第125回県史だより

目次

昭和20年の食糧危機

はじめに

 2016(平成28)年も稔りの秋を迎え、米生産農家の皆さんは収穫と出荷の作業に、慌ただしくも嬉しいひとときを過ごされている時期ではないでしょうか。平成28年産米の生育状況は、概ね平年並みと報告されていますが(注1)、終戦の年、1945(昭和20)年は枕崎台風(9月17日~18日)の影響もあり全国的に不作の年となりました。昭和20年10月から22年2月までの2年4ヶ月間鳥取県知事を務めた林敬三は、「県知事をやっている間に一番苦しい思いをしたのは供米という仕事でした」と述べています(注2)。今回は、公文書館所蔵の供出関係資料から鳥取県の昭和20年産米をめぐる状況を御紹介します。

昭和20年産米の作況

 昭和20年8月15日現在の鳥取県産米の作況予想は水稲・陸稲ともに「普通ニ比シ五分減」という軽微な減収でした。しかし9月20日時点では「九月上中旬に亘り雨天連続し低温寡少の為開花に影響するところ尠(すくな)からず生育を阻害」し、「九月十七、十八日襲来の暴風雨は県下全般に亘り耕地決潰、埋没、浸水、倒伏等甚だしく極晩稲の開花及び中晩稲の結実に悪影響を及ぼし」たため、予想収穫高は56万6100石に下方修正され、その時点で昭和19年実収穫高71万6222石より15万石余りの減収が見込まれました。

 減収の要因は悪天候だけでなく、作付面積が前年比812町9反減少していたことも関係していました。軍用地、工場敷地への転用、水害による荒地化等が理由で、陸稲は栽培が容易な甘藷等に転作したためでした(注3)

 ところが、実収高はこの予測よりさらに低い48万7449石に留まります(昭和21年1月31日報告)。9月20日の予想から7万8651石(1割3分)の減、対前年比22万8773石(3割2分)の減、昭和14~19年の5ヵ年平均に比べても17万8754石(2割7分)の減という異例の凶作でした。その原因としては、「十月上中旬殆ンド雨天ニシテ降雨量多ク且低温ニシテ平年ニ比シ実ニ稀ニ見ル異常天候ニ遭遇」したこと、晩期(10月)の低温多雨による稲熱(イモチ)病や菌核病の多発が挙げられていますが、一方で、肥料不足や挿秧(そうおう・苗の植え付け)遅延も指摘されています。背景に軍需優先による化学肥料の減産や遅配・欠配、勤労動員による人手不足、20年5月に本県で始まったチ号演習(第64回県史だより参照)への参加強制により植え付け時期に十分な人手が取れなかったことが窺えます。

鳥取県供米割当数量の決定

 供米(制度)とは、農家が保有する米を、自家保有米を除き全量を政府に一定の価格で売り渡す制度で、1942(昭和17)年の食糧管理法によって体系化されました。政府は終戦から10日余り経った8月27日に食糧管理局長官名で各県知事宛に「主要食糧ノ供出確保ニ関スル件」を発出。「新局面ノ展開ニ伴ヒ主要食糧ノ確保ハ人心ノ安定国内秩序ノ維持更ニハ戦後復興国力回復上最モ緊要」であるとして「食糧の生産供出ヲ完ウスルコトコソ現下農村民ノ最大ノ責務」であると、農民の自覚を促すよう知事に求めました(注4)。鳥取県は「増産、供出、配給ニ関連シ全体性アル米穀管理事務ノ遂行」を企図して米穀管理研究会を発足させ、9月8日(岩美)と同10日(西伯)、県の出先機関である地方事務所に農業会郡支部の食糧課員、市町村の農業会職員を集め、供出割当方法、自家用米保有高の算定、供出確保のための「研究」措置等の確認を行いました(注5)。10月22日からは県下に専門委員を派遣して作況観察を行い、収量見込みの把握に努めました。そのさなかの10月24日、食糧管理局長官から鳥取県割当数量27万7千石の決定通知が到来します。数十年来の凶作が現実となるなか、10月27日に鳥取県に着任したのが林敬三知事でした。38歳という県政史上最年少の知事に大きな課題が待ち受けていました。

