノ顔モ晴々ス。嬉シゲニ朝食ヲ終ル。身仕度終リ一同旅館ヲ発ス、八時過ギ。米子町錦公園・米子物産陳列場ヲ経。米子城跡ニ登ル。内海ノ展望、市内ノ眼下ニ収ムルトコロ眺望絶佳ナリ。十一時頃停車場集合、休息。十一時五十分米子駅発御来屋ニ向フ。着十二時三十分、其レヨリ樹間ニ隠見スル海辺ヲ右ニ見テ名和神社ニ参拝ス。御来屋小学校ニテ昼食ス。其レヨリ自由行動約二時間、三時半御来屋駅発、五時二十分青谷駅着。旅行中ノ愉快ナリシヲ語リ合ヒツヽ、帰校セシハ七時頃。
『大正十五年度以降 修学旅行記綴 勝部尋常高等小学校』 鳥取県立公文書館蔵

 学生が団体となって校外各地へ出かけるという修学旅行も、日本独自といってよい学校行事です。その初発は、明治19(1886)年、高等師範学校に導入された兵式体操に「修学旅行」の名を称したことに始まります(注7)。したがって、初期の「修学旅行」は「行軍」と未分離であり、行軍訓練のため徒歩で校外へ出かけ、出先で自然観察・史跡探訪を兼ねて学習をするというものがその原型でした。

 ところが、鉄道の開通がこの修学旅行を大きく変化させることになります。資料のように、「卒業記念旅行」等として鉄道を利用し徒歩圏外の遠方へ出かけることが普及し、訓練的性格が弱まるようになってきます。大正11年の勝部小学校では、3月10日と11日の両日、尋常科六年11名・高等科二年12名・高等科一年(特に許された者)3名に引率2名を加えた総勢28名が、鉄道を利用して島根県美保関地方・米子などを訪れています。資料からは、鉄道に乗ったり、船や海を見たり、絶景を眺めたりして児童が珍しい体験をする機会を得、大変に喜んでいる様子がよく伝わってきます。自動車が普及した現在と比べ、当時は家庭において児童が生活圏外へ出かける機会は少なかったと思われ、このような日常で得がたい経験を積ませる行事を担うことも、学校教育の重要な役割でした。

 さて、これより100年近く経つ現在も、「修学旅行」の類はいろいろな名称を冠しながら各学校で連綿と続いています。これが単なる物見遊山となっていないか、プログラムが旅行業者任せになっていないか等々、資料を読むことを通して、その本質的意義やあるべき姿などを、同時にふと考えさせられました。

おわりに

 本稿でとりあげた明治30年代は、学校教育の普及がすすみ、教員が日本社会において不可欠な存在になった時期でもあります(注8)。そのような中で、教員は社会のさまざまな場面でその資質・能力を問われることも多くなり、その向上へ向けて教員は校内外で講習や研修会などを企画し、時には自己批判・同僚批判などを展開して互いに刺激をし合っていくようになります。今回の「県史だより」では変化する学校についての資料を紹介しましたが、あわせてこの時期の「教員」の動きについてもご注目いただきたいと思います。そのあたりは、鳥取県史ブックレット16巻『鳥取県教育会と教師-学び続ける明治期の教師たち-』に最新の知見を交えて詳しく紹介されていますので、ぜひお手にとってご覧下さい。

(注1)佐藤秀夫『教育の文化史1 学校の構造』阿吽社 2004年 130頁

(注2)同上、54頁

(注3)旧制小学校の一種で、満6歳以上の児童に初等普通教育を施した学校。明治19(1886)年小学校令により設置。修業年限ははじめ4年、同40年から6年となった。昭和16(1941)年の国民学校令まで存続。(日本国語大辞典第二版、小学館より)

(注4)尋常小学校の課程を修了したものを入学させて、さらに高度な初等普通教育を施すことを目的とした学校。明治19(1886)年小学校令により設置。修業年限は4年だったが、同40年小学校令改正によって2年となり、場合により3年のものも認められた。多くは尋常小学校に併設され尋常高等小学校と称した。昭和22(1947)年廃止され、新制の中学校に替わる。(同)

(注5)倉吉市史編集委員会編『新編倉吉市史第三巻近・現代編』1993年 376頁

(注6)佐藤秀夫『学校ことはじめ事典』小学館 1987年 68頁

(注7)同上、62頁

(注8)白石崇人『鳥取県教育会と教師』鳥取県史ブックレット16、鳥取県 2015年 5頁

(前田孝行)

活動日誌:2016(平成28)年12月

2日
民俗部会(公文書館会議室)。
3日
資料調査(智頭町内個人宅、前田)。
5日
資料調査(米子市尚徳公民館、西村)。
資料調査(国府町人権文化センター、前田・八幡)
6日
近世資料検討会の報告(因幡万葉歴史館、八幡)。
10日
資料検討会(~11日、公文書館会議室、岡村)。
12日
資料調査(国府町人権文化センター、前田・八幡)。
14日
資料検討会(公文書館会議室、西村)。
15日
資料調査(~16日、防衛省防衛研究所、西村)。
16日
民俗部会に関する協議(米子市、樫村)。
資料調査(鳥取県立博物館、前田・八幡)。
資料返却(定光寺(倉吉市)、大山寺(大山町)、岡村)。
19日
第2回新鳥取県史編さん委員会(公文書館会議室)。
25日
資料調査(神奈川近代文学館、前田)。
26日
資料調査(~27日、宮内公文書館、前田)。
資料調査(米子市埋蔵文化財センター、湯村)。

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編集後記

 平成29年になりました。今年は3月に考古、古代中世、近代の各部会から計3冊の資料編を刊行予定です。各担当者は最後の編集、校正作業に追われ、資料編の刊行がない部会の担当者も、編さん事業が末期にさしかかり、資料調査や資料の整理、解読等で慌ただしく過ごしています。そうした中でも、年間2、3回は執筆当番になる「県史だより」、担当者は、悩み、楽しみながら執筆しています。今回の記事もお楽しみください。

(樫村)

  

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