第7回「織田信長が鳥取城に来た!?」

 カメ・カエル…ときたので、今回はサル。といっても、サルと呼ばれていた人、豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)のことから話しを始めましょう。
吉川経家像

 秀吉が天正8・9(1580・81)年の2度にわたって鳥取城を攻めに来たことはご存知の方も多いでしょう。

 第1次鳥取城攻めの際、城主山名豊国の降伏で一度は織田方となった鳥取城ですが、その後毛利勢(吉川元春)が勢いを盛り返してくると、山名の家臣たちは城主を追放し、毛利に味方することにしたのです。そして新たな城主として吉川経家を迎え入れました。

 これに対し、翌年の天正9年6月、再び秀吉がやってきて繰り広げられた戦いが、いわゆる「鳥取城の渇え殺し」といわれた兵糧攻めです。このときには秀吉に仕える名だたる武将が鳥取城を囲み、この中には今年(平成26年)のNHK大河ドラマの主人公である黒田孝高(官兵衛)もいました。

 


 ところでこの戦いに、あの織田信長が参陣しようとしていたことをご存知でしたか?

 当時の信長の様子を記した「信長公記」によると、秀吉が鳥取城から7・8町隔てた太閤ヶ平に城をつくり、ここを「大将軍」の居城とした、とされています。秀吉にとっての「大将軍」にあたる人といえば、主人である信長以外には考えられません。事実、8月には信長自らが鳥取に出陣するつもりで、その前に明智光秀などに出陣の準備をするよう命令しています。

城跡 このため、秀吉は鳥取城のある久松山東側に位置する本陣山(太閤ヶ平)に陣を構え、その頂上部には最大の高さ5mにもなる土塁とその外側をぐるりと囲む堀という、非常に堅い守りの郭を築きました。

 この跡は現在でも非常によい状態で残っているとともに、ここからは鳥取城をよく見ることができ、当時のにらみ合っていた緊迫感を今に伝えています。

 歴史に「もし」はありませんが、この太閤ヶ平に信長が来ていたら、鳥取城の攻め方も、さらにはこの翌年の、あの「本能寺の変」さえも起こらなかったかもしれません。
  

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