林知事の供米政策

 11月8日、林知事は手始めに知事の諮問機関として地主3名・生産者5名を含む19名の食糧供出委員を委嘱し、鳥取県食糧供出協議会を設置して全県的な供出遂行の体制を整え、郡市別の供出割当案の審議・決定を行います。11月22日から12月1日にかけて町村別の割当協議会を県下各所で実施し、割当数量の周知徹底を図ろうとしました。

 しかし収量が少ないなかで市町村の反発は大きく、11月22日に日野地方事務所で開かれた産米供出割当協議会に出席した県佐々木技手は、知事に対する船越弘一日野郡農業会長の「熾烈なる要望」を報告しています。船越はこのなかで、我々農業会指導者関係者は戦時中政府の要請に応えて主要食糧の供出の推進に協力してきたが、敗戦により、従来の指導政策が農民を欺瞞する結果となり全く信用を失ったとして、価格統制の撤廃や農村生活に必要な生産資材の確保などを強く求めました。また前田英黒坂町長も、供出は農業会が責任をもってあたるべきであり、農民の納得がいく供出が肝要であると述べ、林知事自らの現地懇談会への出席を求めました。

 これら市町村の要望を受けるかたちで県農業会は11月30日、昭和二十年産米供出完遂国民運動実施要項を策定し、商工経済会、森林・水産組合から県教育会まで幅広い団体を糾合した食糧危機突破のための県民運動を実施します。また県も知事をトップに内政部長・経済部長の下、各課職員で構成する「産米供出指導班」を編成し、林知事自らが市郡の懇談会に出席する体制を整えます。

大山初太郎氏との対決

 12月21日に西伯地方事務所で開かれた米子・西伯二十年産米供出懇談会の席上、当時巌村農業会長の職にあった大山初太郎は林知事に対し、次のように糺します。

1 農民の保有量は絶対確保したい、即ち今年の端境期の還元配給(自家用米を供出した農家に配給される制度)ぶりを見て農民はだまされたと思った。これでは安心して供出できない。しかも今年の保有量は昨年より少い、その上復員の兵は農山村に帰ってゐる、まだ続々と帰りつゝある。これでどうして今年の保有米で足りる訳がない。2 今や米は紙幣である。米がなくては何一つ買へない(中略)この現状を以てしては供出は頗る困難である。(以下略)

 「県下各郡の農民の意見を代表する」ような質問意見に対し、林知事は「保有米の多いことは元より望ましいが、都会の勤労者たちのことも考へて頂きたい。どう工夫しても食へぬ、餓死する、といふのであれば兎も角、農村には工夫の余地あるだけ恵まれてゐるわけである」と、生産県である本県農民の理解を求めます。それでも出席していた農事実行組合長の一人が、「どうしても供出に応じない者に対しては如何なる措置をとるか」と詰め寄ると、いささか気色ばんだ林知事は次のように応えました。

供出することによって半年は食べずに居なければならぬ、餓死する、といふのであれば、決して私はどうしても供出して下さい、とは申し上げません、出さんでもようごザンす。しかし不自由ながらも藷を混ぜるとか何とか工夫するならば、出せるといふ場合は何卒万難を排して供出に協力して頂きたい。農民の方の御不自由も私にはよく判ります。しかし都市の勤労者は焼けトタンの壕舎(地下に掘った避難用の穴ぐち:引用者注)の中で、もっともっと苦しい思ひをしてゐるんです。それから出さん者にはどうする、といふ質問を聞くと、私は腹が立ってならぬ。何をーといふ気が起ります。農地調整法の何条とか、マッカーサー司令部で云々とかいふ話も耳にしないではありませんが、皆様にこんな話をするのは実につらい、情なくなります。それや一体皆様の本音なのですか。

 次第に紅潮していく若き知事の顔。そこに突然農民から怒濤のような拍手がわき起こり、「真心こもる知事の答弁」を聞いた農民たちは歓喜に満ちた表情にかわったと記事は伝えています(注6)

難航する供出確保

 こうして県と農業会による強力な供出運動が展開されましたが、政府の割当時期の遅延と農民の供出意欲の低下から供出率は伸び悩み、昭和20年12月末で35%、21年1月末で漸く50%を越える状況でした。1月21日林知事と谷口源十郎鳥取県農業会長は連名で、供出の中心人物たる農事実行組合長らに管理米供出促進依頼状を発出。国家非常の危機を突破するための協力を求めます(注7)

 一方、国は2月17日付で食糧緊急措置令を制定して強制収用の手続きを定め、悪質農民の一掃を図る態度を鮮明にします。これをうけて鳥取県も栃木県に職員を派遣して収用手続きの事例調査を行い「最後の手段」について検討を始めます(注8)。他方、出荷促進費補助要綱を制定して2月末日までに割当全量を出荷した部落(又は農事実行組合)に対しては補助金を支給する「アメとムチ」の政策を行いました(注9)

 こうした努力の結果、2月末現在で66.9%だった検査成績は、3月20日に71.8%に上昇。3月25日にはダメ押しとなる知事名の「供米勧告状」を発行した結果、3月末に88%を達成します。これは全国平均の56.7%を大きく上回りました。

おわりに

 林敬三は鳥取県知事時代の回顧録のなかで、論語の「子貢問政」(施政の要諦は兵・食・信の3つであること)をひき、兵(軍隊)は既になく、食のほうも大変苦しかった時代にあって、「何を頼りにして、社会の秩序を維持し、国民の生活を保って行くかというと、その根本は「信」ということだと思いました」と話を続けています。国民相互、住民と行政当局の間の信頼関係を保ち、「住民のために最善を尽くそうと努力すること、たとえできなくて心でなりと、そういう心境でいること、その誠意を信じてもらうこと、それだけしかできないときもありました」と当時を虚心に振りかえっています。豊かな現代にあってこそ忘れてはならない言葉ではないでしょうか。

 今回は昭和20年の食糧危機をめぐる動きを御紹介しました。

(注1)「農産物の生育状況と今後の見通し」(農業振興戦略監とっとり農業戦略課研究・普及推進室まとめ、平成28年9月14日 現在)

(注2)「内政史研究資料第177集~180集 林敬三談話速記録1.」(内政史研究会、昭和49年)

(注3) 昭和20年9月29日付「昭和二十年米第一回予想収穫高報告の件」(内政部統計課『昭和二十年米収穫調査関係綴』、鳥取県立公文書館所蔵)

(注4)「主要食糧ノ供出確保ニ関スル件」(『昭和二十年 供出関係綴』鳥取県立公文書館所蔵)

(注5) 昭和20年8月30日起案「米穀管理研究会開催に関する件」(同上)

(注6)「苦しからうが御辛抱を/大山氏の質問に林知事答ふ」(『日本海新聞』昭和20年12月23日付)

(注7)昭和21年1月25日起案「経済部長発各地方事務所長・鳥取米子市長宛管理米供出促進依頼状ニ関スル件」(『昭和二十年 供出関係綴』)

(注8)「昭和21年3月19日佐々木技手復命書」(同上)

(注9)昭和21年2月16日起案「昭和二十年産米出荷促進費補助要綱」(同上)

(西村芳将)

活動日誌:2016(平成28)年8月

2日
資料調査(陸上自衛隊米子駐屯地史料館、西村)。
3日
資料調査(鳥取西高等学校、前田)。
4日
資料調査(智頭町誌編纂室、前田)。
9日
資料調査(やまびこ館、西村)。
17日
資料編原稿の打ち合わせ(公文書館会議室、湯村)。
18日
資料編原稿の打ち合わせ(倉吉博物館、湯村)。
因伯の絣資料調査(倉吉市、樫村)。
24日
県史編さんに係る協議(北栄町個人宅、岡村)。
26日
史料写真撮影(鳥取県立博物館、八幡)。
29日
資料調査(鳥取市佐治総合支所、前田)。
30日
資料調査(鳥取市竹生個人宅、八幡・前田)。

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編集後記

 稲刈り風景を見ることが出来る実りの秋がやってきました。新米が食べられるのが楽しみと思っていましたが、今回の記事を読むとそのような浮かれた気持ちであることが申し訳ないような気がしました。1945(昭和20)年の秋は、敗戦で打ちひしがれた中、米の凶作や作付面積の減少で食糧危機にも直面しており、当時の人々の心境はどのようなものであったのでしょうか。歴史を振り返ることで、日々、当然のように衣食住に困らない暮しをしている状況を感謝すべきことを、改めて考える機会になりました。

(樫村)

  

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